ディストピア・トーキヨーの平穏なある日
7月7日金曜日。晴れ。
政府の『移住推進計画』に振り回されなかった俺は、いつも通りの休日を迎えた。
思えばこの夜、俺の平穏な日常は終わりを迎えたのだ。いろいろな意味で。
しかも、そのことを当時の俺はまだ全く自覚できていなかった。
だから穏やかな一日の代表として名残惜しく思い出せるその日の流れを、改めて書きたいと思う。
政治的な流れの中に置くとしたら、その日は『犯権会』による移住推進計画の締め切り直後の休日だった。
7月4日の締め切り日、計画が思うように推進されていないことを確認すると、翌朝ショウゴ総理は
「北海道や九州などに、みんながもっと移住したくなるように『複合型エキサイティング・スペース』の建設を計画する。
今年中には概要を発表する」
と表明した。
エキサイティング・スペース…。
テーマパークとかレジャー施設とかリゾートとか、まあそんな感じのものだ。
彼は本当は、エリアの人口を増やしてから施設を作って、もうけるつもりだったのではないか?
予定より人が集まらなかったから、施設作りを先に進めることにしたのか?
しかし何にしても彼はスピーディーだ。
同じ日にブラッドは
「俺自身も移住をする事に決めた」
と言い出した。
「あまり騒ぐな。俺の偽物に騙されないよう気をつけろ」
だそうだ。
さらに、『国民の所得に関する機関』かつて経済なんとか大臣と言われていたポストの、女性の大臣がニュースに現れた。
彼女は東京から当選したヒナタにそっくりな美女だ。
しかし似ているのは見た目だけで、話を始めると全く別人であることがすぐにわかる。
彼女の真似をしようと思ったら労力が必要だ。
声が大きくてしかも話し方がとてもきついのだ。
「私たちは日本の『永住権』を取得するための手続きを簡略化することに決めた!」
彼女は言った。
「日本を羨ましいと思うなら、占領しようとするのではなく、あなたが日本人になりなさい!」
この発言は賛否両論を招いた。
というか、批判の方が多かった。
しかも仲間であるはずの犯権会メンバーからも批判されていた。
犯権会という政党は看板の『犯罪者の権利を守る』こと以外について、人によって意見がバラバラだ。
内輪もめで解体しないことが不思議なくらいだ。
まあ、俺は当面そんなことにも振り回されず落ち着いた生活を送っていた。
朝、通りから聞こえた悲鳴のせいで5時に起こされて、サイレンの音を聞きながら羊乳を一杯飲み、また寝て8時に起きなおしたところから俺の休日はスタートした。
外出用の服に着替え、朝飯を食ってすぐ俺は駅の向こう側にあるスーパーに買い物に行った。
食糧や日用品の買い物を全て配送で済ませる人も多いが、俺は自分で買いに行くほうが好きだ。
スーパーが特別に良いものを買えるわけではないし、特別安いわけでもない。
オンラインストアのほうがむしろ、限定品を売っているし品切れのリスクも低い。道中スリの被害にあうリスクもない。
でも、スーパーならひとつひとつの商品を自分で選んだと感じて満足できるからストレス発散になるし、もろもろの費用を節約できるところも俺は気に入っている。
送料やサービス料、倉庫保管料、保険料、『輸送税』『多重輸送燃料税』『梱包資源利用税』…。
それに、往復の時間に『AIナビゲーターズ』が配信するゴシップを聞くのも楽しみだ。
ちなみに今朝は、有名人の経歴詐称まとめからの最近人気の職業ランキングからの、職業別の昨年の殺人被害者数ランキングからの、世界の残虐な殺人事件ランキングを特集していた。
とにかく何の得にもならないチャネルだが、アンケート結果をもとに聞く人の好みを分析したうえで配信している、とオーナーは言い張っている。
たしかに、たまにどうしても聞きたくなる。
ただ、実際はさまざまなデータをランダムに回しているだけという噂だ。
買い物の往復でなければ、聞くだけ時間の無駄だ。
だから俺には買い物の往復という時間が必要なはずだ…たぶん。
帰り道、駅前の広場で人だかりができていた。
