もうすぐ社会人2年目になるのだ
火曜日、俺は自宅でAIコンサルタントの応答内容に目を通す仕事をした。
介護関連の業界では、AIが自動で応答した『契約(更新を含む)、解約、キャンセルのいずれかの成立を含む全てのメッセージ』に、人間の職員が一週間以内に目を通すことが努力義務になっている。
このルールは100年以上前から変わっていない。だが俺は、それを時代遅れだとは思わない。
お客さんの意思を確認することが、業務の上で絶対必要だからだ。
俺たち人間の職員は、AIの応答内容が適切かどうか確認して、補足や訂正が必要ならコメントをつけたりお客さんに連絡する。
とはいえ、たいてい補足や訂正の必要はない。99%ない。
俺の場合はむしろ、チェック作業を通して商品の知識などを勉強させてもらっている。
勤め先アプソルファンタスが使っている『i愛魂』は雑談スキルも優れている。
そのためか、商談の合間に雑談しているお客さんがけっこう多い。
ついつい読みたくなるが、面白いからといって雑談部分までのんびり読んでいたらいつまでも仕事が終わらない。
そうそう、『i愛魂』の優れたところは「ではちょっと雑談しよう」「契約の話に戻るね」「今回の契約とは関係ない話を少しするよ」など切り替えコメントの入れ方が上手い点でもある。
お客さんにもわかりやすいと思うし、俺たちチェック者にもわかりやすい。
それにしても、もう8月も半ばだとは驚くばかりだ。
俺がユウキさんの会社で働き始めてもうすぐ一年になるのか、と思うと改めて信じられない気持ちだ。
学校にいた頃よりも仕事を始めてからの方が、月日の経過を早く感じる気がする。
昨年はこんなにあっという間ではなかった、と思う。
今日の日は、かつて終戦の日と呼ばれた。
今は小学校で『武士時代が終わった日』と教わる。
そして多くの学校では、卒業式の日でもある。
数百年前の日本では、大学だけでなく小学校や中学校の卒業式も盛大なイベントだったと聞く。
当時は飛び級も落第もなく、誰でも卒業することができたようだが、むしろ今よりも卒業が特別な意味を持っていたようだ。
昔の人は感受性が豊かだから、元服や七五三のように、卒業もまた子供がその年齢になったことの祝いのように感じていたのかもしれないと俺は思う。
今、小・中学校では卒業式とは名ばかりだ。単なる、最終学年の修了だ。
生徒はふだん通りのカリキュラムの後、教室で卒業証明書をもらう。
かつての名残で『卒業式』という名前だけ残っているが、それをなぜ式と呼ぶのか、理解していない人も多いだろう。
学校のことなど思い出して気が散ったら、先月からかくまっている友人・スケナリの姿が目についた。
彼は冷風の吹き出し口の下に立って満足そうな表情をしている。
冷風を頭から浴びるのは健康に良くない気がするが、彼がそうしたくなるのも仕方ない。
俺が出勤する日は、俺の外出中は部屋に誰もいない設定にしているため、帰宅予定の時間が近付くまで涼しい風は出てこないのだ。
だから俺が自宅にいるときに、二日分まとめて涼もうという魂胆かもしれない。
だが、やはり冷えすぎてもらっては困る。
隠れている人間は、決して体調を崩してはならないのだ。
ちょっとした薬を買うにも薬局の『自動診察機』に自分の症状を読み取らせる必要があるし、代理の場合は本人と代理人の『身元証明カード』を提示する必要がある。
存在しないはずの人間が薬を手に入れることはできない、というわけだ。
スケナリに薬を与えるために同じ病気にかかるのはごめんだぞ、と俺が冷たい事を考えている間に彼は吹き出し口から離れて、キープ系のセルフトレーニングを静かに始めた。
彼なりに健康に気をつけているようだ。よかった。
彼の滞在もあっという間に1ヶ月を超えてしまった。
別に出ていって欲しいわけではないが、早く彼がいつでも出ていけるように、俺は環境を整えなければならない。
だから早く犯権会を潰さなければならない。
つかみどころのない『犯権会』に逆襲するためには、どうしたらいいか?
