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 翌日の土曜日、恵は午前中にやって来た。


 絵を描き始めてまだ一時間ちょいだぞ。彼方が怪訝そうに顔を上げると、彼女は彼とは正反対の嬉しそうな顔をして「見て!」と唐突に言ってきた。


「写真集をねッ、作ろうと思って!」

「最高潮にテンションの高いところ悪いけれど、だから、なんで僕のところへ来るのさ」


 彼女は満面の笑顔で、その言葉を無視してパンフレットを突き付ける。


 いつものように無視しようとした彼方は、目立つ広告のように『自費出版』と印字された字が飛び込んできて、思わず色を付けていた筆を止めた。彼女が両手で広げて見せてきたのは、出版会社のパンフレットだった。


「君、わざわざそこまでして、本格的で立派な写真集を作るつもりなのかい」


 思わず嫌味っぽく言葉を突き返したが、恵はやっぱり笑顔だった。


「私が作ろうとしている初の写真集だもの!」

「そう堂々と言い切られてもね、前から言っているけど、僕は君の事なんて知らないよ。どうせ三年生になれば、写真部として卒業アルバムの担当になるだろうに、馬鹿みたいだ」


 意気込んで「にしししし」と笑う恵に、彼方は抑揚なく言葉を投げた。


 それに対して、彼女は早速というように動き出すと、教室の奥に引っ込められている椅子へと向かう。


「願望だけじゃなんにもならないの、必要なのは行動力よ!」


 言いながら引っ張って来て、彼方の向かい側に椅子を置いた。そこにパンフレットを丁寧に置くと、またしても突拍子に気が向いたみたいに、首からさげたカメラを片手に持った。パッと動き出すと、窓側へと向かい――。


 ガラガラ、と音を立てて窓を開けた。


 解放されたそこから、外の強い熱気に乗って、沢山の生徒達の声や歓声も入ってきた。筆先から垂れた滴が、風のせいで膝の上ではなく、斜めにずれて床に色を落とす。

 彼方はそれを見届けると、チラリと眉を寄せて「おい」と窓側へ目を向けた。


「窓を開けていいなんて言っていないけど」

「開けちゃ駄目なんて言われてないわよ」


 カメラを構えたまま、恵がぴしゃりと言い返していくつかシャッターを切った。


「君、写真部は部室がないのかい」

「放送室の隣なんだけど、資料臭いんだもの」


 何気なく尋ねると、あっさりそんな返事があった。


 たった数枚の連続撮りで満足したのか、彼女がカメラを降ろした。しばらく窓の外を眺めている後ろ姿を、彼方は筆を持ったままとくに理由もなく見つめていた。


 風に揺れる二つ結びの髪、薄いブルー色のセーラー服。斜め上から差し込んだ太陽の光が当たった彼女の髪が、栗色に光って揺れているように見えた。


 外を眺める彼女は、どんな表情をしているのだろう。


 その顔を見たいと不意に思ってしまい、彼方は恵から視線をそらした。どうしてそんな事を思ったのか、分からなかった。ただ、目が離せなくなった一瞬を疑問に思う。


 熱気を含んだ風が美術室を舞っていた。切り離されていた空間が、途端に外の世界と繋がって同じ一つになったようだった。外を走り回る生徒達の表情一つ一つが、目を閉じれば瞼に裏に浮かんでくる気がして、そんなのは錯覚だと思って絵に色をつけていく。



「私はね、きっと、一刻一刻が愛しいのよ」



 ふと、恵がそんな事を言った。


 彼方は筆を止める事もなく、「そう」と言葉を返す。彼女も背を向けたまま、時々強く吹く風に髪と制服をはためかせながら「うん」と相槌を打った。


「きっと私、時を止めて、今というその瞬間を、この小さなカメラに収めているの。アルバムの中には沢山の『時』や『一瞬』が詰まってる。――それって素敵じゃない?」


 そう言うと、くるりと振り返る音がした。彼方は目も向けないまま、すっかり筆を止めて、


「僕には、よく分からないよ」


 そう返してから、彼女の方を振り返った。


 こちらを見ている恵の笑顔は、後ろから太陽の光を受けてキラキラと白く霞んでいるみたいだった。よく見えないような違和感を覚えて、彼方はそっと目を細める。


「そうかもしれない」


 ぼんやりと暖かい印象の彼女に、しばらく筆を動かす事を忘れてそう答えた。吐き出そうとしていた皮肉言葉も忘れていた。そう答えれば、またいつもみたいに笑ってくれる彼女の顔を見られる。それを、とても覚えていたいような気がした。


