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 それから二週間、彼方は恵と美術室で過ごした。


 三日ほど続いた大雨で、互いの道具を美術室に置いて登下校した事はあった。でもそれ以外に変わった日はなく、それぞれが絵を描いたり写真選別を行う毎日だった。


 動きが変わったのは教師の方だった。いつもは午後に少しだけ顔を出して終わるのに、決まった時間に美術部顧問の小野と、写真部顧問の秋山が揃ってやって来るようになった。おかげで恵は写真の事を熱く語り、彼らと三人のお喋りはいつも数十分に及んだ。


 なんでこうもべらべらと喋れるんだろうな、と彼方は賑やかな談笑が少し鬱陶しかった。たびたび話しかけられるのが嫌で、キャンバスの裏に『集中作業中』という紙を貼ったりした。


「あと一週間で夏休みが終わりなんて、有り得ないわ」


 その日は、午前中から嫌な曇り空が広がっていた。午後になって天気予報通りの雨になり、すっかり作業の手を止めていた恵が疲れ切ったような声を上げた。彼女は机に両手を伸ばしてだらんっとしており、時々バケツをひっくり返したように窓を叩きつける雨を見ている。


「どれもいい写真で、選べない……」

「テーマでも決めればいいじゃないか」


 同じテーブル席に腰かけていた彼方は、ちょっと苛々した声でそう言った。


「朝一から僕も手伝わされているんだぞ」


 秋山に頼まれて、先程まで顧問兼担任の小野と、四人で写真の選別を手伝っていた。どうにも前に進まないまま大人二人は職員室に戻っていってしまい、今は彼方一人が手伝わされている状況だった。


 運動部が校内で練習しているため、たまに廊下を「ふぁいと・おー」という掛け声を上げて、ぞろぞろゆっくり走っていく部活生にも気が散っている。おかげで絵描きに集中出来そうにもなくて、こうして『臨時写真部』みたいになってしまっている現状も腹立たしい。


「そう言われてもなぁ」


 のろのろと身を起こした恵が、また曖昧な発言をする。そのタイミングで、廊下を運動着の女子生徒達が「ら・ら・ら・ふぁいっおー」と小走りで進んでいった。


「いい加減にしてくれ、もう二週間経ったぞ。良い写真も沢山撮れたと言っていたじゃないか」

「うーん、でもね、前撮ったやつも良くってさぁ……」


 じゃあ次に回せばいいじゃないか、と出かけた言葉を彼方は飲み込んだ。


 彼女がこれから出そうと思っている写真集は、きちんと出版会社で仕上げるものなので金額は安くないだろう。お金を出す彼女の両親の事を考えると、それ以上強くも言えなかった。


「満足いくまで悩めばいい」


 苛々してそう言葉を掛け、彼方は彼女の向かいで頬杖をついた。


 六個分の机を繋げたテーブルには、はじめの頃よりも増えた写真が山となっていた。一体どれが『いい写真』なのかさっぱり分からなかったが、それでも一枚一枚目を惹くのも確かだった。


 ページ数と掲載する写真の数も決まっていて、あとはその写真を選ぶだけ。でも肝心なその写真が、彼女の中では一向に決まらないでいるらしい。


「お父さんもお母さんも、ゆっくり選んでいいのよって言ってくれたけど、やっぱり決めなくちゃいけなくて……はぁ、どうしよう」


 恵の「どうしよう」は、ここ二週間の口癖だった。夏休みが終わる前には、というのが希望であるようなのだが、あと一週間もしたら新学期が始まってしまう。


 聞き飽きた台詞だ、と返してやるもりだったのに出てこなかった。どしてか彼女がいる風景を眺めてしまい、眉間の皺も忘れて眺めていると、頭を抱えていた恵と視線がぶつかった。


 ふと、恵がわたわたとし出した。彼方が疑問を伝えるようにチラリと眉を寄せてみせると、彼女は「実はね」と唐突に言葉を切り出してきた。


「載せたいものというか、その、テーマは決まっているのよ……?」

「ふうん」

「あっ、その目、信じてないわね」

「だってさんざん悩んで、その相談でおしゃべりに付き合わせて先生達を困らせていただろう。今日は、とうとう僕まで引っ張り込まれた」


 ズバリと指摘を返してやったら、彼女が「うっ、それは申し訳ない……」と言った。それでも写真集の全体的なイメージが固まっているのは確かなようで、その計画とやらを話し始めた。


