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バカンス・オン・ザ・ビニールプール

作者: 白米

ベッドに投げ捨てた水着。


さらに、その上に自分ごと投げ捨てた。


電気も点けずに靴だけ脱いで部屋に上がった。


通勤バッグも廊下で乱暴に落としてきた。



主人の到着を察知して、テレビが勝手に付きやがった。


最新テクノロジーなんて買うんじゃなかった。


優子は内心毒づいた。


今はなにものにも存在を悟られたくないのに。


消したくてしようがなかったけれど手動で操作するのも煩わしくて、そのままにしておいた。


暗い部屋に、人工的な色と音だけが反響していた。




部屋が暑い。




日暮れ後に家に帰っても、日の出ているうちにガラス窓から差し込んできた熱を逃しきれていない。


首元にじっとりと汗をかき始めて、ベッドからベランダの窓に手を伸ばした。


開けたところでねっとりとした大気を感じただけだ。


今日も熱帯夜か。




風と呼べるような爽やかさは一切ない。




ストッキングを早く脱ぎたい。




化粧、落とさなくちゃいけない。




CMの声が耳に喧しい。


『サイパン五日間の旅、H○Sなら今がお得!!』


バチン。


今度こそテレビを消した。


蹴り飛ばしたい、この嫌味なテレビ。


代わりにリモコンを乱暴に投げ捨てた。


役割を失った新品の水着を捨ててしまうことも、約束の守れない彼にきちんと怒ることも、何一つ、自分の満足いくようには出来ない。




別に今回だけが特別ではない。


そもそも約束が約束通り果たされたことなどほとんどない。


だからもう、ここ最近は「約束」そのものをしなくなった。


平日は基本的に時間が読めないのでうちに来てご飯を食べるか、たまたま時間が合ったらその辺の居酒屋に入るだけ。


レストランで予約なんて店に迷惑をかけるだけだからしない。


土日にまとまった時間がとれるかどうかも直前にならないと分からないから、終日出かける予定なんて立てたことない。




別に、素敵なレストラン行けないことが、休日にどこにも一緒に行けないことが、嫌なのではない。




予定を空けられると思って約束していてくれても、取引先の急用が入ればそちらに合わせるしかないのも分かっている。


それは仕方ないことだと思うし、頑張っている姿は尊敬している。


仕事より女を優先する男なんてむしろ嫌いだ。


ただ一方で「約束」のために空けた時間を空白のまま過ごすことが辛かった。


突発的に、タイミングが合ったときに、と言いつつマメに連絡をくれるから、それでも割と頻繁に会えている。


だからこれまで続いてきたのだと思う。


けれど、世の中の各種イベントが近付く度に、心穏やかでない自分がいるのも真実だった。




そんなこんなでかれこれ五年、まさか旅行の話なんて自分からは持ち出さない。


遠出したいときは、友人たちと企画する。


言い出したのは彼だった。


疲れ果てて帰ってきた彼が、いつものように遅い夕飯をうちで食べていたら先のようなCMが流れたときに、ぽつりと呟いた。


「どこか、誰にも邪魔されずに二人でのんびりできるところに行きたいね」


彼からの申し出が嬉しかった。


だから頑張った。


準備は全て引き受けた。


半年前から計画して、彼の部署の繁忙期を避けて、有給を取らずに行ける連休にかなり前から予約して。


そうしたら彼が、土日祝日前後の二日間の休みがなんとか追加でとれそうだと言い出した。


さらに喜んで一泊追加で、三泊四日に変更して。


自分の仕事も前倒しで詰めつめのスケジュールながら片づけて、調節して休日を確保した。




そして出発前日に来た連絡が、


「ごめん、仕事入って行けなくなった。キャンセル料は俺が出すから。」




ラインでそれだけ。




 ベッドから勢いよく身体を起こして、ベランダの窓を閉めにいった。


 ガラスに映った顔、なんて惨めな。




感傷に浸ってふっと口の端だけで笑ってみた。


演技がかった自分の様子に、なおさら惨めになった。


枕元のリモコンを拾うと、頭上のエアコンに向けた。


稼働する機械音を聞いてからカーテンを強く閉めた。




帰ったら使うつもりで冷やしておいた美白パックを、自分のためだけに使った。


シンクの下の棚に買い置きしてしまってあった、彼のよく飲むブラックニッカの封を開けて、これもまた買っておいた大きめの氷を入れて、辛口のジンジャーエールを注いでテーブルに置いた。