また『犯権会』がらみか?と思ったが近付いてみるとそうではなかった。
人の輪の真ん中には、児童用の防弾ヘルメットが落ちていた。
細かい汚れや傷がたくさんつき、新品ではないことは一目でわかる。
落とし物か。
どうでもいいと思いつつ、俺はさりげなく集まった人々の顔を見ずにいられなかった。
それはある男女のことが、気になっていたからだ。
以前、犯権会のサポーターと思われる男女(それぞれは知り合いではない様子)を近所で見かけ、相手も俺のことをチラチラ見たりしていたことが何度かあった。
二人とも感じが良くなかったため俺は挨拶しなかったが、近所の住民なのだろうと思っていた。
しかし、ふと気付けば彼らを見かけることは一切なくなっていた。
そのことに思い至ってから俺は、二人が『本当の近隣住民』ではなかったのかもしれないと疑い始めた。
もちろん近所に住む人間全員と、必ず定期的に顔を合わせるわけではない。
あるいは彼らは生活パターンを変えたのかもしれないし、どこかへ引っ越したのかもしれない。
しかし、もしかしたら二人は犯権会の下っぱで、一時期俺のことを探っていたのかもしれない。
その間だけ、俺の近くに住んでいたのかもしれないのだ。
自意識が強すぎると思われるだろうか。
しかし、そのように俺が疑心暗鬼になるには理由があった。
それは先月末、犯権会のメンバーの一部が本当に、5年前の『ニセ大家事件』に関係していたことがわかったからだ。
「マサコさん、すごいじゃないか!予想が大当たりだよ」
とケントさんには言われた。
だが、自分で言っておきながら俺は心のどこかで『そんなはずがない』『こんなの妄想だ』と思っていた。
まさか本当に二つの事件が裏でつながっているとは、思っていなかった。
そのことがニュースに大きく取り上げられたのは、一人の刑事のおかげだった。
『カラ移籍あっせん業者』を追っていた刑事が、捜査の途中で『ニセ大家事件』のまだ捕まっていなかった犯人の一部にたどり着いたというのだ。
しかもそいつらは犯権会のメンバーだった。
そのうちの一人は東京で唯一人落選した犯権会の候補、タクトの育ての親の親族だったそうだ。
俺は蒼くなった。
ヒナタに『何のニュースに興味ある?』と聞かれたとき、言うにこと欠いて俺は『ニセ大家事件』と答えてしまったのだから。
タクトもその場にいた。
彼らはどう思っただろうか?
偶然にしては出来すぎだ、こいつは敵のスパイなのか?しかしそれにしてはマヌケすぎる、などと疑問に思ったはずだ。
なんでわざわざ…。あれはひどい失敗だった…。
だが、彼らが慎重で俺は助かった。
たぶん彼らは、もしかしたら犯権会のファンになるかもしれない俺を、いきなり捕まえて殴ったりしたくなかったのだ。
だからメンバーの男女を近所にしばらく滞在させて、俺が怪しい奴じゃないかどうかさりげなく観察したのだろう。
そして、こいつは敵ではないし邪魔でもないし使えもしない、と判定したから何事もなかったふりをして手を引いたのだろう。
だってあいつらが近所にいたとき、俺は本当に何も気付いていなかったのだから。
だからもう大丈夫なはずだ。
お墨付きがあるだけむしろ、まだ目をつけられたことがない人よりも俺の身は安全なはずだ。
そう俺は自分に言い聞かせた。
集まった人々の頭の上に、ドローンにAIが搭載されているタイプの刑事、通称『ドロケー』がひとつ飛んできた。
ドロケーが来るのは、たいした事件ではないと判断されたときだ。
「なんだドロケーかよ」
「もっと市民を大事にしろ」
「ドロケーのくせに遅い」
ドロケーはみんなにナメられているので、心ないことを言う野次馬も珍しくない。
それにしても昔はどんな事件でも全て人間の刑事が駆けつけたから、たいへんだっただろう。
今は、通報の内容をAIが自動で分析して、どんなタイプの『刑事』が現場に行くべきか判断する。
ドロケーが行くか、人間が行くか、はたまた格闘用の『四足HN刑事』と人間のチームで向かうか。
ドロケーからぶら下がった、にこやかな顔をしたマンガっぽい警察官の人形のスピーカーから
