修行編
今より遥か昔のこと。
世には〈赤梗〉と呼ばれる妖術師が、後の七大国となる世を揺るがす天変地異を起こした。
その強大な力故、人々は手を出すことは愚か、逃げることすらできずにいた。多くの民は日を追うごとに死に絶え、恐怖に怯える日々を過ごしていた。
天に仰ぎ見ることでしか希望を持てなかった天さえも、それを意に介さないかのように、空は鉄黒い雲で光を覆い隠し暗く、今は明け方なのか暮れているのか分からない程だった。死を待つ者、揉まれ踏まれ息絶えた者、精を吸われたようになった者。
人々は悟った。神などいない、救いはないと。そしてこの世を呪う者で覆われた時、七人の宗師が現れた。
彼らは一斉に強靭な妖へ沈めていった。
幾日の時が流れ、遂に妖術師は宗師の前に倒れ世に再び陽が訪れるようになった。
同時に、力をつくした七人の宗師は共にこの世の生を終えた。
人々は彼らを神と称え、それぞれの国へ骸を持ち帰ると御社殿を建て祀った。
そして後に彼らが残した逸話は広がり、七つの大陸は七大国と呼ばれされ評されるようになったという。
それから千と数百の年を重ねた現在もなおその逸話は伝承されていた。
◆
無武-清陵国 御行籠山
七大国の一つに数えられる大国。様々な武術を極めた清陵宗師が祀られたこの国では、雲にも届く山々とどこから流れているか、どこまで続いているのかさえわからないほど続く清い飛泉。いかにも仙人の修行場に相応しい。
風薫る、暖かく新緑が吹き上げる季節、四季が殆ど感じさせない御行籠山では実に風情を感じる季節。
山中に建てらた学舎にその風が通り過ぎると、まさに座学の最中である少年にとって集中力を欠く絶大な影響力があった。窓辺の席で端座していた少年の背中は海老のように丸くなり、頰杖をつくと風が入って来た方へ首を向ける。円窓で造られた窓枠は学舎とは思えないほど、立派でそこから見える御行籠山は何とも風光明媚な景観であった。
思わずくすりと笑いが漏れてしまい、少年が’’しまった!’’と気づく頃には、既に師範はこちらへ全身を向けていた。
「乱楽門下生。私は何か可笑しな話をしただろうか。」
可笑しな話も何も、この乱楽少年は話は聞いていなかったのでそんなこと分かるわけがなかった。
しかしこの季節、決まって同じ話をする事は知っていたので直感を頼りに答えてみた。
「いえ、ちょうど赤梗の悪鬼羅刹を終戦に導いた元祖宗師の話を聞いていたら、今のこの壮観な眺めは拝めなかったと思いに耽っていたところです。」
周りはくすくすと笑い、師範もうまく言い逃れおってという表情を浮かべるとそれ以上何も言っては来なかった。
「乱坊は本当に、逃げるのが上手いな!」
座学が終わると、同じ15の歳なのに童の扱いをしてくるのは同じ学友の長明だった。
「乱坊はやめろ。あの堅物は毎年同じ話をするんだ。ま、間違ってたところで、俺に座学は関係ないけどな!」
にししと歯を大きく見せて笑って見せると、さらに後ろから呆れた声で話しかけて来る声がした。
「何が関係ないんだ。お前は家の家臣に仕える身なんだぞ。少しは振る舞いを考えて欲しい。」
乱楽はその声に、今度は口に苦い虫が入ったような形相になり半分だけ身体を振り返った。
横目に映るのは、我が仕える主人こと清陵本家、現当主の息子。次男坊の作楽殿だ。
その容姿は、同じ歳とは思えないほどすでに整っており、艶やかで白い肌に、少しの鋭さを感じる双眸は正直女性なら一瞬で虜になってしまうだろう。
乱楽は、ここにも堅物がいたといつものように適当な返事で返した。
「乱楽、その態度は従者を欠いていますよ。」
葉が舞うように穏やかな声に乱楽はまた、パッと明るくなり今度こそしっかりと振り返る。
琳惹姉さん!と本日一番の声を上げ、「無礼をお詫びします!若様」などとわざとらしく作楽に近寄りに行く。どちらにせよ無礼な態度に、持っていた書冊で制していたが、面倒くさくなった作楽はこのひっつき虫を剥がすことさえどうでもよくなった。
肩に腕を回し横に揺れながら回廊を歩く姿は、結局主従関係を感じさせないものだった。
⦅清陵本家⦆
先ほどまでいた学舎は、平家の造りで山の景観を大切にした色味でひっそりと存在するように建てられていた。
