俺たちはまだましだ
昨夜、俺が帰宅できたのは日付が変わる直前だった。
そんなに遅くなる予定ではなかった。
でも帰る途中で22時を過ぎたため電車が倉庫に向かってしまい、自宅の最寄り駅まで乗ることができなかったのだ。
少しの遅れが不運を招いたわけだ。
今日も土曜日で休日だから問題はないが、歩き続けてけっこう疲れた。
電車を降りてからしばらくは線路伝いに歩いた。
そのまま進むことができればまだよかったが、川で何度も中断されてしまう。
人口の多い東京でも、かつて老朽化のため撤去されたり流されたりして失われた橋は、かけ直されていないのだ。
それは、今後の利用者が少ないと計算された結果だった。
たしかに橋を渡る人はあまりいないだろう。
移動は100年も前から変わらず飛行車が中心だ。
もちろん、俺を含めて飛行車に乗れない人は少なくない。
オート飛行車の大きな事故があってから、完全自動操縦が廃止されて免許の取得試験が厳しくなった。
だから操縦免許を持っていなかったり、操縦士を雇う資金がなかったり、タクシー代を払う資金がなかったり、いろいろな理由で飛行車に乗れない人は増えた。
それでも、いつもは問題ない。
電車に乗ればいいからだ。
それなのに時間が遅くなって終電が終わってしまった。
だから俺は、川を渡れるところを探しながら歩く羽目になった。
こうなると道もわからない。
俺は仕方なくナビに頼った。
居場所を記録されるからナビは嫌いだが、命には代えられない。
夜中に外を歩いていて何らかの被害にあっても、外にいるほうが悪いと言われてしまうほど怪しい奴はたくさんいる。
でも万一、怪しい奴に狙われた時もナビを見ている方が襲われにくい。
そいつだって、どこで獲物を襲ったか記録されるのが好きではないのだ。
俺はナビに言われるまま早足で歩いた。
で、二時間もかかった。
すねと足の裏が痛くなったが、部屋にスケナリが無事でいるのを見たらほっとして、一瞬だけ痛みを忘れた。
俺はすぐにも寝たかった。
だが、俺が帰るまで留守を装うために灯りもつけられず、物音も自由に立てられず、飯も食えずに待っていたスケナリのために、俺は両目をこじ開けて、シャワーを浴びてから寝袋に入った。
俺がシャワーを浴びないと、スケナリもシャワーが使えない。
隣の部屋の人に偶然会った場合、シャワーを浴びていたはずの人間が汚かったら不審に思われるかもしれないではないか。
シャワーを浴びる時間が長いだけなら何も気にされないだろうから…。
一眠りして、俺は母親からの連絡で起こされた。
「さっきメーカー直営の修理屋さんに検査してもらったから」
母親は前置きもなく言った。
「私のテレには何もされてなかったわよ。でもナデシカさんたちはひどいわね。
ジューロー君探しは口実かしら?でも、あなたの通信記録なんか見ても、何にもならないわ。
だからやっぱりジューロー君を探しているのね。
あなたがジューロー君の隠れ場所を知っていて、こっそり連絡を取ったかもしれないと思って盗み見たのかしらね」
「そうかもな」
「でも、どうしてデータを盗み見られたとわかったの?」
「大学の後輩に言われたんだ。
ナデシカはそいつに、俺の名前を出して連絡したらしい。
そいつは、自分の連絡先を俺がナデシカに教えるわけがないと思って、俺に確認の連絡をしてくれた」
「そうだったのね。
後輩に信用されていてよかったわね。
その後輩はジューロー君と関係あるの?」
「いや、ない。俺が学生の時に住んでた部屋を引き継いだ奴だよ」
「ああ、そういうことね。
そもそもナデシカさんはあなたの連絡先をどうやって知ったの?」
母親から立て続けに質問され、俺はまもなく触れられたくないことを聞かれるのではないかと嫌な予感がし出した。
もしそうなった時は正直に答えるしかないだろうな、と思いながら俺は話した。
「知らないけど『連絡先を変えてなくてよかった』と言われたから、まあ、昔の記録でも見たんだろ」
「あら、そう。
じゃあ、彼女たちはどうしてこんなことをしたのかしら?