「通報したのは誰かな?」
と明るい音声が流れた。
「はい、私が」
女性が答えた。
「通報ありがとう。
遺失物と事件、事故の可能性も含めて調査します。
自作自演だった場合、100文以下の罰金を課します。
あなたは、この通報が自作自演でないことを誓えますか?」
「誓えるわ」
「はい。宣誓を録音しました。
それでは質問を始めるね。
落とし物を見つけた時刻はわかる?」
ドロケーが実務的な話を始めると、人々は興味を失い散っていった。俺もその場を立ち去った。
あれはどうせ小学生の落とし物だろう。
だが、持ち主が誘拐されたのではないとはまだ言い切れない。
俺が小学生の頃には、落とし物通報の78%が、本当の落とし物だと言われていた。
残りの20%は不法投棄、2%は何らかの事件だそうだ。
だから落とし物を見つけたら、触らずに警察に通報するようにと教わった。
とはいえ大部分の大人は、面倒だから通報しない。
落とし物といえば、俺は小学校二年生の時にえらい物に出くわしたことがある。
あのときは人間の警察官が来たから、やっぱり事件だったのだろう。
その日も俺は、近所の友人と二人で下校していた。
自宅の近くの角あたりで、カラスが地面にとまっていた。
俺は「カァ!」と挨拶してみた。
カラスは返事をする代わりに飛び立った。
カラスと交流できなくて残念だな、という気持ちで俺はそれを目で追ったが
「急いで通報しろ!」
と友人が血相を変えて叫んだ。
俺が覚えているのは、そのとき駆けつけた警察官が
「嫌なものを見たな。
あとは警察に任せて、すぐに忘れていいぞ」
と言って俺と友人をまとめて抱きしめたことだ。
こういう大人になりたいと俺は思った。
買い物から帰宅すると俺は、一週間分の自分の食事作りを始めた。
節約のために自炊しているが、これがなかなかの労働だ。
何年やっても楽だと感じるようにならない。
社会人になってからは金土日が休みだから自炊を金曜日の仕事と決めたが、学校に通っていた頃は休みが土日しかなかったので土曜日に一週間分の食事を作っていた。
俺の部屋は学校帰りに友人たちの集まる休憩室になっていたので、買ったばかりの食糧を奪われないためには学校の後ではなく休日に買い物と調理を済ませる必要があった。
冷凍庫を開けて
「これ食っていい?今度返すから」
と言う奴のほうが、買い物袋を覗いて
「うまそー。ちょっとちょうだい」
と言う奴より、良い気分で付き合える相手だと俺は思ったのだ。
その習慣がまだ続いている。
作った料理は、その日の昼食分を取り分けてあとは全て冷凍庫に保存する。
冷めるのを待っている間に俺は昼食をすませてしまう。
実家では人数が多かったこともあり『電気冷まし器』を使っていたが、俺は自然に冷めるのを待つ。
冷まし器のほうが衛生的だと言われるが、そこまで気にする必要はないだろうと思っている。
俺の冷凍庫にはこうした自炊料理と、体調を崩した時などのために備えて買った冷凍食品が詰まっている。
その後、俺は軽くニュースサイトをチェックし『当番派』サークル活動にチャットやオンラインで参加した。
それが終わると、『おすすめの映画』を壁に投影しながら自宅でリースしているウォーキングマシンの上を30分ほど歩く。
そろそろ飽きてきたから、同じ会社のサイクリングマシンに借り替えようか。
今日の映画は、人気があるらしいがそれほど面白くない。
とはいえ、ラストが気になる程度には興味をひくできばえだった。
だからウォーキングの後ストレッチを行いながら続きを見た。
それから俺は、ウェブミュージアム『MUSERT』を観賞した。
MUSERTの登録は無料だ。ハイスクールに通っていた頃に会員登録して、飽きずに続けている。
会員は、世界中の美術館・博物館の展示物や、コンサートなどの観賞権を有料や無料で購入できる。
観賞権は多くが一週間や一ヶ月といった期間で区切られている。
しかし、加盟する美術館や博物館、コンサートホールの建物の画像は使い放題である。
