獣妖精。
※
「それで?彼らの根城は崩せそうなのかい?」
協力者(表向きは敵対している)である辺境伯の別邸で、美味しいお菓子とお茶を頂きながら、俺は男爵領から戻ってきた深淵に笑いかけた。
彼は横抱きにしていた女王を降ろしてフードを外すと、腰をポンポンと叩きながら「重かった……」と愚痴を零す。すぐに飛んだ彼の頭を眺めながら、そういう無神経なところが駄目なのではないかと紅茶を啜った。
「今、は、戦舞姫と天変地異が抑えてるし、しばらく、は、混乱してる、と思う。それから、そうちゃん、をお願い」
「まぁ、俺は構わないけど?」
ちらりと隣の女王を見る。ご機嫌斜めの女王は、本当は留守番なんぞしたくはないのだろう。ひしひしと伝わってくる。それでも彼が女王を置いていくのは、それなりの理由があるのだろう。
まぁ、頭を拾い上げた彼が、その理由に気づく様子は微塵たりとてないのだけど。
「それよ、り」
あぁ、小言言われそう。
「ボクを足、に使うのは、いい、けど、お金の無駄遣いは、駄目って言った、よね」
「無駄じゃない。少年たちへの投資ですぅ」
「……そんなに怒らせたいの?」
「違いますぅ。君も最近、野菜足りてないんじゃないですかぁ」
口を尖らせて言い、それから俺はため息をついた。別に彼は、本気でお金についてとやかく言っているわけではない。まぁ、少しはあると思うけど。
それよりも、あれだ。彼が怒っているのは、別のことだ。
「やっぱり、今からでも勇者くんたちを迎えに……」
「それは駄目だよ」
間髪入れずに止めた俺を、彼は少し気に食わないと目で訴えてきた。
「君が彼らを心配しているのはよくわかってるし、もちろん俺だってそうだ。でも、俺はあの子に、家を、故郷を、失くしてほしくないからさ」
俺はカップを置いて立ち上がる。
誰にも、何者にも、もう何かを失ってほしくなかった。
「侵略するのは簡単さ。特に深淵、君と俺がいれば、ね。でもそれじゃ、あの街の昔の光景を見ることは永遠にないだろうし、何より俺は」
目を閉じて、十年前の、あの旅路を思い出す。
賑やかな商人の声と、そこらじゅうから漂う磯の香り。その中に混じって、焼き魚やホタテの美味しそうな匂いもするんだ。
「俺は、またイカ焼きが食べたいからさ」
そう、あれをまた食べたいのだ。あの、賑やかな、港町で。
※
下水の臭いにも慣れだした頃(慣れたくないんだけど)、武闘家が「この上です」と梯子の前で立ち止まった。梯子というには少しお粗末で、壁に棒がいくつかついているような、そんな梯子だ。
「これはどこに繋がってんだ?」
「お庭の隅にある花壇の中です。有事の際には、そこを通って逃げるんですよ」
「今回は潜り込むわけだがなー」
魔法使いが棒に手をかけて、少し強めに引っ張った。錆びついているけれど、折れることはなさそうだ。
「オレが先に行く。合図したら登ってこい」
「わかったよ」
緊張した表情の勇者が頷く。流石の能天気も、今日だけは発揮しないようだ。
カツンカツンと音が響いて、続いて何かをずらすような鈍い音がした。それからしばらくして、魔法使いの「ゆっくり上がってこい」という声がして、勇者から登っていった。
やっと新鮮な空気が吸えた頃には、もう月明かりだけになっていた。だいぶ下水を彷徨っていたらしい。
「空気がおいし~のです~」
エルが肩車されたまま伸びをする。いつもなら寝てる時間な気もするけれど、臭さでそれどころではなかったみたい。
てか鼻に染みついた気がして、自分がとても臭い気がする。
「空気がうめーのはいーが、これはまずいな」
「何がだい?」
「お出迎えが来るかもしんねーってことだよ」
魔法使いの言ってることがわからず、勇者が辺りを見回していると、どこからか犬の遠吠えが聞こえてきた。
それは静かだった庭に響いて、その遠吠えが終わる頃、違う場所から何か別の獣の咆哮が響いてきた。その二つに輪唱するように、また別の咆哮が響く。
なんだ?まるで会話しているような。
……会話?
「ゆうちゃ!くる!あぶない!」
懐から叫んだ僕に、勇者が聞き返すよりも早く、それは空から降ってきた。
どうやら領主の家の屋根に乗っていたそれは、僕たちを見ると、嬉しさを表すように長い鼻を左右に振った。
「獣妖精……!」
勇者が剣を抜く。
魔法使いが杖を構える。
僕は懐から飛び出して武闘家の頭に乗った。
「ぁう、う、おんなぁぁあああ!おで、の、おんなぁぁあああ!」
狂気が入り混じった叫びを上げて、その獣妖精は僕たちに向かってきた!武闘家とエルの声にならない叫びが耳にキンキン響く。
その巨体を生かした勢いのある右ストレートを、魔法使いが杖のしなやかさを利用して受け止めた!相変わらずあの杖の素材が気になるところだけど、もうこの際どうでもいい。
「くっ……!」
踏ん張る魔法使いの足元が地面にめり込む。
受け止めたことより、地面のほうがその重さに耐えられなさそう!
「魔法剣・焦土!」
魔法使いの後ろから、剣を横に構えた勇者が飛び出した!
剣にまとわりついた炎は、薙ぎ払われると同時に、獣妖精の身体を赤く焼く。ズドンと大きな音を立てて倒れた獣妖精を見て、勇者と魔法使いはお互いの拳をぶつけ合った。
「腕上げたじゃねーか」
「特訓のお陰だね」
やっぱり特訓してたのか。くそう、なんてこった。
尚更勇者から離れないように、これからは更に監視を厳しくしないとと思って、僕は武闘家の頭から飛び降りて、勇者へと跳ねていく。
「ゆうちゃ!」
「フロイ!」
爽やかに笑う勇者。なんとも憎い笑顔である。と、振り返る勇者の背後に、黒い影が揺らめいた。
それは倒れたはずの獣妖精で、そいつは雄叫びを上げると、その長い鼻を左右に振って、勇者と魔法使いを弾き飛ばしたのだ。
地面に転がる二人をほっといて、その獣妖精はうわ言のように「おで、おでの……」と近づいてくる。そいつの歩く先には僕。
あ、これ、潰される。
大きな影と、大きな足の裏が見えて――。
「フロイーーー!」
そんなに叫ぶなよ。
耳に、響く、じゃ、ない……か……。