先程投げ捨てたリモコンを拾って自らテレビを付け、深夜番組を観ながら声を出して笑った。


白いマスクをそっと剥がして頬を触ってみた。


ひんやりとした肌がじわりと手のひらに貼り付いて、頬がもっちり伸びる。


ひとり鏡に向かってにっこりしたら、寂しさが込み上げてきた。


ボトルが半分になったところでベッドに改めて身を投げ出した。


クーラーを予約設定にして、薄手のタオルケットにうずくまって身体を丸めて眠りに就いた。


社会人として働き始めて五年目。




知り合ったのは、七年前。


内定が決まる更に前の、会社説明会の帰り道。


最寄りの駅にある居酒屋にひとりで入ろうとしているところを見つかった。


リクルートスーツに身を包んだ者同士の不思議な親近感と、説明会で行われたブレインストーミングで活性化されたソーシャルスキルも手伝って、立ったままのカウンターにも関わらず二人で終電近くまで喋り続けた。


自分自身の未来への展望、学科での専攻科目、お互いの現在の人間関係の愚痴。


思えば初対面の人と二人きりでお酒を飲むなんて、これ以外は後にも先にもない。


特に連絡先も交換せずその日はそのまま別れたが、内定者の集いで再会したときには二人同時に大声で指をさし合った。


配属先は違ったが、お酒好き、漫画好き、お笑い好きで、入社してからも同期の中で一番に仲の良い友達になった。


「説明会帰りに一人で立ち飲み屋入る女なんて、絶対面白いやつだろうなと思って」


優子との出会いを人に訊かれると彼は必ずそれを言う。


カーテンから差し込んできた直射日光の痛々しさで目が覚めた。


夜寝ている間に、無意識のうちに窓を開けて扇風機も回していたようだ。


眠っていても暑さから身体を守る本能は働いている。


時計を見るとすでに午前中は終わりに近い。


緩慢な動作で風呂場に行き、シャワーを浴び終えると正午を回っていた。




ドライヤーを使いながらふと足元を眺めると、カラフルな布地が目に入ってくる。


昨日そのまま下敷きにしていた水着をベッドの足元から引っ張り出した。


まじまじと眺めてみる。


鮮やかなオレンジとピンクが主に使われたペイズリー柄の3ピース。


「せっかく可愛いの、見つけたのになあ」


独り呟いて水着を掴んでからタラタラとした足取りで全開のトランクに近づく。


デニムのホットパンツに、インド綿のワンピース、ヒールの高いサンダル。


ひとつひとつをゆっくり眺めるように取り出していった。


仕舞わなくちゃ。


今日は一日、こうして使わずに終わった旅行のお供たちの片付けをして終わるのかしら。




 そんなのは、ごめんだ。


勢いよく立ち上がると台所へ向かった。


冷蔵庫から取り出した海老を軽く茹でつつアボカドを切る。


ワインビネガーとオリーブオイルで和えて、バジルをまぶす。


クリームチーズを塗ったバタールにそれらを挟んで大きめの皿に並べた。


作り置きのセロリとヤングコーンのピクルスも一緒に盛りつけた。


水着に着替えて、パソコンデスクにある椅子をベランダに出して、踏み台にバスタオルを敷いて足置き場を作った。


肌にオイルを塗りたくる。


この休みの間家から出なかったなんて誰にも悟らせてなるものか。




買ったままになっていた小説を五、六冊出してきた。


ミニテーブルに置いてあった灰皿は片付けて、その上に冷えたビールとツマミを置いた。


学生時代から持っていて捨てられない古いミニコンポも持ち出して、FMを小さくかけた。


ラジオを流すのなんて受験期ぶりかもしれない。


いったい何年前のことだろう。


案の定、調節に手間取ってしまう。




