当事者
大阪で当選して国会議員をしているアサヒさんが、署名を集めていることがわかった。
ヨウコさんを亡くした信州と同じように、東京も繰り上げ当選によってショウゴの空席を埋めるべきだという主張をするための署名だ。
俺はもちろんその考えに賛成する。
だが、署名するという恐ろしい事は俺にはできない。
そのような反体制的な証拠を残すのは危険すぎると思った。
署名にリスクを感じないかまたはリスクを覚悟している立派な人も多いらしい。集まった署名は5万人を超えていた。
5万人もの署名が集まれば、アサヒさんの主張が裁判で認められる可能性は高い。
裁判で勝てば正義になる。
正義になれば、たとえその意見が反体制的だったりアウトロー的だったりしても、もう罰せられる心配はない。それはまるで、以前から世の中にあって当然の意見だったかのように受け入れられる。
それを知っていても俺は署名できなかった。
結果がまだ出ていない以上、署名のリスクは大きすぎる。裁判だって、妨害されるかもしれないし。
正しいという判定をもらえなければ、署名した人はアウトローとのレッテルを貼られ監視の対象になる。
プライバシーとは何だろうか?
リスクとは何だろうか?
俺は思った。誰もがいつか死ぬのだから、リスクを避けようとする必要はないのかもしれない…?
いや、俺にはまだ迷いがある。
まだ俺は死にたくない。
「これが裁判に発展すれば少しは面白いな」
横で見ているスケナリが感想を言った。
彼には自分が署名すべきだという考えがそもそもないようだ。誰かが署名をして、その数の増減をただ観察しているだけだ。
当事者になるつもりは初めからないのだ。
それはそれで自然な態度かもしれない、と俺は思った。俺たちが始めたことではないのだから、当事者の気持ちになる必要はないかもしれない。
だが、これは俺たちが選挙権を持っている場所で起きている事なのだ。
本当は他人事ではないのだ。
「アサヒさん、これをやるならもっと早くだよな。なぜ今なのだろう?
こんな、どうすることもできなくなってから反抗しても意味がないよ。どういう考えなのかな」
彼は批判的に言った。
「スケナリはアサヒさんに厳しいな。
彼は後悔したのかもしれないじゃないか。
今まで彼は犯権会が提出した法案の内容に賛成だったから、普通に賛成してきただけではないか?
ようやく、犯権会が本当におかしい集団だと気付いたとか」
俺がそう言うとスケナリはこめかみあたりを少し掻いて、考える顔をした。
「うーん。
そうかもしれないけど違和感はあるよ」
「どんな?」
「目的は何だろう?っていう感じかな。
この主張が通って繰り上げに変更されたとしても、安心党が一人増えるだけだ。
アサヒさんには何の得もない」
「それはたしかにそうだ」
「しかも安心党にとっても、たいした得はない。
安心党にしてみれば、いまや少数すぎて一人増えたって何もできない。こうして注目されることを喜ばないかもしれないな。
アサヒさんはもともと党に入らない派で、以前から安心党と対立してきた。安心党が与党だった頃からね。
だから彼は今でも安心党を嫌っているはずだ。
一人増えてもどうせ何もできないとわかっているから味方したのか?って疑っちゃうよ」
人間関係とか敵味方という話になるとスケナリは鋭いな、と俺は思った。
「スケナリは、効果がないから意味もないって結論かもしれないが、俺はそこに意味がある気がする。
無駄かもしれない抵抗でも、政策が対立している人に得をさせてでも、犯権会の言いなりをやめる道をアサヒさんが選んだ。
彼は行動した。
流されることをやめて、正しいと考えるルールを彼は守ろうとしたんじゃないか?」
俺がそう言うとスケナリは、少し困ったような顔をした。
「マサコはアサヒさんの行動を、俺たちにとって都合よく見ているよ。
ルールを守るというならそもそも犯権会が、ヨウコさんが国会に出席するのを妨害したことをもっと追及しなきゃいけないんだ」
「それはそうだ。
彼が犯権会をこれから追及する予定だけど署名が集まりやすそうな話題から始めた、っていうなら嬉しいけど、たしかに真意は本人に聞かないと確かめられない」
「うん。期待するとがっかりする羽目になりそうだよ」
スケナリのアサヒさんへの評価は低い。俺が自分に都合の良い解釈をしているという指摘も、その通りだ。
だが、俺はまだアサヒさんの正義感に期待というか夢を持っていた。
もしかしたら彼は『正義の人』と言われていたヨウコさんが死んでしまったから、自分が正義を務めなければならないと思ってくれたのかもしれない。
俺はそう思っていた。
「今までヨウコさんが一人で10人分位の抵抗をしていたから、彼が死んで本当に犯権会の思い通りだ。
マナミさんはいつも強く声を上げているけど、彼女の主張が通ったことは一度もない。
だけどアサヒさんが署名を集めてそれはニュースになった。これをきっかけに、何かが変わるかもしれない。
俺は怖くて署名できないけど」
俺は言った。
「なんでもできる犯権会に、これからの日本の政治をどうしたいか夢や目標はないんだろ?