「テーマは本当に決まっているのよ。いくつかに章を分ける感じかしら。まずは家族でしょ? それからアングルが近所に回って、それから学校に移るの」


 彼方は、しばらくぼんやりと話す様子を眺めていた。彼女がいう写真集が出来上がったところを想像して、「なるほど」と呟く。


「それで良いんじゃないか? なら掲載する写真の総数を、まずはどのテーマでどれだけ使うのか割合を出して、それからおおよそ絞りながら探すのはどうだろうか」

「どのテーマも削りたくないし、やっぱりそうするのがいいのかなぁ。秋山先生も言ってたしなぁ……」


 恵は言いながら、悪天候で気分が乗らないのをこらえるような表情で、のろのろと手を動かし始めた。しばし彼方は、彼女の肉付きの悪いが、写真を広げていく様子を眺めていた。


 見知らぬ生徒の笑顔、見覚えのある少年少女が廊下で決めポーズを取る写真。知らない土地に恵が映っている写真……それから町の公園で、子供達が親達と揃ってヒーローのポーズを取り、こちらに笑いかけている写真もあった。


 不意に、沖縄に行った修学旅行の写真が、彼方の目に留まった。



 伊江島を背景に、生徒達がカメラを向いて好きにポーズを取っているものだった。一緒に投げキッスを決める女子生徒の横では、男子生徒数人が飛行機の形を作っている。その後ろから、背筋を伸ばしてヨガのポーズをしている男子生徒の姿もあった。


 その横にいるのは、真面目そうな男子生徒だ。彼を後ろから茶化すように羽交い締めにした長身の生徒の隣では、五人の女子生徒達が最近流行っていた振り付けの一部を再現していた。



 その一瞬の彼らの、それぞれが詰まった『いい写真』だと思った。


「いい写真でしょ」


 つい、じっくり見つめてしまっていると、そんな恵の言葉が聞こえた。


 ふっと我に返って顔を上げた。彼女を見つめ返した彼方は、「――そうだね」と抑揚なく答えた。そのまま写真に目を戻したら、にしししし、と聞き慣れてしまった彼女の笑い声がした。


「やっぱり、あなたは人に凄く興味を持っているんだわ」

「さぁ、どうだろう。僕にはよく分からないし、興味もないよ」


 言いながら、再び写真から顔を上げた。

 無表情の彼方と、余裕の笑みを見せる恵がしばし互いの表情を見つめ合う。数秒もしないうちに彼女が肩を竦めて、それから「見て」と言って写真を指した。


「私の写真にはね、人のいない風景は一つだってないの」


 そう言われて、彼方は広げられた写真を上から眺めた。


「実をいうとね、私が彼らを好きなのよ。その一瞬一秒だって愛おしいの」


 そんな彼の様子を見つめながら、恵が頬杖をついて白状するように言った。


「こんなにも『その一瞬』を覚えていたくて、だから必死になって撮ってる。私は、彼らに凄く興味を持っているの。一枚だって同じ時はない――これを見て」


 恵はそう言うと、続いて一枚の写真を彼方の前に滑らせた。


「こっちのセミロングの子、私の友達のアユカちゃんなんだけど、これ、一年生の時の写真なの」


 その写真には、真新しい制服に身を包んだ生徒達の教室風景が写し出されていた。その中央前に、被写体となっている華奢な女子生徒が、少し恥ずかしそうな笑顔を浮かべて写っている。


「君と正反対で、内気そうな子だ」

「あなただって黙っていればそうじゃない」


 嫌味っぽく言ってやったら、しれっと返された。


「僕がいつ君と同枠になったと?」

「内気ではないのは確かね」


 眉根を寄せた彼方を気にも留めず、そう言った恵が次の写真を指した。そこには他の女子生徒よりも少し背の高い、ショートカットの頭にトレパン姿の女子生徒がいた。


 小麦色のはっきりとした肌に、しっかりとカメラを向く活気に満ちた黒い瞳。その両隣りには、同じように小麦色に焼けた、中心の彼女よりも背丈の低い女子生徒が三人写っていた。


「この背の高い子が、今のアユカちゃんなの」


 そう教えられた彼方は、特に驚きも見せず「へぇ」と相槌を打った。目鼻立ちには面影があり、人の表情に関しては誰よりも深く理解のある彼は、一目で同じ生徒だと分かった。


 すると恵が、的を外したような顔をして「驚くと思ったんだけどなぁ」と言った。彼は唇を尖らせた彼女を見やり、無表情のまま声を掛ける。


「君の反応がまいち分からないんだが、良いように変わったのなら、それでいいじゃないか」

「まぁ、うん、それはそうなんだけど……」


 恵は、ぽりぽりと頬をかいて椅子に座り直した。思ってもみなかった感想を聞いたのようだった。数秒ほど手をもじもじとさせ、それから写真にそろりと手を伸ばして引き寄せた。