まずは手頃な短編集を手に取ると、缶ビールを開けてセロリを喉に押し込んだ。


北極星をタイトルに冠した、愛にまつわる話だとか。


この人の語る「愛」は、所謂「恋愛小説」らしくなくてそこが気持ちいい。


人の、恥ずかしくて他人には見せたくないところとかが、控えめな温度で書かれている。


強めの日差しが紙に反射して少し眩しい。


読み進めながらゆっくり飲んでいると、半分を過ぎる頃にはビールがぬるくなるどころか、缶が熱をもってしまっていた。


ふと手元から目を離してなんとなく空を仰ぐ。


本を読んでいても思考の半分は別の方向へと働いている。




つきあい始めが何時だったか、正確には覚えていない。


気付いたら、彼女、と紹介される様になっていた気がする。


初めは冗談かと思って、それでも嬉しかったから否定しないでいたら本当に彼女になっていたようだ。


友人であるときも、恋人になってからも、二人の会話の温度は変わらない。


くだらない話が基本。


変わらない、というよりも優子自身が望んで変えないようにしていた。


彼の方から甘い会話のような展開へ持ち込もうとするときもあるのだけれど、どうしてもむず痒くなって、冗談めかして避けてしまう。




就職して三年目、同期の女の子たちが大勢やめた時期があった。


ボイコットに近い形で、集団で休んでいたことがあったかと思ったら、皆結婚やら転職やらでぱたぱたと離れていった。


どうやら上司に問題があったとかなんとか、しかし、違う課の人間だった優子には会社経由ではあまり詳しいことは伝わってこなかった。


彼女たち自身は同じ部署同士で、配属されたオフィスの所在地も異なっていた。


定期的に集まっていた同期会ではそんなそぶりを見せず、いつも通りの笑い話と噂話に花を咲かせていたのに。


何が起きていたのかまったく知らされていなかった、最後まで。




なんとも言えない苦々しさが、肺のあたりを侵食していくような感覚だった。


自分たちの関係は所詮ただ会社で知り合った、利害関係でしか勘定されない他部署の人間ということだったのだろうか。


同期の飲み会も会社にいる間の義務でしかなかったのだろうか。


相談されるような価値もない、当たり障りのない付き合いだけの関係だったのだろうか。


少なくとも優子のほうは、それ以上の、悩みや課題を共有し合える仲間なのだと信じていたのに。




取り残されたような寂しさと、今までのかかわり方をすべて無視されたような虚しさが澱のように、心の底に淀んだまま日々を過ごした。


その時期彼はとくになにか口を挟むでもなく、ただ優子と一緒にいてくれた。


その頃から、優子の家に夕飯を食べにくる習慣ができた。


一人だと何も作る気にならなかったし、食欲もなかったから、食事をきちんとする為の理由を作ってくれることがうれしかった。




そして、言葉に出さないままの彼なりの思いやりが心に沁みた。



この人とずっと一緒にいたいと、最初に思ったのはこの時だった。


気づけば区役所の方角から、平べったいチャイム音の「夕焼け小焼け」が流れていた。




いつの間にか眠ってしまっていた。




椅子に座ったままおかしな姿勢で眠っていたからか背中が少し痛む。


かけっぱなしだったFMが、この蒸し暑い季節に寒い夜の歌を押し付けてきた。


動く気にもなれず、そのまま筋肉を弛緩させて再び目を閉じた。


季節外れの曲も悪くない。


変に感情移入しなくていいから心が余計に波立つことはない。




陽も暮れかかっている。


マンションの裏側を流れる小さな川から、夜の涼しさをはらんだ風が流れてくる。


寝ている間にかいていた汗が引いていく感覚が、心地よい。