スケナリを安全な場所に移したうえで、俺自身は例えば『犯権会を潰す会』みたいな会を立ち上げる。
そうして犯権会に対してはっきり宣戦を通告して、全力で仲間を集めながら戦う。
それしかない。
最近そう思う。
しかし、スケナリを移すべき安全な場所が思い当たらない。
彼を自宅に抱えたまま戦い始めて犯権会にマークされるのは、かなり怖い事だ。いくらカモフラージュしても、マークされればスケナリをかくまっていることはすぐにバレてしまうだろう。
俺はまだ、戦いに踏み切る勇気が出ない。
それなら、今のところは他の遠回しな方向から攻めるか?
性格は合わないが、もう一度リョウマさんに相談してみよう。
彼女はハルキさんに裏切られているから、きっと犯権会を恨みに思っているはずだ。
といっても話は、前回の相談の続きから始めるべきだろう。
まだ新しい情報を出すのは危ない。
俺は仕事の終了連絡の時に、ユウキさんに話してみた。
「例の件だけど、モモカは『内部で解決済み』と言ってたけど、やっぱりおかしいと思うんだよね」
「そうだなぁ…犯権会の関連会社は一つではないからね。
他の会社でも似たような事が起きているだろうと十分想像できる」
「だから事件にされたくなかったのか?という気がする。
犯人はもう逃げた後かもしれないけど」
「うん。
おそらく、他の関連会社も同時に調査とか対策をしただろうとは思うけどね。
リョウマさんに聞いておくよ、もしまだ対応されてなくて人権侵害が野放しになっていたら良くないからね」
「うん…」
ユウキさんは犯権会が、全ての人権を大事にしているにきまっていると思っているようだ。
いや、それすら思っていないだろう。
人権団体を名乗る犯権会が、他人の人権を軽く見ているとは想像もしていないのだろう。
犯権会の正式名称は『犯罪者の権利を守る会』だからだ。
仕方ない。俺はとりあえずユウキさんの連絡を待つ事にした。
すると翌日、仕事帰りに二人になった時
「驚いたよ」
とユウキさんが言い出した。
「リョウマさんに連絡したら、私もちょうど連絡しようと思ってた、と言われてね」
彼女はハルキさんのバースデーパーティー直後、レイナさんから『あなたの友人でもあるというモモカに情報が漏れている』と報告を受け、すぐに調査したそうだ。
で、ハルキさんが情報を漏らしたとすぐにわかった。
彼女は正式な通報のために必要な証拠集めを依頼した相手に、ストップの連絡をしたそうだ。
「そうしたら、ちょうど相手からも連絡が来たそうだ。
『接触していた被害者から、解決したからもう何もしなくていいと言われた』とね」
「解決?
つまり、モモカが対応したから人権侵害の状況はなくなったってこと?」
「うん。
関係者の名前を言えないから説明がわかりにくいかもしれないが、順を追って話そう。
リョウマさんの仲間の、証拠集めを行っていた人物ね。
彼が調査したところ、犯権会の関連会社で、不正が行われていたところは一つや二つではなく、しかもかなりの人数に対する口止め行為が確認された。
お金を使ったり、弱味を握ったりしての口封じだ。
そして言うことを聞かないと、私物を取り上げたりいじめたり、寮から外出させないなどの『暴力的扱い』をしていた」
「やっぱり」
「その暴力的扱いの被害者の中に、被害を受けているのが自分一人でないなら、会を作って訴えたいと言った人がいて、彼はその人を弁護士に会わせたそうだ。
そんな矢先に『もっと偉い人』…おそらくモモカやその配下が動いて、加害者は処分された」
「被害者はそれでトラブルが解決したと感じた?」
「そうらしい。
その人は、謝罪されてお金をもらい、会社を通常の手続きで辞めることができて満足したようだ。
被害者本人にもはや不満がない。
そうなるとそれ以上、匿名のわれわれにできることは無い」
「リョウマさんはハルキさんについて何て?」
「ルール違反だけど『守秘義務を忘れるな』と叱って終わりだよ。
彼をマネジャーから降格させるといろいろややこしい。だからせっかくの罰則が適用できない」
「ハルキさんは犯権会に入ってしまったのかな?」
「わからない。
だけどリョウマさんから聞いた今回の詳細情報を、俺はハルキさんには言わなかった。
