別れ
チャットの模擬委員会は初めての俺でも発言できたし、ユウキさんが世話してくれたお陰か、メンバーが皆親切で楽しく参加できた。
面白かった、と後でユウキさんに連絡したらとても喜ばれた。
次の月曜日、10時10分前に事務所に行ったらオニオンスープのにおいがする。
いつも早いソウさんだけでなく、ユウキさんとエリカさんも来ていた。
これは何かある。
俺が驚いた顔をすると
「おはよう。大丈夫、遅刻じゃないよ」
とユウキさんが言った。
「今日は大事な話があったから、早く来ていたんだ」
「大事な話?」
「うん。
前に少しだけ話したよね。君がエリカさんの後任だってこと」
「聞いた。
…もしかして今日が、エリカさんが退職する1ヶ月前?」
すると先輩たちは微笑を浮かべて頷いた。
「そうなの。急でごめんね」
エリカさんがすまなそうに言った。
別に謝られることではないはずだが、と俺は思った。
誰がいつ退職しようと他人にとやかく言われることではない。
社長には前もって相談していたわけだし、俺にも予告してあったのだから、具体的な説明が直前でも何の問題もないはずだ。
だが彼女が申し訳なさそうなのは、俺の教育期間が短くなってしまったからだということは、俺にもわかる。
以前ユウキさんに聞いた話によると、もともとエリカさんの後任を募集するにあたっては、転職を検討している社会人向けに広告を出していたそうだ。
しかし採用者が決まらないまま学生が卒業する9月近くになってしまったから、とりあえず学生向けにも広告を出したら俺を含む数人が応募したらしい。
予定より遅れたというわけだ。
それはもちろんエリカさんのせいでもないし俺だって悪くない。
「個人のことだし全然。
研修してくれてありがとう」
「もう少し時間をかけて引き継ぎした方がいいか迷ったのよ。
だけどマサコさんならもう大丈夫。安心して任せられるわ。
それでも、もしわからないことがあったらユウキさんやソウさんにすぐ相談してね」
「うん、任せて。
寂しくなるけどエリカさんにこれからも幸運を」
「本当にありがとね」
「俺こそ。楽しく仕事教えてもらったから感謝してる」
10時1分、マリさんが事務所に入って来て目を丸くした。
「あれ、ユウキさん…なんで?」
するとユウキさんは俺のときと違って
「おはよう。残念だった、1分遅刻だ」
と言った。
10時を過ぎたのだから当然だろう。
肩を落とし、フォローしてくれないかなと言いたそうな顔つきで俺たちと視線を合わせようとするマリさんを、エリカさんとソウさんは、気付かないふりをして無視した。
俺も二人の真似をしてスルーだ。
「さて早速だけど、今日は大事な話がある」
社員がそろったところでユウキさんは改めて言った。
「じつは少し前から俺は相談を受けていたのだけどね、エリカさんが来月10日をもって退職する」
「えーっ!?なんで!?」
マリさんが驚きの叫びをあげた。
彼女だけが、何も知らなかったのだ。
それを受け流すようにユウキさんは
「じゃあエリカさん、挨拶どうぞ」
と本人に話を振った。
「はい。
えーと、みなさん、8年の付き合いになる人も、短い付き合いの人も」
エリカさんはそう言いながら、ユウキさん、ソウさん、俺を順に見た。
「本当に親切に接してもらったし、一緒に楽しい時間を過ごさせてくれて、ありがとう。感謝してるわ」
マリさんは自分が無視されていることにまったく気付いていない様子で、頷きながら話を聞いている。
「退職の理由は、家族でカナダに移住するからなの。
家族と、近い親戚も一緒に」
「そうなの!?
どうしてカナダに行くの?」
マリさんが興味津々の表情で質問した。
挨拶の途中だったと思うが、口を挟まれたことに対してエリカさん本人が不愉快そうではないので、そのままにしておく。
「家族で話し合ったのよ」
「カナダに決めたのはどうして?」
「夫の母がね、やっぱり日本とそう変わらない暮らしができるところがいいって。
息子のためにも、『オンリー・ファーストネーム法』が施行されてる国がいいと思ったし」
カナダは寒い。
冬になれば、押し寄せる氷河のため大西洋側の港が使えなくなってしまうという不便さもある。
しかしそこは今も昔も、世界中の人にとって人気の移住先だ。
移住者を歓迎しているし、治安がいいとか教育制度が充実しているとかで評判も良い。
そして領土の約半分にもなる凍った無人の地を、つまり夢を持っている。
そのエリアは今はホッキョクグマなど危険な大型動物たちの住みかとなっているため、人間は関係者以外立ち入り禁止だ。
しかしカナダ政府は万年氷の下に埋まったその広大な土地の使用権を、売り続けているのだ。
国内に在住している人だけを対象に。
その作戦は移住者の増加に役立っている。
なんと、購入の権利を目当てに移住する人がいるからだ。
将来、間氷期になったときに自分の子孫や後継者がその土地でコミュニティを作ったり事業を行うことを夢見る人々にとって、それは非常に人気の高い投資商品となっていた。
もうひとつ、エリカさんが言った通り『オンリー・ファーストネーム法』も大事だ。
この法律は、今から150年程前にアメリカで最初に制定された。
理由は差別をなくすため、である。
出身地や民族、先祖の身分や職業などがわかる姓をなぜ名乗らなければならないのか?