 何気なく鼻の頭を掻いて、皮膚の表面がピリリとした刺激を受ける。


 はっとして、がばりと体を起こした。


 慌てて洗面台に向かい鏡を見ると、火照ったように赤い自分の顔が見返してきた。


 反り返って背中をみると、朝と変わらない白さ。


「…表しか焼けていない!」


うたた寝の結果、片方だけが今にも皮が剥けてしまいそうなほど焼けている。


そもそも背中のオイルを塗るのを忘れていた。


体の向きを微妙に何度も変えながら、必死で背中を見ている赤ら顔の自分と目が合って、そのあまりの形相に自分で吹き出してしまった。


「ばっかみたい。ミディアムレアか。」


声に出して自分をつっこむ。




この状況を報告しなくては。


反射的に顔を思い浮かべてから、そんな自分を自嘲的に笑う。


でも、きっと話したら、馬鹿だねえと笑いながら面白がって喜んでくれると思う。




ああ、会いたいな。


素直にそう思った。


面白いことがあったら、共有したい。


そして笑ってほしい。


私の話で笑う顔が見たい。


私が今日、感じたことを一日の終わりに話したい。


楽しいこと、腹が立ったこと、うれしかったこと、落ち込んだこと、新しい発見。


教えてほしいし、分かってほしい。


ほんの些細な日常の変化を伝えたいし、知りたい。




そんなこと、本人に言ったことないけれど。


言えたら、かわいい人になれるのだろうか。


それとも面倒くさいと思われるだけだろうか。




今現在の私を、一体どう思っているのだろう。




聞きたいこと、話したいこと、たくさん積み重なっているような気がするのに、一度も話せない。


一緒にいる時間には本当にそれらを話したいとは思わなくなってしまう。


会えない時間に積もり続けた不安やら欲求やらは、会った途端にその在処をまるで見失ってしまって、どこから取り出したらいいのか全然分からなくなってしまう。


そしてまた会えない時間になると、その不安は、会う前の状態とすっかり同じ重みで、私の体の上にだけ、そっくり帰ってくるのだった。


消化することのない不安が、解消されない胃もたれのように日に日に積み重なっていく。




今度は、眉根がしょんぼりと下がってしまった自分と目が合って我に返る。


わざとらしく頬をぺちんと叩いたら、焼けた肌にいつもより痛みが沁みた。


洗面台に来たついでに低温でシャワーを浴びる。


肌の火照りが癒されていく。




以前毎日食事に来るのが当然になった頃、同棲を匂わすことを彼が口にしたことが一度だけあった。


気恥ずかしさからすぐに話題を変えてしまった、その時の曖昧な空気を今でも覚えている。


あの時に真剣に向き合って話し合っていたら、現在の関係も少し違ったのだろうか。


一緒に住んでいたら、会えない時間に降り積もる鬱屈した感情に振り回されることもなかっただろうか。


話を逸らした自分を思い出して居たたまれない気持ちになる。


こんな風に、ちょっとした過去の一瞬いっしゅんの後悔が一度にフラッシュバックすることが、ときどきある。


シャワーに打たれながら、その場にうずくまった。


数秒膝を抱えてみてから、背中にあたる水圧を押しのけるように勢いよく立ち上がって、浴室を出た。




たぶん、問題はそこではない。


一緒に住んだら住んだで新たな不安は出てくるだろうし、頻繁に会えたとしてもまた別の不安がやってくるのだと思う。


問題は、いつも自分の心の持ちようから生まれている、きっと。




髪をくしゃくしゃとタオルで拭きながら着替えを取り出そうとしていると、床の端っこ、クローゼットの隙間からしわくちゃになったビニールの塊がはみ出しているのが目に入った。