本当は通報していないのかしら?」
「ナデシカはその点、はっきり言わなかったよ。
職場の人が探偵に依頼した、警察の人も探している、とかなんとか」
「警察の人…ふつう、そういう言い方しないかもね。
警察と関係ある人が個人的に協力しているだけで、通報していないのかもしれないわよ」
「そうだな」
「とにかくナデシカさんたちのした事は犯罪よ。あなたはすぐ通報すればよかったのよ。
どうして通報しなかったの?」
ほらきた、と俺は思った。
俺は本音を隠していると思われないために、母親の目を見てはっきり答えた。
「正規店じゃない修理屋に持ち込んだからさ。大学の近くで、信用できる店だよ」
「その後輩の子と一緒に行ったの?」
母は鋭いところを見せた。
俺はかまわず言った。
「そうだよ。でも一緒に行ったことはべつに重要ではないんだ。
正規店に行くわけにはいかないと俺は思ったんだよ。
つまり、政府の要人を俺は疑っているんだ」
「どうして急に、政府が関係あるの?」
「ジューローはどうやら、政府の関係者の一部に追われているっぽいんだ。
で、その足取りを俺は知っているのではないかと疑われている。
ということは、俺が通報してもたぶん無駄だよ。
ナデシカはきっと黙認されているんだ。
そして、正規の修理屋に行ったら俺は通報しないわけにいかない。だってそれで通報しなかったら、俺が何か後ろめたい事をしていると思われそうじゃないか。
だからこうするしかなかったんだ」
「えー?
関わりたくないかもしれないけど、通報した方がいいと私は思うわ」
母は言った。
俺は母と話している時、知らず知らず自分の受け答えが子供っぽくなる事をいつも感じていた。
どうにかしたいと思うが、どうにも毎度同じ流れになってしまう。
「もし今度何かあったら、すぐ通報しなさい」
母は言った。
「自作自演罰金を取られて終わりだと思う」
「それでも記録を残すべきよ。
それに、ちゃんと捜査してもらえるかもしれないじゃない。政府がナデシカさんたちを本当に黙認しているかどうか、確かめたわけではないでしょ?」
「確かめてはいないけど」
「そうでしょ。
それに、早く通報した方が相手にも親切よ。そのぶん罪が少なくて済むのだから」
「考えておくよ」
「そう言ってやらないつもりでしょ。あなたが『考えておく』って言うときはいつもそう。
通報すると約束しなさい」
「うーん」
「それとも何かまだあるの?あなたは警察に言えない事をしているの?」
「別にないし、してないよ」
「それならためらわず通報しなさい。通報しない事で、悪い人を見過ごすことになるからね」
「わかったよ」
「約束ね。じゃあまたね」
「うん」
通話を終えてふと気付けば9時近くなっていた。
俺は昨晩の約束を思い出して、ユナに急いで連絡した。
「おはよう、俺は無事だったよ」
「おはよう、マサコさん。
連絡待ってた。
本当によかったわ。どうだった?」
彼女は、形だけかもしれないがほっとしたような声だった。
「うん、会話しただけだったよ。
中に、整形した奴がいてジューローと同じ顔をしていた」
「えっ!?」
「しかもその顔は『ユーズド3』だってさ。本舗が本当は誰を探しているのか、もう俺にはわからないと思ったよ」
「めちゃくちゃね。でもとりあえずマサコさんに害はないのでしょう?」
「今のところは。ユナは引っ越すのか?」
「うん。せっかく代々引き継いできた部屋だったのに、ごめんね」
「かまわない。たったの3代目だ」
「大学の近くの大きな赤い家、覚えてる?