スケナリがいつも言っている通りに」
「うん。いろんな奴がいすぎるからね。夢も意見もバラバラだよ」
「それでよく党を維持できるな。不思議だ」
「面白いんだろ。今のこのポジションがとにかく面白い、それだけは一致しているかもしれない。
その中に、日本を壊してやろうって奴も混ざっているし、日本が好きな奴もいる」
俺は気付き始めた。
スケナリはもはや同じ話しかできないのだ。
俺が同じような話題でしか話しかけていないせいもあるが、今の彼には『犯権会の真相』と称する愚痴しか話せることがない。
だから俺にも、もう彼経由では新しい情報が入ってこない。
無理もない。
スケナリは俺のところに逃げ込んできてから、もう半年以上になる。その期間、彼は俺や、俺の家族や、その家族としか会っていない。
オンラインでもなんでも使えば痕跡が残るから、俺が仕事をしている間に誰かと話したり、何かを調べることすらできないのだ。
まずい。
だがアサヒさんじゃないけど、俺だって今やどうすることもできないみたいだ。
そもそも犯権会を与党にさせないことしか、こうなることを防ぐ方法はなかったのだ。
つまり手遅れだ。
俺たちにできることは無い。
だがそれを、犯権会がどうなるかによって生きるか死ぬかがかかっているスケナリには言えない。
「俺たちにできることは少ない。
思いついたことを全部やってみたい。とりあえずアサヒさんにもコンタクトしてみるぞ。
何かの足がかりになるかもしれない」
俺は言った。スケナリは別に止めなかった。
翌朝。
思わぬ相手が来た。
アサヒさんではない。
支持者なら誰でも歓迎されると思ったのに、アサヒさんからは何のコメントも返ってきていなかった。
無視されたとは思わなかった。たしかに彼は非常に忙しいだろう。アサヒさんは俺が思ったほど気軽な相手ではなかっただけだ。
「私はサクヤよ。マサコさん、久しぶり」
それはコンドミニアムの入り口インターホンからの通話だった。
「そちらに行ってもいいかしら?」
サクヤ刑事…今でも刑事なら…彼女が俺の部屋に直接来るとは思わなかった。俺は油断していた。
困った事だ。スケナリを見られてしまう。
でも、彼女がここに来たのは良い事だ。それは警察が、俺のメッセージをちゃんと読んだ証拠だからだ。
俺がしつこく警察の相談センターに、サクヤさんについて問い合わせを入力した甲斐があったという事だ。
「うわっ。サクヤさん、ここに来るなんて意外だな。
部屋に来てもらっても問題はないけど、本物か調べさせてもらえる?」
「どうぞ、相変わらず用心深いわね。悪くないわ」
俺は警察のAI相談センターに、問い合わせメッセージを入れた。
俺は住所を入力して、ここに来たサクヤ刑事が本物かどうかを質問した。
『その質問には答えられないよ』
AIは答えた。
『刑事が本物かどうか心配なときは、IDテチョーをスキャンしてね。画面越しでも情報を見れるよ』
「サクヤさん」
「なに?私が本物だってわかった?」
「AI相談センターに問い合わせたら、IDテチョーをスキャンして自分で確かめてくれだって。IDテチョーを持ってる?」
「もちろん。中に入ってから見せるつもりだったけど、どうぞ」
「ありがとう。確認したよ」
「本物だったでしょ」
「うん。いま開ける」
IDテチョーの情報を確認させてもらったので、一部始終が仕組まれているのでなければ、彼女は本人だということがわかった。
まあ、ほぼ間違いないということだ。
で、そうなると彼女が来るのを断る理由がない。
通話を終了してからロックを解除するまでのわずかな間に俺はスケナリに相談した。
「隠れるか?逃げるか?それともここにいるか?」
「ここにいるよ。
逃げ隠れするよりマシな気がする。少なくとも刑事を騙した罪に問われる心配はないからね」
「わかった」
俺は仕方なく部屋の前に出てサクヤを出迎えた。
彼女は車椅子で階段を上ってきた。
今の人たちはみんな知っているだろうか?安全でラクに階段を上がれる車椅子が開発される前は、車椅子でフロアを移動するのは大変手間がかかったのだ。
しかし階段を上がれる車椅子の開発者は、その名前すら公表することを拒否した。
本人をつきとめたジャーナリストがインタビュー記事を公開したら、名前や顔は伏せられていたにも関わらず『知り合いであれば誰だかわかる』『プライバシーを侵害された』として訴えた。
ただ、訴訟にはジャーナリストが勝った。
もう何百年も前の話だ。
「マサコさん、元気だった?
何か言い残したことがあるみたいだから、聞きに来たのだけれど」
部屋に入ってから彼女は言った。
彼女が指先で軽く操作すると、車椅子のタイヤに室内用のカバーが自動でセットされた。このタイプは俺の勤務先でもよく扱っている。
外出の多い人に喜ばれる商品だ。
「あら、お友達が来てたの?ごめんね」
そう言いながら彼女に帰るつもりがない事は明らかだった。
「言い残したっていうより、まずはサクヤさんにお礼を言いたかった。人さがし本舗を一斉に逮捕してくれてありがとう。
奴らの失礼な態度に困惑していた友人が、とても喜んでいた」
「そう…警察へのお礼を言ってくれてありがとう。
詳しくは言えないけど、彼らを直接逮捕したのは私ではない。けれど、私の調査もある程度は役に立ったわ」
「うん。それから、サクヤさんが今も普通に刑事をしていて俺は安心した。
どうも人さがし本舗は現政権とつながりがあったみたいで、そういう人を逮捕したらあべこべに左遷されないか心配だった」
「大丈夫。警察はそんな事で左遷される組織ではないわ」
「でも、政府には警察の『改革』をする権限があるだろ。ということは、変な人事をやろうと思えば改革の名目でできなくはない」
俺がそう言うとサクヤは微笑んだ。
「そうね。理論的にはね。
だけど実際には、その危険を気にする必要はないわ。もし政府の誰かが実際に変な人事をやったら、私たち黙っていないもの」
当然かもしれないが、サクヤは警察というものを本当に信頼しているようだ。
あるいは犯権会の怖さを知らないのだ。