 コンクリートの上で優子の携帯が小刻みに震えて音を立てた。


 震えがおさまらないので電話だと気付き、慌てて手をタオルで拭って腕を伸ばす。


 真っ暗な中で青白い画面に表示されているのは恋人の名前だった。


一瞬ためらってから通話をタップすると、向こうもまた一瞬の間をおいてから『おう。』と一言つぶやいた。


 電話をかけたのは向こうなのに何を驚いているのかしら。


「こんばんは」


『…こんばんは』


「なに」


『…電話出ないかと思った』


「答えになってないですけど。出ないほうが良かったですか」


『あ、いや、そうではないのですが…』




息を詰めてしゃべる彼の様子をきいていたらだんだんとバカバカしく思えてきた。


責めるよりも、喧嘩するよりも、私は今、この人と楽しく話がしたい。


だって今日一日、寂しくてしょうがなかった。


それがいつも、会ってない間の気持ちを話せない理由。


それの、何がいけないんだ。




「夜は帰るでしょ?」


『え?』


「夜ぐらいは仕事しないで休むんでしょ!?」


『あ、はい!休みます!』


「じゃあ、ウチに来て。」


 それだけ言って電話を切った。




一時間後、隆俊は一階のモニター前でインターフォンを押していた。


しかし返事はない。


夏の夜といえどすっかりあたりは暗かった。


勝手知ったるマンションとはいえ礼儀だろうと思い、優子がいるときは必ず正面入り口で来訪を伝える。


鞄に加えてコンビニ袋を提げているので、鍵を出すのが面倒くさいというのもある。


しかし対応してくれないこともまた日常なので、仕方なく合鍵で正面ドアを開けた。


部屋の鍵も開けて中に入るが中は暗かった。


声をかけるが返事もない。


電気をつけると姿はなかった。


風呂場にもいない。


もう一度電話すると『屋上に来て、階段使って』とだけ言われてすぐに切られた。


しばし呆然と部屋の真ん中で立ち尽くす。


このマンション屋上なんてあったのか?


ふと足下の洋服のかたまりに気付く。


荷物が半分解かれて、でも中身がぐちゃぐちゃと入ったままのトランクが、リビングに陣取っていた。




屋上までの階段を、少し息を切らしながら登りきると重い鉄の扉を押し開ける。


ドアのきしむ音で振り向いた優子はご機嫌の声で「よーーう!」と手を挙げた。




外の暗さに慣れてくると優子がいる辺りの黒い影の様子がわかってきた。


水着姿で丸いものに入っている。


「なにこれ、ビニールプール?」


手にはワイングラスだ。


「いいでしょー、これ」


「いやいや、なにしてんの」


「めーっちゃ良い気持ちよー。プールに入って晩酌。今日は休暇ですもの、楽しいことしなくちゃ。私はきちんと有給取ったんですもの。有給もきちんととってきちんと休む、現代の会社員の鑑ですもの。いいでしょー」




優子のテンションを理解し始めると、隆俊も調子を合わせてくる。


「俺の水着ないの」


「知らないよ、そんなもん」


つんと横を向くしぐさをしてみると、急に思いついたような顔でスーツをその場で脱ぎ始めた。


「馬っ鹿、こんなところでパンツなんないでよ、ヘンタイ」「露出狂」


「お前の格好と大して変わんないだろ、暗くて見えないし」


「部屋まで戻るときどうすんのよ!」


ばしゃっと音を立てて隆俊もプールに入ってくる。


「うお、浅い。風呂より浅い」


優子のご機嫌を少しでもとろうと買ってきた缶ビールに自ら手を伸ばし、プルタブを引き上げた。


「あっそれ私に買ってきたんじゃないの?」


「ワイン飲んでんじゃん」


むっとした顔を作ってから両手で水をかける。


耳に当たったらしく、動揺した隆俊はビールでむせ返っている。


げほげほと咳込む隆俊をみて、声をあげてゲラゲラ笑ってしまった。




濡れた肌が夜風に気持ちいい。


「こんなの、なんで持ってたの」


 落ち着きを取り戻した隆俊が訊ねる。


「前に姪っ子が遊びに来た時に使ったやつ、実家から預かってたんだー。なんか倉庫がぎゅうぎゅうだからとか言って荷物置き場にされてんの、うち」


「あー、あっちゃんだっけ。今いくつになったの?」


「今、四歳」


「もうそんなかー、俺生まれたての時に一回見ただけだわ」


「お姉さんいくつだっけ」


「三十二」


「ふーん…」




会話が少し途切れて、空を見上げる。星はほとんど見えなかった。


「ねえねえ。見てこれ」


携帯の灯りで自分の顔を照らしてから、焼けた部分と背中の境目を見せた。


ぶはっと彼の吹き出す音がする。


「何これ」


「ベランダで水着着て昼寝したらこーなった」


「前と後ろで色違い過ぎ。生焼けが美味しいの?高級牛?」


予想通り大笑いする彼をみて、一緒になって笑った。


目尻にも口元にもたくさんの皺が出来る、この人の笑い方がたまらなく好きだ。


笑ったせいか、涙が出てきた。


目元を拭いながら、ワインをまた一口飲んだ。





彼は笑いながら一度プールから出て、スーツの上着を広げてごそごそしている。


もう上がっちゃうのかしら?


