Wikipediaは情報ソースとして怪しいって言うのはみんな知ってると思うけど、本に載っている情報でも怪しいのがあるから、何でも一度は自分の頭で考えなきゃいけないんだって思った話
こんにちは、エッセイではお久しぶりの鶴舞麟太郎です。
ここ最近歴史ジャンルの連載が忙しくて、エッセイを書く方はとんとご無沙汰しておりましたが、皆さんお元気ですか?
で、私、ここ2か月間ほど『南総里見異聞録(※サブタイトル略)』という歴史物の連載をしておりました(※現在次章構想中)。歴史物を書くためには色々と調べなきゃいけないんですが、調べてるうちになんとも釈然としないことが幾つか出てきまして、今回はそれについて書きたいと思います。
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時は2年前、私が『なろう』に投稿を始めたことに遡ります。私は処女作として『漫画『1518! イチゴーイチハチ!』を読み返して気付いたある恐ろしさ。』というエッセイを書きました。これは、「埼玉県の『伊佐沼』は関東第2の自然沼である」という文言を基に、Wikipedia等の記述の怪しさについて語ったものです。
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このエッセイを書くにあたって、上記の文言の怪しさを明らかにするため、私は、関東地方の沼の面積や深度、成因等について調べました。その時、千葉県の印旛沼と手賀沼についても調べたんですが、どちらも『堰止湖』に分類されることがわかりました。
実はこの段階では完全にスルーしていたんですが、後々これが疑問の解決に繋がることになります。
さて、時は過ぎ、昨年の夏のことです。不完全燃焼の状態で当時の連載を終えた私は、リベンジとして、逆行転生の要素を取り入れた続編を書くことを構想していました。それが『南総里見異聞録(略)』なわけです。
で、本作の主人公は里見家当主の長男。里見と言えば水軍です(※これを説明するといくらでも長くなるんで、今回はスルーしてください)。ですから、水軍を活躍させねばと思い、構想を練り始めました。
さて、皆さん、中世以前の関東には大きな内湾が2つあったことをご存知でしょうか?
1つは皆さんもご存知の東京湾です。では、もう1つは何か?
それは『香取海』です。今の利根川下流域に当たる部分と、霞ヶ浦北浦等を併せた水域で、中世には香取神宮が海上交通を掌握していたためその呼び名がつきました。
こんな地図を見たことがある人もいると思います。
利根川の東遷と、浅間山の大噴火による土砂の流入、活発な干拓作業によって多くが埋め立てられてしまい、今では見る影もありませんが、この地には広大な海が広がっていたのです。
当然、水上交易も活発で、沿岸には、千葉氏、小田氏、土岐原氏、大掾氏、原氏、国分氏、大須賀氏、鹿島氏、豊島氏といった様々な大名・小名が居を構えていました。
ここに里見水軍をぶち込んだらどうなるでしょうか?
沿岸の諸氏も水軍を組織していたようですが、あくまで内湾の水軍。外洋も活動範囲に収める里見家とは練度が違うはずです。
「里見水軍を大暴れさせてやるぜ!」
最初の構想で、私はこう考えていました。
水軍の活躍を描くためには、香取海を知る必要があります。
なぜなら、水軍は船を使います。船ですから川も遡れるでしょうが、あんまり浅ければ大船は通れないでしょうし、川幅が狭いと岸から火攻めとかを食らう危険もあります。また、船の利点の1つは大量輸送ですが、川の部分がボトルネックになって、一度に大軍の輸送はできない可能性があります。
現在も湖水が広がっているエリアは良いでしょうが、江戸時代に干拓されてしまったところはどこで、既に海ではなかったのはどこなのかを知っておかないといけません。
そんなわけで、色々と文献を当たってみた結果、見つけたのが『海夫注文』という文書でした。
この古文書は香取神宮大禰宜であった大中臣長房が、1366年に藤原家摂関に宛てて出した文書で、内容は地頭に横領されていた香取海の港や水夫に対する権益の秩序回復命を求める申請書です。
時代的には200年ぐらい遡っていますが、これを見れば香取海の範囲がつかめそうです。
で、調べてみると、霞ヶ浦・北浦近辺と、現在の利根川下流域の多くの港が、掲載されていました。
ところがですね、西の外れは『神崎津』(※地図の△印:見えづらいので、拡大してご覧ください)です。これがどこかと尋ねたら現在の千葉県香取郡の神崎町なんです。ここ、香取神宮のある香取市の隣町で、手賀沼どころか印旛沼の入口にも到達してません。
間違いなく、これより西側にも、布川(※茨城県利根町)や安食(※千葉県栄町)といった港が存在していたはず。なんでこんなに下流(?)で終わってるの!?
