雪が解けた日 2
あの日から俺の生活は劇的に変わった。
その日暮らしで住む場所も食べるものも満足になかった俺を引き取った男は、俺に使用人としての仕事を与えた。知らないことを知っていく毎日は充実していて、目まぐるしく日常が過ぎていく。丁寧な言葉遣いを覚え、美しい所作を学び、お嬢様を守るための戦う術も得た。
薄汚いドブネズミが飼いならされた番犬になり、皮と骨しかなかった未発達の体に肉がついて背が伸びても、お嬢様は何も変わらなかった。
初めて出会った頃に自分から動いていたのがウソのように、彼女は動くことをしなかった。起床を促せば素直に体を起こすし、食事を出せば口に運ぶ。けれどいつもそこに意思は感じられなかった。
「アレク様、お嬢様はどうして何もお話にならないのですか?」
俺を拾った男はアレク・バートリーと名乗った。使用人である彼が勝手に人を雇ってもいいのか不思議だったが、この屋敷の管理はすべて彼に一任されているらしくいつもお前は何も心配しなくていい、とはぐらかされてしまう。
「坊ちゃんの声のあまりの美しさに我々が惑わされないように、妖精女王が封印してしまったのですよ」
「どうしたら妖精女王に声を返していただけるのでしょうか」
「お前は坊ちゃんのお声が聞きたいのかい?」
「はい。俺、お嬢様とお話してみたいんです。何が好きで、何が嫌いで、どんなことに興味を持つのか。お嬢様の子ともっともっとたくさん知りたいのです」
そう言うとアレクはいつもの優しい笑みを浮かべて俺の頭を撫でた。
「坊ちゃんのよき隣人に、お前がなることをわたくしは祈っているよ」
お嬢様は喋らない。笑わないし、放っておけば椅子に座ったまま微動だにせず一日中外を眺めて過ごすだけ。意思のない息をしているだけの人形の彼女が、いつか自分の心の赴くままに生きられる日をずっとずっと願っていた。
寒い冬の日、アレクが死んだ。
寿命だったのか、何か持病があったのかはわからなかったけれど、彼が死んだのだと簡素な手紙が一通屋敷に届けられた。
「この歳ですからね、一度実家に顔を出して来ようと思うのです。留守を頼んでもよろしいですか?」
彼の実家は妹夫婦が住んでいるらしく、もう何年も顔を合わせていないのだと彼は言った。この屋敷には俺がいるから留守を任せることができると。
「坊ちゃんを、よろしくお願いしますね」
思い起こせば彼はいつ頃帰ってくるのかは言わなかった。俺は勝手に一週間ほどで戻ってくると思っていて、まさか彼が死ぬだなんて考えもしなかった。
屋敷の管理は新しく雇った使用人に一任する。
なんの効力もない口約束のような権利の譲渡に異を唱えるものはいなかった。彼が死んで一か月がたっても、お嬢様の両親はおろか、誰も屋敷を訪ねて来る者はいなかった。
「……お嬢様」
いつも通り返ってこない返事に気づかないように、失礼します、と一言添えて扉を開ける。何も移さないガラス玉の瞳で窓の外を見つめていた瞳がゆっくりとこちらを振り返った。
彼が死んで一か月。彼の弔報を言い出せなかった。
お嬢様にとってアレク様はどんな人間だったのだろうか。大切な人?親のような人?もし、彼女にとって彼がただ視界の隅で動く生き物でしかなかったとしたら、彼女にとって俺とはなんなのだろう。突きつけられる真実が恐ろしくて、のどは張り付いたように動かない。
「お嬢様」
何も移さない1対のガラス玉。踏み荒らされたことのない雪原のようなお嬢様。
「アレク様が死にました」
俺の心をかき乱したその知らせも、彼女の心を動かせない。
唇は震えず、人形は涙を流すこともしない。この人は本当に生きているのだろうか。ただ息をしているというのは生きていることになるのだろうか。
「アレク様の代わりに今日から俺、いいえわたくしがこのお屋敷を守ります」
俺が死んでもきっとこの人の心は動かない。足跡一つ残せない。
それでもいつの日か彼女の心が息を吹き返したとき、俺が存在したことを知ってもらえるように。
「お嬢様、俺に名前を付けてくださいませんか」
それ以外、もうなにも望むことはない。