今回はレイナさんとケントさんにしか伝えなかった」
俺は頷いた。
ユウキさんはため息をついた。
「驚いたよ。
犯権会は非常に巨大で、政党としてのグループは組織のほんの一部でしかないようだ。
彼らは政治団体ではなかったのだね。
政治を利用した、利益団体だよ。彼らに政権を明け渡してしまったのは、まずかったようだ。
今回、俺にもようやくわかった。
しかし、そうやって大きなグループを組む彼らの目的がわからない。
いずれにしても、あまり関わりたくないな」
ユウキさんはそう言った。
気持ちはわかる。
たしかに俺だって、スケナリがいなかったら関わろうとしないだろう。
ユウキさんは味方だということが確認できてよかったが、犯権会に対して態度が消極的だ。
彼に相談しても、これ以上は進展できなさそうだ。
ケントさんなら積極的な対応をしてくれるかもしれないが、彼はいつ盗聴されているかわからない人だから連絡しにくい。
やはり、犯権会と戦う方法について誰かに相談するのは難しい。
帰宅すると、スケナリが体を微妙に揺らして上機嫌だった。
これは無言の鼻歌を歌っているのだ。
彼は最近、声を出さずに鼻歌を歌うスキルを身につけてしまった。
俺が外出している間、声を出さない鼻歌でも歌いながら、音を立てずに筋力トレーニングなどしているのだろう。
彼のそういう姿を見ると、俺は打ち手が遅くて申し訳ないという気持ちになる。
「何の歌だ?」
「『自生バナナ保存会のテーマソング』」
「磁性バナナ保存会?
なんでも保存会があるのだな」
「合成バナナしか食ったことないけど、俺、いちおう保存会に加入してるんだよ」
「あ、じせいって自生か」
「8月30日が会の発足記念日でさ。
それを思い出した」
「へぇー。記念日には何かあるのか?」
「記念カードが届く。
派手だよ。
毎年バナナの絵がデザインされて、一年間の活動報告が書かれてる」
「じゃあ、そのうちお前の『自宅』に届くわけだ」
「どうかな、家賃を払わず本人も部屋にいない。すでに荷物を供託に出されて部屋は引き払われたかも」
「そうか…まずいな」
「いいって。マサコは?『当番派』の他は何か会に入ってる?」
「会?…入ってないな。
学生の間は『令和史研究会』『昭和史研究会』『平家物語を読む会』とかいろいろ日本史系の研究会に入会してたけど、卒業と同時にやめた」
「なんでやめたの?」
「なんとなく。新しい生活を始める時に、身の回りの情報を減らしたい気持ちになってさ。
あと、正式に入会してなくても論文とか発表データ見ていいって言われたし」
「でも見ないよね」
「見てないね…」
「そうして疎遠になるんだよ。今のうちに見た方がいい。
マサコのほうが俺より世捨て人だ。身を隠すのもラクそうだ」
「入れ替わりたいと思ってるのか?」
「思ってない。人間が入れ替わることはできない」
「俺は技術的な話をしているわけではない」
「知っている」
「…」
言いたいことを言うと彼は自分の夕食の支度を始めた。
俺は彼の忠告に従って、かつて所属していた研究会の情報を見始めた。
気分屋でマイペースなスケナリに俺は救われていると思う。
俺はといえば、夕食は食べない。
ある日、思ったのだ。
もし俺がいつの間にか『危険な活動の疑いがある人』に指定されていたら、俺の買い物や外食のデータを犯権会に見られてしまう、と。
スーパーで買い物しておいてその食材は自分で食べず、素知らぬ顔で外食していることがすぐに知られてしまう、そしてスケナリをかくまっていることがバレてしまう。
指定されたかどうか、本人への通告はない。
問い合わせれば教えてもらえるが、問い合わせること自体、何か隠し事をしていると宣言しているようなものだ。
危険を感じた俺は、昼食を二人前食べ、夕食は抜くことにしたのだ。
そうすれば、スーパーで買った食材を夕食に食べているふりができる。
よく行く定食屋のHN店員が、『お兄さん、よく食べるわね』と言ってオマケの一皿をつけてくれるようになったのは、思いがけないことだった。
それはきっと店主の意向だろう。店主がチェックしたのか、それとも自動的なプログラムなのか知らないが。