そんな反対運動が、かつて起きた。
さらに、親が不明な子どもが差別されているとか、姓がない文化を持つ人たちが移住先の生活になかなかなじめないという指摘があった。
世界中の多くの若者が言った。
公共の場で姓を名乗ることをやめよう、フルネームをサインするのは必要最低限の契約だけにしよう、学校で先生や生徒の姓を呼ぶことをやめようetc...
そして制定されたのだ、オンリー・ファーストネーム法が。
それは人々の生活を変えただろうと思う。
その後カナダ、オーストラリア、ロシア、フランスといった大国がそれぞれのオンリー・ファーストネーム法を制定し出した。
アフリカの国々がそれに続き、ついに変化は日本にもやって来た。
通称『日本版オンリー・ファーストネーム法』と呼ばれる法が施行されたのだ。
こうして、日本でも公共の場で姓を名乗ることはなくなった。
それと同時に、名前に漢字やひらがなを使うことが禁止され、全てカタカナ表記で命名することと定められた。
表記がカタカナに統一されたのも、もちろん差別をなくすためだ。
漢字が使えない人や、使いたくない人を差別しないためだと小学校で教わる。
それから100年以上が過ぎた。
だから俺はただのマサコだ。それで違和感はない。
もしマサコに漢字が当てられていたら、まるで歴史上の人物みたいだと感じてしまう。
姓に至っては、俺に姓があるかないか答えることにすら抵抗がある。
エリカさんの息子さんも、きっと俺と同じ感覚を持っているだろう。
もし今、オンリー・ファーストネーム法が適用されていない地域に移住することになったとしたら、俺は急いでファミリーネーム付きのハンドルネームを決めるだろう。
「双子の息子さん、ハイスクール生だったな。
そういえば、もう新学年が始まっている時期だけど息子さんたちは先に引っ越したのかい?」
ソウさんが尋ねた。
「いいえ、みんな一緒に行くわよ。
息子の転校は、手続きだけ夫の弟が済ませてくれていて、本人たちは今、遠隔でバンクーバーのハイスクールの授業を受けながら、日本のハイスクールにも通っているの。
二人は来月まで忙しいわね。
時差とか授業の内容の違いに戸惑ってるけど、二人とも負けず嫌いだから面白がっているわ」
「それはすごい。優秀なんだな」
「そうかしら?
でもたしかに、息子は新しい環境に早く溶け込めそう。
私自身が一番心配かもしれないわね」
「エリカさんはどうするんだ?」
「向こうでも介護に関わる仕事をしたいと思っているの。
だけどまだ何も決めていない。
でもね、移住した家族の職探しを手伝ってくれる団体がいくつもあるからあまり心配していないわ。
着いてから相談してもいいだろうって夫も言ってるのよ」
「大丈夫そうなら良かった」
「さて、そうしたら今日の仕事を始めようか。
定例の報告会をしてから、エリカさんの引き継ぎの話をしよう。
あとはお客さんへの連絡だな」
ユウキさんが言った。
前に話した通り、俺たちの仕事は介護関連商品の販売やレンタルを扱っている。
その中でも、エリカさんは高齢のお客さんを中心に、マリさんは子どもや若い人を介護しているお客さんを中心に、と担当を分担していた。
会議の結果、新人である俺の負荷を減らすために一部のお客さんの対応は、3ヶ月間はマリさんに引き継いでもらうことになった。
さてその週の金曜日。
俺は2回目の、当番派サークルのチャットに参加した。
話題は、議題をさておき前日に公示された選挙のニュースで持ち切りだった。
タダヒコさん引退解散による今回の選挙だが、公示が出されると同時に思った通り3万円目当ての立候補が殺到して、あっという間にシステムダウンしたという。
そらみろ『三万円法』は悪法だ、と俺は思った。
立候補者に3万円配るなんていうのは普通ありえない。
ニュースによると、システムダウン直前の時点で、東京選挙区の立候補者は10000人を越えていたらしい。
チャットを抜けたあと俺はニュースサイトをいくつか比べて見た。
いつもそうだが、内容はどれも違いがない。新しい情報もとくにない。
だが論調は、ジャーナリスト次第で平坦なものもあればひどく暗いものもあった。