彼の後ろ姿を見て呼び戻したい気持ちがぐっと上がってきた。




もう少し、こうして遊んでいようよ。


彼に気付かれぬようにほっと息を吐いてから、空になったグラスをプールの脇に置いた。


彼は、ビニールプールの外側に手をかけて優子の正面にしゃがみこんだ。

「今日は本当にごめん」


急に改まって真面目な顔で謝られると、なんだかむず痒くて困る。


優子は少し目線をそらして曖昧に笑顔を作った。


いつもならいーじゃん、もう、と言ってそれ以上の話は聞かなかった。

そのまま横を向いて黙り込む優子を、隆俊は何も言えずに見ていた。


「守れもしない約束なんかしないで」

横を向いたままの優子のセリフに小さく息をのむ。


「て言って責めるのと、何にも気にしてないよーって笑うのと、どっちがいい?」


「…優子が本当に思っているのはどっちなの?」


「んー、分かんない。どっちも?」


隆俊は首をかしげる。


「本当だよ。会っていない間はなんでこんな目にーってずっと隆俊のこと責めているの。

会うとどうでもよくなっちゃう。

さっきまでのことを責めるより、今一緒にいる時間を楽しくすることのほうがいいじゃないって思うから、何も言う気がなくなる」


「、、、そっか」


「だから責められない。責めたくない」


「だから、私が責めなくても隆俊から、本当は一緒にいられなくてむちゃくちゃ残念だし俺もむちゃくちゃ寂しいんだよ本当に!って言ってもらえるのが一番うれしい」


「うん」


言えた。


ほっと息をつく。

考えていたことを初めて伝えられたような気がする。


隆俊が腰を上げて、もう一度プールに入ってきた。

優子も体の向きを変える。


「職場でさあ、優子の話をするとさあ、出来た彼女だなっていつも言われて。

こんな理解のある彼女いねーぞって、俺鼻高かったんだよね。」


そう言いながら片手でビールの続きを口にしている。


「でも、そしたらこないだ上司にさ、お前ちゃんと感謝してんのかって。

分かってくれているだろうって思っていると愛想つかされるぞって。

ちゃんと表現しろって言われて」


「さすが人生の先輩ですね」


「うん、すごい人だよ。偉そうにしてなくても、みんなが自然と尊敬して集まってくる人」


職場の話は珍しい。

いつも後ろめたさからなのがあまり話してくれない。


何だかいつもより近くにいるような気がする。


「まあ俺は若輩者なので、言われなくては気づけないのですが」


と、言いながら優子の左掌に右手をポンと置いた。

彼が手を放すと、小さな包みが掌の上に残されていた。


「…誕生日おめでとうございます」


「…半年前ですけど」


「…ごめん、なさい」


「忘れていたんじゃないんだ」


「きちんと祝おうということに拘っていたら、この半年一度もそんなタイミングは訪れませんでした...」


包みをあけると、小さなチャームが品の良いネックレスが入っていた。


「きれい、ありがとう」


「本当は旅行で渡そうと思ったんだけど。ほんとにごめん」


「あたしが全部準備した海外旅行で?」


「そう、彼女に準備して貰った海外旅行で。かっこわるいだろ。」

「しかもそれすらまともに実行できてねえし。ほんとしょうもないけど。

でも、そんなのでも良いって言ってくれたら、この先もなんだってするよ」


「うそだ」


「え?」


「なんでも、なんて絶対してくれないね、てかしたくても出来ないと思う」


不満げな沈黙。

抗議したそうな彼。


「そんなこと出来るほど器用じゃないでしょ?」


彼が静かにうなずいた後、会話が少し途切れた。

何となく空を見上げると、月が思いのほか丸くて大きい。


「明日、海行こっか。一日減っちゃったけど、明日からは予定通り休みがもらえたんだ」


「ほんと!?」


「国内だけど」


「行く!」


「優子のこと裏返して、こんがり焼き上げないとね」


「やば、そうだった。やだなあ、こんなんで海行くの。やっぱ明日はウチにいようよ」


「やだ、絶対行こう。人目に晒そう」


水を思いっきりかけた。かけかえされた。

二人して咽せた。


近所の迷惑とか、そういうことを忘れて大声で笑った。


二人は海沿いの下道を車でゆく。


ガラス越しで声は聞こえない。


分からないけれど、なにか笑っている。


他の車は、前にも後ろにも見当たらない。




滑らかにタイヤを走らせて、二人は海へ向かう。

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