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恵の『捻くれ者』という言葉すら懐かしく感じるようになった、テストの最終日。
全日程を終えた彼方は、使った鉛筆と消しゴムをそのままに、重々しい黒に染まった雨空を見やった。『捻くれ者』を認めた彼の目は、どこか惜しむように細められて、窓ガラスに映る教室内の風景とその向こうを見つめていた。
クラスメイト達が、ようやくテストが終わったと笑顔を浮かべて騒ぎ始める。外の激しい雨など全く感じさせない陽気な室内には、夏休み明け時と同じような活気さが戻っていた。
教室にやってきた担任の小野が、やや呆れたように息を吐いた。一番騒いでいた華奢な男子生徒に目を向けると「タカナシ」と呼ぶ。
「テストが終わって嬉しいのは分かるが、近藤にプロレス技を掛けるのは『帰りの会』が終わってからにしなさい」
「先生ひっでぇ! 見てッ、タカナシしか楽しんでないよ!? それなのに俺、終わったらまたヘッドロックとかなくない!?」
「はいはい、幼馴染の面倒はしっかり見てやれよ近藤~」
片手をひらひらと振って進み、小野が教壇に立つ。近藤と呼ばれた生徒が、頭を抱えて「従兄弟のこいつと同じ中学とかマジ嫌だ……ッ」と頭を抱えた。
言われた通り解放した男子生徒タカナシが、きょとんとしたまま従兄弟を見つめた。それから、まるで直前までの事を忘れたかのように妙な立ちポーズを決めてから、「帰りにカラオケ行ける人!」とクラスメイト達に提案を投げた。手振りも落ち着きがなくて、はしゃぐ子犬みたいだった。
「あははは、タカナシまずは座りなって」
「そうそう、あとでアタシ達が話聞いたげるからさ」
「小野が困ってるぜ、タカナシー」
「こら、誰が小野だ。先生と呼べ」
教壇から小野の注意が上がり、教室に大きな笑いが起こった。
彼方は、ガラスに映るその光景を見つめながら、ひっそりと今にも泣きそうな表情をした。胸が締め付けられるほどの切なさを感じていたが、それと同時に、教室内に溢れる暖かさに包まれて心が慰められている自覚もあった。
帰りの会が進められている間、宣告を待つかのように教壇の小野を見つめていた。自分が何故こんなにも緊張して落ちつかないのか、気付き始めている事から目を背けたくて頭を空っぽにする。
ただぼんやりと眺めているはずなのに、どこかで諦めに似た感情が胸の中に広がるのを感じていた。九月に入った頃からのある直感が、ひしひしと令気を孕んで忍び寄ってくるようだった。
「これで帰りの会は終わりだ。ひどい雨だから、気をつけて帰ること――ああ、それから江嶋」
帰りの会をそう締めた小野が、今思い出したような表情を作ってこちらを見つめ返してきた。
名を呼ばれた彼方は、ゆっくりと背筋を伸ばして彼と視線を絡めた。クラスメイトの視線が一気に彼方へと集まり、「一体何事だろう?」と少し興味を引かれたように皆が黙る。
しばらく、担任の小野の口から言葉は出て来なかった。どこか躊躇うようにその表情が曇る。不審に思ったクラスメイト達が振り返り、彼らは一斉にそれぞれ茶化す目をやめた。
彼らの視線の先には、ただ一人背筋を伸ばして、行儀よく椅子に腰かけている彼方の姿があった。彼方は「嗚呼」と言うように顔から力を抜いて、ただただ小野を見つめている。その表情はあまりにも無垢で、諦めで……同級生達はよく分からないまま心配な空気を漂わせた。
しばらくの間を置いた小野が、調子を戻すように「おっほん」とわざとらしい咳払いをした。
「少し話があるから、放課後、美術室においで」
ぎこちない笑みを浮かべてそう言うと、そのまま『帰りの会』を終えて教室を出て行った。
担任の呼び出しというよりは、美術部顧問としての要件なのだろう。そう解釈したらしい生徒達が、帰り支度にとりかかりながら放課後について話し始めた。彼方は教壇をぼんやりと見つめたまま、すでに嫌ではなくなっている教室の風景も目に留めて、そっと目を細める。
「ああ、やっぱりそうなのか」
思っていた以上に、ひどく落胆したような声が出た。
ゆっくり席を立ち、いつも通りの空気に戻ったクラスメイト達の間を通り過ぎた。教室を出ると、沢山の生徒が行き交う廊下で歩みを止めて、二組の教室がある方向へ視線を向けた。
廊下を曲がったところに、二組の教室はある。
その曲がり角の向こうを想像して、今は珍しく静かであるように感じた。
普段は、仲良しクラスだといわれている二組の生徒達の大きな声が飛び交い、ダンス部を結成した女子生徒達が音楽を流し始める時間なのに、そんな騒がしさがこちらまで何一つ伝わってこないでいる。
そういった気分になれないでいるのだろうか。そう想像してしまい、彼方は表情を曇らせた。美術室へと向けて歩き出したその足は、ひどく重い。
僕はきっと、恵とはもう会えないのだろう。
夏休み最後の日、正門で別れた時からあった予感が、彼方の中にじわじわと広がっていた。それは九月に入ってから繰り返し予感し、気付かない振りをしていたものだった。
美術室へと向かいながら、「ここにいればいい」と言った自分の言葉を思い返した。そして、そう言った自分が「ここにいて欲しい」と思っていた事にも気付いて黙り込む。
しばらくもしないうちに美術室が見えてきて、彼方は一度その前で足を止めた。
外がひどい雨のため、室内には明かりがついていた。中には小野と秋山がおり、神妙な顔つきで唇を小さく動かしていた。お互い顔も合わせず、夜のような雨空を見やっている。
不意に、自宅の部屋に置いてある完成した絵の事が思い起こされた。昨夜、完全に乾いているのを確認して、テスト期間が終わった後にでもすぐ渡せるよう、既に丁寧に包装してあった。
そう思い返した途端、恵が初めて美術室にやってきた日の事からが頭の中を巡っていった。
その大きな揺らぎに呑まれそうになって、彼方は大きく息を吸い込んだ。脳裏に蘇る映像や言葉が、溢れ出したそこ目掛けて逆流して戻っていくのを感じながら――。
「…………そうか。やっぱり僕らは『初対面じゃなかった』のか」
言いながら、静まり返った目を美術室に戻して、ゆっくりと前に進んだ。
目を引かれて、どうしてか恵と過ごす時間ばかりを思い返すようになった。そんな夏休みのある日、物憂げな彼女の横顔に、ふっと覚えた違和感の一つがソレだった。
興味のない情報は、古い記憶の倉庫にしまって忘れる。幼い頃しばらく両親のやりあう声を聞かされ、いつもそうやって全部胸の奥底にしまい込むようになった。
そんな自分の忘れかけていた古い記憶の中に、九月の二週目になってから『うつみめぐみ』というフルネームがぼんやりと残されているのに気付いた。小学校の机に貼られていた名前で、そこにはいつも休みがちだった、痩せ細った小さな女の子が俯いて座っていた。
小学校の頃、二回だけ同じクラスになった子で、彼女は途中からいなくなった。通っている大きな病院の近くに引っ越したらしい、という噂をチラリと耳にした。
そうだとしたのなら、恐らくは。
彼方はぎゅっと唇を引き結び、それから扉を控えめにノックして開いた。