「撮った写真を見せると、こんな時もあったなぁって、アユカちゃん達は喜んでくれるの。私の中にも彼女達の中にも、同じ(とき)や思い出が残っているのって素敵だなぁと思って」


 小さくなった声が消えて、窓を叩く激しい雨音だけが鈍く響いた。


 それで写真部を立ち上げたのだろうか。お喋りな彼女が、こうして中途半端に黙り込むのは少し珍しく感じたものの、写真選びに悩んでいる事を考えて写真へと目を戻す。


「爺臭いって言われるかもしれない。でも私は、流れて行く時間も、その中にいる彼らも大好きなの。……私は覚えていたいし、覚えていて欲しい」


 そう続けられた言葉に、どこか違和感を覚えた。


 結局のところ、人に興味を持っているのも好きなのも君の方じゃないか、と反論しようと思っていたのに言葉が引っ込んでしまう。


 言いたい事から一歩身を引いて、話しているようにも感じた。それが何かの暗号のように思えて、彼方はちらりと彼女を盗み見た。


 写真を眺めている恵は、どちらともとれない表情で目を細めていた。しかし、ふっと視線に気づいたように顔を上げる。そして目が合ってすぐ、何かを誤魔化すみたいにぎこちなく微笑みかけられた。


 不意に胸底で、違和感に似たものが静かに波打つのを感じた。ざわり、とそれが胸底を撫で上げる。とても焦燥するような何かに、らしくなく冷静さをゆすぶられるような気がした。


「あなたも彼らが好きで、きっと誰よりも強く興味を持っているのよ」


 こちらを強く見据えたまま、恵が困ったような笑みでそう告げてきた。

 そうだと言って、と、彼女の揺れる瞳が言っているような気がして――そんな錯覚に彼方は視線をそらした。室内に響き渡る雨音の沈黙に、何か言わなければと思って息を吸い込む。



「分からない、……僕は、きっとそんな感情(もの)を持ち合わせていないんだ」



 そのまま本心を口にした。普段だったら『別に』とそっけなく言う。たったそれだけで終わるというのに、どうしてか今の彼女に対してはとても失礼になるように思えた。


「昔からそうだった。僕には、好きだと呼べるものがよく分からないんだ。僕は理解出来ないまま絵を描き続けていて、それは胸や頭の中のごちゃごちゃとしたものが不思議と止まってくれるからで…………どうして『描かなかったら』胸がざわざわするのかも分からないのに」


 描いている間は無心でいられる。でも、描いたらまた正体の分からない小さなざわつきを覚えるのだ。一体それがなんであるのか、自分でずっと考え続けている。


 そう思いながら見つめ返したら、にしししし、と恵が無理やり作ったみたいな笑みを浮かべた。


「急に変なこと言ってごめんね。私が人を好きで、興味を持っていると話したかっただけで……――」


 でもね、と彼女がどこか大人びた柔らかい微笑みを浮かべた。普段見せるような少年じみたものとは違って、一人の知らない女の子に見えた。


「きっと、あなただってそうなのよ。時間は沢山あるんだもの。今は分からなくったって、焦らなくてもきっと分かる日は来るわ。過ぎていく時間も移り変わっていく切なさすら、大切でたまらなく愛おしい、という事を」


 まるで自分に言い聞かせるように囁いて、恵が窓の向こうへ目を向けた。


 彼方も、つられて窓の向こうを見やった。一層激しくなった雨が、電気の明かりに反射して、美術室にいる二人をきれいに写し出していた。


「それにしてもひどい雨ねぇ。今日の帰りまでには弱まるかな」

「ひどい雨だけど、君の言葉で言うのなら『きっと雨は弱まる』のだろう」


 そう返したら、恵がいつものきょとんとした顔で振り返ってきた。彼方は、いつもの無表情でその視線を受け留める。


 しばらくお互いを見つめ合った後、恵が、ふふっと可愛らしい笑みを浮かべた。


「あなたって、まるで文学者みたいね」

「君こそ、まるで難しい事ばかり述べる学者のようだ」


 彼方はそう言うと、腰を上げた。立て掛けていたスケッチブックへと歩み寄って、数時間振りにその椅子に座り直した。


「何か描くの?」


 そう尋ねる彼女の顔が、にしししし、という笑みに変わった。それを見届けた彼方は、そっと視線を白紙のスケッチブックに戻して小さく口を開いた。


「それじゃあ、君でも描こうか」

「にししっ、それならありのままの今の私の、花のような可愛らしさを描いてね」

「生憎、僕は想像画は描かない。僕が知っている、君のままを描くよ」


 彼方は表情もなく言い返して、鉛筆を手に取った。

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