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週が開けた月曜日、彼方はいつものようにまず職員室へ向かった。美術室の鍵を受け取ったところで、それがスペアキーの一つであり、写真部と美術部の部室がしばらく共同になる事を知った。
放送室の隣は、これから放送大会に向けて練習場になるらしい。どうやら恵がほとんど部室を使っていない事も要因して、顧問同士で勝手に話が決定したようだ。
「お前たちの仲が良い事は知っているよ。だから、しばらくは一緒に頼むよ」
美術部の顧問であり、現在も担任である小野がウィンクを一つしてそう言った。彼方は何も言わなかった。言い返そうと思ったのに、どうしてか否定の言葉は出て来なかった。
美術室へ行くと、すでに鍵が開けられて空気の入れ変えがされていた。
窓は全て開けられていて、括られたカーテンが風にはためいている。一緒に稼働している冷房機の冷たい風が、熱気と一緒に室内を駆け廻っているのを肌で感じた。
「あ、彼方君。おはよう」
窓の外を見ていた恵が、振り返りざま元気そうに声を投げかけてきた。
彼方はちらりと彼女を見やり、それから絵の道具が置かれているロッカーへと向かった。
「しばらく部室が一緒になるかもしれないって、君は知っていたのかい」
歩きながら尋ねてみると、こちらを目で追いかけてくる恵の方から「ううん」と返答があった。
「私も今日知ったのよ。他に使えそうな部屋を探すつもりではいるけど、ひとまずしばらくは美術室にお願いねって言われたの」
背中からかかる声を聞きながら、ロッカーを覗き込んで「そう」とだけ言った。そこから物を取り出していると、恵が少し困ったような笑みを浮かべながらこう続けてきた。
「あなたには悪いと思ってるんだけど、写真集に載せる写真の選別をしなきゃいけないから少しスペースも必要で。じゃあ広いし一人しか部員がいない美術室が一番かなぁって事になったというか……うん、私も秋山先生に聞いた時は、びっくりしちゃったというか」
どこか言い訳のように、ごにょごにょと説明してくる。
彼方は、とくに興味もなく恵の話を聞いていた。彼女が口にした『秋山先生』とは、科学の授業の先生の事だろう。恐らくは、写真部の顧問なのかなとぼんやりと考えながら荷物を運ぶ。
「悪いと思っている割には、君は随分と楽しそうでもあるけどね」
描くための道具をセッティングしながら言うと、恵が可愛らしいとは呼べない笑みを浮かべて「にしししし、ばれたかッ」と明るい声を出した。
「すぐに仮部室が見つかるか分からないけど、まっ、しばらくお世話になるからよろしく!」
「勝手にすればいい」
彼方がそう答えると、許可は取ったと言わんばかりに彼女が動き出した。
まずは椅子を引っ張ってきて、続いてキャンバスの向かい側に六個の机を並べて大きなテーブルを作る。それから、仕上げに茶色い箱を持ち上げて大テーブルの上に置いた。
「よいしょッ」
置いた際の重々しい音と、恵の声が重なった。その箱がかなり重たいものである事を察した彼方は、何が入っているのか尋ねる必要も間もなかった。箱の隙間から数枚写真がこぼれ落ちたのが見えて、「なるほど」と納得しながら自分の椅子に座った。
スケッチブックの新しいページを開いて、気ままに鉛筆を走らせた。こちらの作業は邪魔する気がないようで、恵が半分の窓を閉めて写真の選別作業に入る。
冷気と外の熱気が入り混じった室内には、お互いの作業音だけがあった。ぼんやりと絵を描く向かいで、真剣な表情をした恵が、テーブルに広げた沢山の写真と睨み合っていた。
どのくらい経った頃だろうか。運動部が準備を始める声や物音が聞こえ出して、それが練習音に変わった。わぁっと熱気ある歓声が窓から流れてきて、彼女が美術室の時計を見上げた。
「じゃッ、ちょっと行ってくる!」