『マイ美術館』の画面の中では、歌舞伎座でメキシカンアートを眺めることもできるし、ライブの背景に好きな美術館を選んでもいい。
特定の建物ではない『森』とか『赤』とかの背景にすることも、もちろんできる。
プロジェクターを三方向投影にして観賞すれば、文字通りマイ美術館に入った気分になれる。
観賞履歴をもとにおすすめのアーティストを教えてくれる無料サービスもあって飽きさせない。
…なんだかMUSERTの広告みたいになってしまった。
俺は夕食をはさんで、その日は国芳の浮世絵を水色の背景で見ながら、おすすめされたミュージシャンの曲を聴いた。
国芳を買うのは二回目だが、支援にもなるので出費は無駄ではない。
さて、あとは好きな時間にシャワーを浴びて寝袋に潜り込むだけ…のはずだった。
そのときインターホンのモニターライトが点滅した。
フラットの外から、誰かが102号室を呼び出している。
不審者だったら『部屋を間違えてないか?』と言おうと考えながら画像をオンにしたら、映っているのはよく知った顔だった。
例の恐ろしい落とし物を見つけたとき一緒にいた幼なじみだ。
今朝、会いたいわけでもないのに『あいつはどうしているかな?』なんて思ったのがいけなかったのだろうか。
「いま開ける」
俺は思わず吹き出しながら言った。楽しくて笑ったわけではない。
いくら旧友だからといって、連絡もなく夜やって来るとは迷惑だ。
しかも、俺はこいつに新住所を教えていない。誰に聞いて来たか知らないが非常識だと思う。
じゃあどうして笑ったかというと、そいつが能面の『翁』かと思う程のクシャクシャの笑顔だったからおかしかったのだ。
笑わずにいられるものか。
「あー、作り笑い疲れた」
部屋に入って手を洗うなり、そいつは頬のあたりをほぐしながら言った。
「コメディアンになったのか?」
「違う。セキュリティシステムに不審者検知されないためだよ」
「システムはごまかせても、人間なら誰でもお前を見ておかしいと思ったはずだけどな」
「あちこちの防犯カメラで、不審者としての画像が自動保存されなければそれでいいんだ。人間にどう思われようと関係ない」
「なんだって?」
なんと不愉快なことだろうか。
こいつは今、セキュリティシステムに記録されては困るような状況にあるらしい。
つまりこいつは図々しいことに、3年ばかり疎遠になっていた友人の家に、身を隠しに来たのだ。
「スケナリ、お前は俺なら犯人をかくまった罪に問われてもかまわない相手だと思って来たのか」
「そうじゃないよ、そうじゃない。
マサコならわかってくれると思ったんだよ」
スケナリは困った顔でヘヘヘ、と弱々しく笑った。
「何をわかるって?
俺ならいざという時、『友人がまさか悪いことをするなんて思いもしなかった被害者』の芝居が上手くできるとでも思ったか?」
「いやー…それよりマサコ、久しぶり。ぜんぜん変わってないね。
靴箱に飾ってる静止画のアイドル、サクラ・ジョウビタキだっけ?懐かしいね!」
「サクラ・ジョウルリな。浄瑠璃は鳥じゃないぞ」
「そっか。…これホクサイ?」
「北斎なわけがないだろ。国芳だ」
「へぇー」
当たりが出ないのでスケナリは少し困った様子でキョロキョロしたが、何か感想を言うのはもうやめようと思ったようだった。
「マサコは最近どうしてた?」
彼は言った。
「例の大学を卒業して、去年の9月から介護関連商品のリース会社で働き出した」
「良さそうな仕事だね」
「それはどうも。
スケナリは?どうしてたんだ?」
「短い話と長い話どっち聞く?」
「じゃ短いほうで」
「まずいことになった。以上!」
「…やっぱり長いほうで」
「しょうがないな。
話す前になんか食っていい?あ、見覚えのある冷凍庫だ」
「泊まるつもりだな?」
「うん。お願いだよ」
「何かあったら、かばわないぞ。
俺はすぐ通報するし、お前を置いて逃げる。俺のカネや物がなくなったらお前を疑う。
それでよければ泊まれ」
「…わかった」
スケナリは不安そうな顔で頷いた。
でも俺は、友人を安心させるために自分を犠牲にするつもりはなかった。