 しばらく恵を見つめていた。それでも、やっぱり彼女の笑った顔も姿も暖かさも、なぜだか白く霞んでよく見えないようだった。それを少しだけ、残念に思っている自分がいた。


「そういうあなたは、次の部活動発表会、どうするの?」


 恵が窓際から椅子へと歩き出しながら、そう問い返してきた。


 彼方は目そらしながら「さぁね」と短く言葉を返した。何故か話題を変えたくなって、開きっぱなしの窓をちらりと見やって眉根を寄せてやった。


「締めてくれよ」


 そうぶっきらぼうに投げ掛けたら、恵みが、にしししし、と面白そうに笑った。


「開けている方がいいよ。こっちのほうが新鮮で、居心地がいいもの」


 そう言って椅子に座ると、どこか満足そうにパンフレットへと目を落とした。


「そういうものかい」

「そういうものなの」


 何気なしに問うと、彼女はそう答えて陽気に鼻歌をうたい始める。


 彼方は、少し長めの前髪が風で揺れるのを鬱陶しく感じながら、筆をキャンバスへと向けた。強い冷気が半分窓の外へと逃げ出して、外の賑やかさがやって来ている。それなのに、どうしてか初めて美術室に踏み入った放課後、眉根を寄せて窓を閉め切った時のような感覚はない。


 いつも静かなところで過ごしていた。煩わしい物は嫌いだった。


 だから、彼方は子供の頃も、大きすぎる部屋で扉も窓も閉め切って一人で過ごしていた。あの頃は本を読んでいると心がざわざわとして、ぼんやりと何も考えずにただ白い紙に黒い線を走らせていった。その行為だけが、当時、彼にとって唯一落ちつけるものだった。


『あなたも、少しは私達の事を大切に思ってくれてもいいじゃない!』

『お前ッ、俺の事を少しは考えた事があるのか!』


 ぼんやりと幼い頃を思い出す。


 昔から、毎日のように一階で繰り返されていたのは父と母のそんなやりとりだった。静まり返り、絵を描く音だけが響く部屋に、いつも飛び込んできた煩わしい音の羅列だ。


『あなたっていっつもそうッ、仕事を言い訳にして!』

『お前は自分の事ばかりじゃないか! 少しは彼方の事を考えてだな――』

『彼方を私ばかりに押し付けないで! 少しはあなたが見てちょうだい!』


 大きくなる声、何かを叩くような物音。新しい色を付けた筆を手に取った彼方の脳裏に、続いて申し訳なさそうに食事を出す、家政婦の顔が過ぎった。


『旦那様も奥様も、お忙しいのです……』


 知っている。そんな事は、幼い頃から分かり切っているのだ。

 どちらも大きな会社に勤めていて、それぞれが自分の時間を大切にし、どちらかと言えば家庭に縛られる事を嫌っていた。


 彼方は、彼らが実際に言い合う姿を見た事はなかった。でも、その時の両親の顔が、厳しい怒りや拒絶の表情をしているのだろうと想像出来た。


 言い争う声の時と違って、当時『愛している』という言葉に温度を感じた事はない。


 もしかしたら、愛は温度のないものなのだろう。彼方は色の付いた筆を、下に置いてあった水の入った入れ物に入れ、椅子の背に身体を預けた。


 まだ色の渇いていない絵の後ろには、昨日下描きだけをした一枚の絵がある。そこには一人の首が太い男性と、痩せ型の女性の顔が描かれていた。への字に歪められた唇を上げて鼻元に皺を寄せ、小さく垂れ下がった瞳を見開いて誰かを睨みつけている表情だ。


 ただ何も考えず鉛筆を走らせただけの絵だ。けれどそこに描かれているのは、どこからどう見ても彼の父と母の『顔』だった。

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