そう唐突に言い放ったかと思うと、恵がカメラを首にさげて教室を飛び出していった。彼方が「別に僕に許可を取るまでもなく」と言い終わらないうちに、嵐のように教室からいなくなってしまう。
元の一人だ。彼方はそう思いながら、しばし自分が鉛筆を走らせる音を聞いていた。
不意に、窓の外でわッと一際大きな歓声が上がり、描き続けていた手が止まった。いつもは閉めているから聞こえてこないでいる男子生徒達の、続く声が耳に入ってきた。
そこから入ってくるのが『音』ではなく、『台詞』のせいだろう。普段なら気にもならないのになと思いながら、彼方は鉛筆を置くと椅子から立ち上がっていた。
開けられている窓へと歩み寄ってみると、まず雲が多い明るい夏空が目を引いた。それから、向こうに見える運動場を何気なしに見てみると、野球部の少年達が集まって何かを喜んでいる姿があった。
「やったなぁ、拓郎! お前やれば出来るじゃん!」
一番大柄な少年が、小さな少年を羽交い締めにして褒めていた。集まった部員の口からも「拓郎」という名が止まらない。
小さな少年は嬉しそうに笑っていたが、その瞳からは大粒の涙が流れていた。次第にその顔はくしゃくしゃになって、とうとう彼はわっと泣き出してしまった。彼は「先輩、俺ようやく一つ出来たばかりです」「それなのに、もうお別れなんて嫌です」と言っていた。
彼方は興味もないと自覚していながら、自然と手を窓に置いてそちらを覗き込んでいた。一つ下の一年生であろう少年の泣き顔をじっと見つめる。大雑把に彼の坊主頭をぐりぐりとする大柄な少年は、三年生らしい体格と容姿をしていて、その目には小さく涙が光って見えた。
「そんなこと言うなよ、拓郎。俺だって、まだまだここにいて皆と野球がしたいんだ。俺ら三年生全員、もっとお前らを成長させて、もっと一緒に野球がやりたかったんだよ」
その少年が力強い声で言うと、一人、また一人と泣き出していった。大柄な男性顧問が「泣くんじゃない」と言ったが、野太い声は情けなく震えているようだった。
運動上にいた他の部員達の視線が、彼らに集まっていた。同じように涙ぐんで「お前らはよくやったよ」と、どこからともなく声が上がり出した。
「来年がある!」
「そうだ、来年も全国大会はあるんだぜ!」
「お前ら後輩組が、今度は大舞台で活躍してやればいい……!」
泣き声、笑い声、こらえるような調子外れの声、声援……沢山の声が上がる。それを聞いていた彼方は、思わず眩しそうに目を細めた。
ああ、それは、なんだかとても――
その時、不意に聞き慣れたシャッター音が聞こえた。そのまま音のした方に目を向けてみると、野球部を写真に収めている恵の姿があった。
撮った写真を、彼女はが確認して「にししししっ」と満足気に笑った。弾むような足取りで歩き去っていくその横顔を見た彼方は、そっと窓から離れて椅子に座り直した。
少し線が引かれただけのスケッチブックを手に取ると、勢いよく消しゴムを動かした。白一色に戻ったそれを再び立て掛け、背筋を伸ばして鉛筆を手に取る。
そのまま、突き動かされるように素早く鉛筆を動かした。勢いよく鉛筆を走らせ続け、時々眉根を寄せて「こうじゃない」と言っては、消しゴムを手にとって修正を加える。その様子は、記憶にある映像が消えてしまわない内に、と焦っているようでもあった。
声、熱気。土の匂い、風――……彼方は、それだけを思い返し感じながら鉛筆を動かせた。冷房機の風よりも、窓から吹き込む夏風のほうが涼しいなと、らしくない事を思いながら額に浮かび始めた汗を拭う。
黒一本で強弱をつけて表現する。
ソレを描こうと思った時から、彼方はそう決めていた。続いて筆箱から沢山の種類の鉛筆を取り出すと、左手に数本持ちながら右手で描き上げていく。しばらくもしないうちに手はどんどん黒くなり、鉛筆の黒だけで描かれた絵が段々と浮かび上がってきた。
どのくらい集中していただろうか。
ふっと描き終えた事を自覚して、彼方は我に返った。