暗い方は、三万円法のせいで財政が破綻するとか、これからもっと無意味な法が増えるだろうとか、先が思いやられるという意見だった。
もちろん今回の出費は、ばかばかしいと俺も思う。
でも俺は、たいして心配していなかった。
三万円法は次の国会ですぐ廃止されるだろうと思ったからだ。
国会議員も、なんだかんだ言ってもいつも通りのメンバーが当選するだろう。
俺自身、システムダウンのためにまだ誰が立候補したかを確認できていないにもかかわらず、今回も改革党の候補者に投票するつもりでいた。
別に俺は改革党を支持しているわけではない。ソウさんと同じだ。
あんな、改革とは名ばかりの党を俺は信用していない。
でも現状維持を主張し続ける安心党よりは良いと思うのだ。
そういえば三万円法を作ってしまったのは安心党だ。
どうして彼らは、変えるべきところを変えずに、変えなくていいところは変えてしまうのだろうか。
夕方、タダヒコさんの謝罪会見が開かれた。
俺も中継を見ることにした。
「月曜日の午前中にはシステム復旧が完了する予定と見ております」
彼は言った。
「復旧次第すぐに、立候補の受付を再開ができるだろうと思っておりますので、もう少しお待ち頂きたいと思います。
今回、たいへん多くの方の立候補を頂き、私は非常に感謝しております。
しかし、先ほどもご指摘がありました通り、議員になることよりも3万円を受け取ることを目的とされた立候補が約80%というアンケート結果は、重く受け止めております。
たいへん申し訳ないことでございます」
俺は小さい手元の画面でタダヒコさんのうつむきがちなしかめ面を見つめるのが嫌になった。
とりあえず正面を向いた良い姿勢で見ようと思って、俺は画像を壁投影に切り替えた。
俺はけっこういい機能のプロジェクターを持っている。
テニスボールサイズの機器を平らな場所にポンと置くだけですぐ反応して、簡単な指示で壁や天井に動画などを投影できる。
これは俺がハイスクールに通っていた頃から使っているプロジェクターだが、自分で買ったものではない。
友人の父親からもらったのだ。
俺はその頃すでに一人で暮らしていて、例によって学校の隣駅に住んでいた。
俺のシンプルな部屋は、学校から家が遠い友人や先輩・後輩が帰りに立ち寄る休憩所になったり、行事で使う作品や材料の置き場になったりした。
俺の私物は少なかったが、友人たちが『使っていいよ』と言って日用品から不用品までいろいろな物を置いていた。
それらの物を、少々神経質なところがある俺は、私物と混ざらないように部屋の中央に集めて置いた。
友人が持ってきたゆがんだ折り畳みテーブルを真ん中に置いて、その上や下、まわりに置き場を決めて片付けるようにした。
ある日、ある友人の父親が様子を見にやって来た。
わが子の帰宅時間が遅くなる一方で、聞けば毎日のように友人の家に寄っている。その友人は一人で住んでいるという…。
というわけで、悪さをしているのではないかと疑われたのだろう。
その日はちょうど千客万来で15人くらいの男女がごった返していた。
先輩にもらった簡易プロジェクター(一面にしか投影できないタイプ)で壁面に雑な動画を映しながら、飲み食いやゲームなどをしていた。
作りかけの謎のオブジェが2個と工作に使う道具が、入り口の近くに陣取っていた。
で、まあいいかと思われたようだった。
後日、その父親から新品のプロジェクターが贈られた。
3方向プラス天井にも投影できるやつだった。
俺の部屋がシンプルすぎたので、しかも壁際に物を置いていなかったので、多方向プロジェクターを使うためのスペースを空けていると思われたのだった。
「私自身は引退させて頂きますが、日本の皆さん、どうか良心に従って最善の行動をお願い申し上げたいと思います」
タダヒコさんが頭を下げた。
フル投影にしたので、まるで俺はジャーナリストたちに混じって会場で話を聞いているような気分になった。
タダヒコさんは疲れた表情をしていた。
失策もたくさんあったが、今まで日本を支えてくれてありがとう、という気持ちに俺はなった。