そこに移るわ。
学生5人が一緒に住んでいて、私は6人目。私は歓迎されてるの、安心してね。
家賃は折半だし掃除も当番制だから人数が増えてちょうどいいって。
それで5人のうち2人は、私と同じ火星建築学科なの」
俺の許しを得て安心したのか、彼女は急に嬉しそうに次の住まいのことを話した。
「そうか、あの家な」
「何かあったら来て」
「ありがとう」
俺が学生だった時にも、そこには5~6人の学生がいつも住んでいた。
一人当たりの家賃負担は、俺が借りた部屋とほとんど変わらないほど安い金額になるはずだった。
彼女が家賃の安さを、住みかを決める重要なものさしにしていることは確かなようだ。
しかし彼女は高価なリング型のデバイスを持っていた。
金遣いが荒いのだろうか?
誰かにプレゼントされたのかもしれないが、いずれにしろ格安な家とそれは不似合いだ。
俺は、彼女に安い部屋を紹介した者の一人として、彼女が本当にそのような安い部屋に住むのにふさわしい人物であったことを確かめたくなった。
俺は言った。
「そういえばユナがリングを使っているのは意外だったな。あれは高額なイメージだから」
すると驚くべき返事が返ってきた。
「マサコさんだから言うけど」
彼女はそう前置きして言った。
「私、実は両親がお金持ちなの」
「へぇ?」
何を言いたい?
俺は困惑した。
「お小遣いもたくさんもらっているけど、私は防犯がとても心配だから、いつも最安値のものしか身につけたくないの」
「はぁ」
なんとも神経質に聞こえる主張だが、そういう人がいてもおかしくないと俺は思った。
もし強盗にあっても、高価なものを身につけて着飾っていたら自作自演と判定されることもあるという。
そういう時代だから、あえて安いものしか身につけない人が現れるのだろう。
「それでお金がない人ならこうするだろう、という生活を私はしてきたの。
私のテレはついこの間までシンプルなプレートタイプだったわ。
ところが兄が、それではセキュリティの問題があるって言い出して」
「アップデートの頻度が違うって話はたしかにあるな」
「そう。
自分と連絡を取るならせめてこれくらいのレベルのテレに変えろって、兄に勝手に申し込みされちゃって」
「お兄さんか」
サンローがジューローの契約書を勝手に書いた件を俺は連想した。
俺の姉がこのようなきょうだいでなくて俺は助かった。
「解約することもできるけど、違約金を払いたくないじゃない?
だから使っているの。
ありがた迷惑だけど、使えばもちろん便利なのよね」
「そうか。ユナは家族と考え方が違うのだね」
「両親や兄とは合わないわね。
仲は良いつもりだけど、価値観は違うわ」
お金がない学生ではなかったが、彼女が変わった奴なのでまあ良いだろう、と俺は思った。
少なくとも俺は、だまされたわけではなかった。
このような変わり者なら、あの部屋にもふさわしい。
それから少し雑談して通話を終えた。
通話中にケントさんからメッセージが入っていた。
『連絡ありがとう。
僕の通信履歴をサーチされた形跡があった。
通報したよ』
さすがケントさん、と俺は思った。
彼はきっと俺が通報できないことを察して、代わりに通報してくれたのだ。
つまりケントさんは、これが犯権会がらみだということに気付いてくれている。
敵も間抜けなものだ。
あのケントさんの通信履歴を、おそらく興味本位に見たとは。
隙のないケントさんの通信履歴など見ても何もならないはずだ。
何も得られず足跡だけ残したのか。
それはナデシカがプロではない証拠だ、と俺は思った。
ナデシカはかわいそうだが、犯権会に利用されているのだろう。
彼女はきっと捜査される。
それが犯権会の正体を明かす糸口になればいいのだが。
そうだ、ようするにチャンスがめぐってきたのかもしれない。
俺はチャンスに何ができるか考えながら、ニュースをチェックし始めた。