疑問が増すばかりだった私は、他の文書に調査の範囲を広げてみました。
すると、
「鬼怒川の河口は鎌倉時代には角崎付近(地図の○印)であった」
→すでに鬼怒川河口は印旛沼の東だった。
「手賀沼や印旛沼の干拓による新田開発を目的として1676年(延宝4年)に将監川(印旛郡栄町付近で利根川と並行している川)を開削」
→“開削”するためにはそこは陸地でないと……。
「金売り吉次の墓が印旛沼の北側(地図の×印付近)にあったが、江戸時代の洪水で流された」
→吉次は平安末~鎌倉初頭の人。墓が作れるということは……。
まあ、証拠が出るわ出るわ! 香取海そんなに広くないじゃん!
そうすると、疑問が湧きますよね、じゃあ、あの地図いつの時代の海岸線なの!?
お答えしましょう。縄文海進の時代です。だから、戦国時代の海岸線はおそらくこんな感じです。
最初の地図が正しかったら、本佐倉城(※千葉氏根拠地)を海(印旛沼)から襲撃する作戦を実施する予定だったんですけどね……。プロットまで書いてあったんですけどね……。
おかげで予定が丸狂いだよ!
関東の湖を調べていた時、霞ヶ浦とかが『海跡湖』(※海が陸封された湖)なのに、印旛沼とかが『堰止湖』(※入口を堰き止められた湖)だったわけが、ここで良くわかりました。
そう、自然科学的には、寒冷化による海退と、鬼怒川運ぶの土砂の堆積で、かなり前に海から切り離されてた、ってのがわかってたんです。そして、それが歴史学に反映されてなかったという……。
くそぅ! 地図描いたヤツ出てこい!!
ついでにもう一つ。これ『南総里見異聞録(※サブタイトル略)』でも疑問を投げかけてますんで、知ってる方もいらっしゃると思います。
さっきの地図に青線で示した川のことです。これ、一般的に『常陸川』と言うそうです。
でも、私、このネーミング、全く理解できないんです。
「え、でも、茨城県と千葉県の県境を流れてるんだから、『常陸川』でも良いんじゃね? それとも『下総川』じゃないと納得できないってか? wwwwwww」
って言う人もいるかもしれません。
まあ、ある意味そのとおりなんですけど、そうじゃないんです。
これじゃあ意味わかんないと思うんで、この当時の国境を地図に表してみますよ。
そうするとこうなります。
見てください。常陸を1mmも流れてないじゃないですか! なのに、なぜ『常陸川』なんでしょうか?
この川についても、調べていくと、『広河』って名前が出てきました。
流域に沼がいっぱいあったらしいので、水量の割に『川幅が広』かったのかもしれません。だから『広河』。これなら納得です。でも、『常陸川』はね……。
ちなみに、『南総里見異聞録(※サブタイトル略)』で読者の方に質問してみたら
「『常陸』の語源は、『直通』(真っ直ぐな道)なので、流路が真っ直ぐだったから付いたのでは?」
と言う回答をいただきました。なるほど、一理あると思います。
でも、だったとすると、なぜ、わざわざ近在の国名を名前にしたのか。これについては理解できません。
「千葉にあるのに『東京出銭ラン○』とか、『東京(独)村』とか名付けるようなもんだ」
こう言われちゃうと何も言い返せませんが(笑)
こちらは、私の予想ではこんな感じで付いたんじゃないかなと。
①鬼怒川(小貝川)下流は、常陸との国境を流れていたので『常陸川』と呼ばれていた。
②利根川東遷で『広河』が利根川の本流になり、鬼怒川は支流扱いになった。
③下流で使っていた『常陸川』の名称が、河川交通に伴って、本流を遡って使われ始めた。
④両者が併存していたが、最終的に『常陸川』は『利根川』との名称争いに負けた。
⑤使用されなくなった『常陸川』が『広河』部分の旧名と認識される←イマココ
あくまで、これは私の予想です。
ですから、誰か真の理由を知っていたら教えてください。本気で知りたいです。
または、利根川東遷前に『常陸川』と記載のある文献を知りたいです。その文献があるなら「『常陸川』は『出銭ラン○』みたいなもんだった」って、腑に落ちますので。
ここまで、色々ダラダラと書いてきましたが、これらの怪しい話は、ネットだけじゃなく、色々な本に記載されてます(県史・市史レベルで、採用されてる物も多数発見しました)。
で、お堅い本にも載せられてるんで、それが今、『事実』として広がってるわけです。
情報が溢れる世の中です。ネット情報を鵜呑みにすることの危険さは周知の事実でしょう。が、しかし、今回触れたように、お堅い史書なんかでも根拠の怪しい情報が掲載されている可能性があるのです。
幸い、情報へのアクセスは、昔と比べると格段に容易になっています。
真実を知るためには、1つの情報を鵜呑みにせず、文献等も含め色々な情報にあたる必要があります。その上で、それを自分で考えて取捨選択していく。このことが、今まで以上に大切になってきそうです。