顔を上げて時間を確認してみると、まだ一時間も経っていなかった。息を吐き出して、全身から力を抜きながら椅子に背を預けた。ギシリと軋む木音を聞きながら、鉛筆画を眺める。
スケッチブックいっぱいを使って仕上げられた絵は、土汚れがついた野球制服の二人の少年が描かれていた。泣き笑いの表情や触れ合う腕や手の感じは、今にも声や熱気が伝わってきそうなほどだった。
その時「ただいまぁ」と充実を滲ませた声を上げて、恵が戻ってきた。六個の机からなるテーブル前の椅子に腰かけた彼女は、満面の笑みで「ちょっと聞いてちょうだい!」と彼方を見たところで、ハタと止まって小首を傾げた。
「どうしたの? 休憩中?」
「……うん、そう」
彼方は窓の方へちらりと目を向けて、少し見える青空を眺めながら言葉を返した。すると恵は、少し納得いかないように顔を顰める。
「私、あなたが休憩しているの初めて見たわ」
「僕の休憩中に君がいるのが珍しいんだ」
「あっ。そっか、なるほどね」
確かにそうね、と口にした恵が、ハッと思い出した様子で目をきらきらとさせた。
「そういえば凄く良い写真が撮れたのよ! 野球部の三年生が、途中敗退だった大会後の最後の練習試合だったみたい。なんだか感動したなぁ。これがさ、またいいアングルで!」
そう興奮したように語り出す。彼方はほんどを聞き流していて、けれど言い返す気力は戻っておらず「そう」「ふうん」「そうなんだ」と適当に相槌を打った。
外から伝わってくる活気が、少しずつ普段の様子まで落ち着いてきた。ようやく深呼吸を一つして、恵が落ちついたように椅子に座り直す。
途端にピタリと話声のやんだ室内で、彼方はようやく恵の方を見やった。まるで宝物を抱えるようにしてカメラのデータを確認する彼女の前髪が、風でゆるやかになびくのをぼんやりと眺める。
「満足そうな顔だね」
思うよりも先にそう言葉を掛けていた。
目を落としている恵が「まぁね」と答えて、にしししし、と笑ってカメラを撫でる。
「だって、この中にさっきの瞬間が収められているんだもの。もう戻ってこない暖かくて大切な一瞬よ。記憶の中だけじゃなくて、こうして形に残すのはとても大事な事だと思う」
貴重な一枚よ、と茶化すように彼女は続けて見つめ返してきた。
彼方は、そっと目を細めて――それからゆっくりと視線をそらした。スケッチブックを手に取ると、ページをめくって静かに立て掛け直す。
「僕には、よく分からないよ」
そう言うと、鉛筆を手に取った。
「君の言うように、一刻一刻が愛おしいなんて難しい事、僕にはよく分からない」
「あら、あなたも分かっているはずよ」
言いながら立ち上がると、恵がパタパタと向かってきて、さっとスケッチブックを取り上げた。人に絵を見られるのは好きではないのに、何故か彼女に制止の言葉を投げ掛けられなくて、彼方はパラパラとめくられていく様子を見つめてしまう。
しばらくして、彼女はスケッチブックから顔を上げた。真っ直ぐ見つめ返してきた表情は笑っていて、微塵の疑いもない強気に満ちていた。
「あなたは『知らない』『分からない』と言うけど、じゃあ、どうしてあなたの絵の中の人は、皆違う表情を見せているの? あなたはね、きっと人が見せる一瞬一瞬が好きで仕方なくて、それでいて誰よりも凄く興味を持っているのよ。じゃないと、こんな絵は描けない」
彼女は自信たっぷりに「間違いないわ」と言い、強い眼差しで見据えてきた。
どうしてこんなにハッキリ言えるんだろう。僕の何を知っているというんだ、と思いながら黙って見つめ返していると、こちらの回答を諦めた様子で恵が強気な姿勢を解いた。出会ってから初めての、どこか可愛らしい笑みを浮かべて肩を竦めてみせる。
「ほんと。あなたって、とんでもなく捻くれ者だわ」
言いながらスケッチブックを返されて、彼方はそっと受け取った。それをじっと見下ろし、一度ゆっくり瞬きをして浅く息を吸い込むと――。
「僕には、よく分からないよ」
そのまま新しいページを開いて、スケッチブックを立て掛けた。