それとは異なり、山の中でも劃然と存在感を発揮させていた。
数十段はある階段を上がると、左右に立派な武神像がお出迎えする重門がある。
乱楽は10の年になる頃から、この立派な門を通っていたので圧倒されるということは既になかったが、それでもやはりこの国では最も威厳と風格のあるそれはいつ見ても目を奪われる。
門の両脇には、守衛が立っており作楽と乱楽の会話する声がはっきりする距離になると「お帰りなさいませ」と両腕を胸元まで持っていき拳を包み礼をした。
「ご苦労。兄上はいるか。」
作楽が尋ねると、守衛の一人が答える。「先ほど昼餉前にご帰還されました。今は、君主と香の間でお休みを取られているかと。」
そうか、と返事をすると若干蚊帳の外になっていた乱楽と共に、重門をようやく過ぎた。
「泉兄帰って来たんだな!土産話が楽しみだ!」
白水泉、泉兄は作楽の五つ年上の兄君。作楽と変わらず、美しい容貌に加え、清陵家でも次期当主としての器にそぐわぬ実力を持っているという。あまりにも美しい武芸のため、普段は拝むことすらできず宮中から出回る噂でしか、一般人は話を聞くことができない。
そんな、白水泉兄はというと清陵家を継ぐ気は全くなかったのだ。というのも、「世を渡りたいという」素朴な理由だった。当時、その話が持ち出された時は国中で騒ぎとなったが第二のご子息、作楽のなんら劣らぬ様相を拝顔すると騒動はそのうちに鎮まっていった。本家の血統は素晴らしいなと、乱楽は自分の事のようにそれはそれは誇らしかった。
「お前が欲しいのは、話ではなくこの地には出回らない、珍味だろう。」
御行籠山は本当に美しい山々で、修行だけでなく心を癒す場でもある。いつまで居ても飽きないが、それでもやはり外の想像ができない領地に関心がない者などいないだろう。外へ行けば見るもの食べるもの、話すことさえ全てが物珍しい。
「珍味もだ!そんな事を言うなら、作楽殿下への土産はこの従者めに下賜してくれるのですか?」
「するわけないだろう。私は、次期当主として見識を広く持っていなければいけないからな。珍味も知っておかねばならん。お前などにやるか。」
このお坊っちゃまは、堅物仮面にたまにヒビが入る。本当は、乱楽同様に兄の帰還や土産に嬉々としたいところだが、一度作ってしまった仮面をここ数年は全く外せなくなっていた。そのため、感情が滲み出ると表情はさほど変わらないが、言葉では分かりやすく現れるようになった。
本人は、自覚していないが長年お共にしている乱楽はもちろんある程度作楽と関わったことがる人間には、バレバレなのだ。その姿は、あまり感情が分からない人々にとって、微笑ましいものだったので話を合わせるように、誰も彼もが口を合せた。
乱楽も同様に、普段定規でつまらないと思っている作楽の緩む姿は嫌いではなかったので今回も、そうですかと少し口角を上げながら返事をした。
門をくぐり、下らない会話に作楽を付き合わせながら、広い宮内を歩き進め正殿より左側の突き当たりにようやっと着いた。
香の間 ー 殿では部屋の名前を欄間の絵で見分けをつけるようにしていた。しかし、この香の間だけは、ただ襖だけが置かれ、美しいどの欄間よりも存在感を発揮していた。中は他の部屋と変わらぬ様相で、翡翠の色と白を貴重にした部屋だった。
作楽の従者である乱楽は、この部屋に何度も入ったことがあったが、宮中で働く者が皆入れるわけでは無かった。
そのため宮中にいる者たちの多くは、香の間を宝庫と呼ぶものや、人に見せられない何かを隠しているのではと噂する声が絶えない。日頃、修練ばかりで少々退屈にする人の中では、相当な春画が実は隠されていると盛り上がっていた。
実際に確認した乱楽から言わせれば、相当な春画は存在していなかったため、それを聞いたら彼はつまらなく思うだろう。
などと言う事を思い出していると、作楽が「兄上、作楽です。」と香の間にいる者へ声を発する。
声がしてすぐに、向こうから戸を開けられ、作楽に兄上と呼ばれる者が立っていた。
「久しぶりだね、作楽。」
乱楽は自身にあびた言葉では無かったが、数年ぶりに聞いた声は少し低くなり、背もこちらが少々ばかり見上げる程に高く立派になられた白水泉殿の風貌たるや、今日学舎で見た景観よりも遥かに美しく感じた。