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数人の大人が話をしている。知らない男たちと両親の声。男の一人が僕の手を取り『さぁ、行こうか』と言って僕を車に乗せた。その直前に聞いた母親の震える声は両目から流れている涙を連想させた。なぜ泣いているんだろう――と僕は不思議に思うばかりで、何が起こっているのか理解できなかった。車はそのまま走り出し、長い時間をかけてどこかへ移動した。道中、同乗している男たちは一言も喋らなかった。だから、僕も無言のままじっとしていた。
それからどのくらいの時間が経過したのかはわからない。少なくとも両親と一緒に出かける距離よりは遠いところに来たはずだ。『着いたぞ』という男の声を聞き、僕は目的地に到着したことを理解した。『今日から君はここで生活するんだ』――そう言って彼らは僕を施設へ招き入れた。
施設には僕以外にも同い年くらいの子供が数人いた。僕らは全員番号で呼ばれ、施設に併設された宿泊所の個室を各自割り当てられてそこで寝泊りした。個室と言っても四畳半くらいの狭い畳の空間に小さな机と布団があるだけだ。毎日、日の出と共に起床し自室の清掃と施設内の担当区画の清掃をする。それが終わった後に朝食をとり、その後は自室での座学の時間。食事は朝食と夕食の一日二食でメニューは白飯・味噌汁・生野菜・主食の肉または魚料理の四品と決まっていた。座学の後、正午からは基礎体力をつけるための合同訓練が始まる。そして、それが終わった後に個人別の特訓メニューが言い渡され、担当の指導者とマンツーマンで訓練を行う。訓練は日が暮れる直前まで行われ、終了後は『検査室』と呼ばれる場所へ連れて行かれる。僕らはそこで様々な検査を受けて『日課』と呼ばれる注射を一本打つ。それから夕食をとり自室に戻って就寝する。これが研究機関における僕ら被験者の生活サイクルだった。
トントン
食事の準備は当番制で行うようになっていて、被験者数人でマニュアルをみて作っていた。皆が料理初体験だったけどマニュアルがあったおかげで何とかなった。たまにひどい味付けの料理が出されることもあって、そんな時は誰が当番だったのか一日中考えたりもした。定期的にそんな日がめぐってきたことを考えると、ひどい味付けをした犯人は特定の誰かだったのかもしれない。
トントントン
そういえば当時僕のことをとても慕ってくれた女の子がいた。その子は調理当番でもないのによく調理場に現れて摘み食いをしては皆に怒られていた。僕はその一番の被害者だった。
トントントントントン
……なんの音だろう。ああ、そうか……そうだった。僕は昨日ソファーで横になって……。どうやらそのまま眠ってしまったらしい。瞑った目蓋越しに日差しを感じ、うっすら目を開けると窓からたっぷりと陽光が差し込んでいた。
キィー、パタン。トントン
ん? キッチンに誰かいるのかな?
ソファーから起き上がって音の鳴る方向を見るとキッチンに人影があった。僕の目を覚ます気配を察知したのか、その人物がこちらを振り返った。寝起きで半開きになっている眼をこすりながらその姿を確かめようとしたそのとき――
「おにぃちゃん! あいたかったよぉー」
ん? お兄ちゃん?
「――って、うわぁあっつ。な、なんだっ」
突然飛び掛かられて僕はソファーの上に仰向けで倒れこんだ。お兄ちゃんとはどうやら僕のことらしいが僕に妹はいない――はずなんだけど、何故だかその呼び方に懐かさを覚え、僕は体の上に馬乗りになっている人物の顔をまじまじと見つめた。
「君は……。昨日はどうやって家に入ったの? 教官がここに連れてきたのかい?」
飛びかかってきた人物は昨晩ベッドを占領して僕をソファーへ追いやったあの少女だった。
「きょうかん……?」
少女は唇に右手の人差し指をあてて、首をかしげながら僕の眼を不思議そうに見つめている。
「そっか、そうだよね。ひさしぶりだし……わすれちゃった……よね」
少女の表情が曇る。その口ぶりから以前に会ったことがあるみたいだ。教官の手紙にも面識があるはずと書いてあったし、預かってもらいたい子というのはこの子で間違いなさそうだ。
「そうだ! これっ」
数秒の沈黙の後、少女の表情が急に『ぱぁ~っ』と明るくなった。少女は首から提げていたペンダントを服の中から出して僕に見せた。ちらっと覗く胸元に僕はドキッとしつつも、ペンダントに視線を落とす。
「これって……。昔、僕が持っていたものに似ているけど……」
小さい頃、僕がいつも持ち歩いていたペンダント。母親が身に着けていたものを駄々をこねてもらったもの。でも、あれは確か誰かにあげたはず……。
そうだ。そうだよ。思い出したぞ。
「それ、まさか……ユン……なのか?」
「おにぃぃいちゃぁぁぁ――――――ん!!!」
ぎゅ~っっつ
少女――ユンは満面の笑顔で抱きついてきた。僕の胸のあたりに顔を埋める格好で力いっぱいしがみついている。その華奢な両腕からは想像し難い力強さだった。ありったけの力を振り絞ってしがみついているのだろう。急にユンのことが愛おしくなって、僕は左手でユンの背中をさすりながら右手で頭を撫でてやった。研究機関にいた頃は、こうして何度も泣き虫ユンを慰めてあげたものだ。こうすると安心するのか、そのうち泣き疲れたユンは『スーッ』と眠り出して、翌朝になると明るく元気で無邪気な元のユンに戻っていた。
「でも、どうしてここに来たんだい?」
「んー、おじちゃんがおにぃちゃんのところにいきなさいって」
ユンは僕の体につかまった姿勢のまま、顔を上げて上目遣いでじっと見つめてきた。僕はユンのその真っ直ぐな眼差しに耐え切れず、思わず明後日の方向に視線を反らしてしまった。
なんでユン相手にこんなドキドキしてんだ?
「おじさん? 研究機関の誰かがそう言ったの? それとも親戚の人?」
「んー、そーだっ。ユン、おにぃちゃんのためにおしょくじつくったんだよ」
僕の質問など意にも介さずといった感じでささっとキッチンに移動するユン。
そういやユンって、なんだか突拍子もない動きをするやつだったよな……。
「いつも食べる役専門だったのに、いつの間に料理するようになったんだ?」
ユンと最初に出会ったのは研究機関で食事当番をしているときだった。調理場で食事を用意している最中、出来上がったはずの料理が一人分消えていることに気がついた。おかしいと思い室内を捜索したところ、つまみ食いどころかガチ食いしてるユンを見つけた。最敬礼しながら満面の笑みで『おいしかったよ』と言い放ったユンを調理室からつまみ出したのが最初の出会いだ。研究機関の指導者連中に事の顛末を話したが、結局当番である僕の責任ということになった。それからというもの、僕が当番のときには必ず調理室にこのつまみ食い虫が出現して、僕は調理のほかに出来上がった食事を守るという仕事までしなければいけなくなった。ユンにやられると僕が食事にありつけないことになるからまさに死活問題だ。
「おにぃちゃんにはおいしいおりょうりをつくってもらったから。そのおかえしだよ」
いや、ユンのために作ったことなんて一度もないんだけど……。
「それ本当に食べられるんだろうな?」
「おいしいよ。たべてたべて」
そういってユンがテーブルに運んできた料理はカレーライスだった。
まぁ、匂いでわかってはいたんだけど……。
そもそも、研究機関にいたときにカレーライスという食文化はなかった。なので、ユンがカレーライスの作り方を知っていることがとても不思議だった。
「……ん、じゃあ、いただきます」
見たところ、具は『じゃがいも』『にんじん』『たまねぎ』それと肉は『豚肉』かな? 僕が買い置きしていた食材を使ったようだ。とりあえず用意されたスプーンですくって口に運んでみる。ユンはいつの間にか僕の隣に座っていて、まじまじと僕が食べるのを見つめている。その表情はすごくニコニコしていた。これではもし不味かったとしても正直には言えない。
「――!? うっ、う……うん、普通に……う……まいな」
「へへっ」
そう言うユンは心底嬉しそうだ。しかし、野菜がすごく硬い――というか生じゃないか。だいたい、カレーにしては出来上がるのが早いと思ったんだ。僕が目覚めたときには包丁の音が聞こえていたし、肉やたまねぎは炒めてもいないような気がする。でも、こんなに嬉しそうなユンを前にしては何も言えない。
「じゃあ、けいやくせいりつだね」
「へ? 契約って? 何のことかな?」
「おねぇさんがいってたよ。ごはんたべさせてあげたらずっといっしょにいていいんだって」
さては……教官の入れ知恵だな。作り方を教えたのもまさか……教官……なのか?
「しょうがない……。わかったよ」
こんなユンを見て断れるようなヤツがいたらそいつは鬼だよ。まぁ、ご飯はちゃんと炊けているみたいだし、カレーも生野菜を除けば他はまともだ。
「やったぁ♪ おにぃちゃ~~ん」
「おいっ、くっつくな。まだ食べてるだろ」
「ふつつかものですが、これからよろしくおねがいします♪」
僕の言うことには全く耳を貸さず、ユンは僕の左腕に両腕でがっちりとしがみついて嬉しそうに笑っている。
僕は結局この現実を受け入れることにしたが、なぜだか言い知れぬ不安を覚えてどうにも気持ちが落ち着かなかった。