"Miss"ionary 〜35歳のおっさん教師が地獄に導かれて、導くハメになる話〜
クズな三十路男教師が主人公です。
ひょっとしたら著者がモデルになっているかもしれませんが、そこはご想像にお任せします。
この作品を通じて、現実で子どもたちにはびこる様々な問題を少しでも広め、理解をしていただきたいと願って綴っております。
異世界モノとは銘うっておりますが、そういったコンセプト上、どちらかといえば生々しい話や表現が多いと思います。
結果として少年時代のトラウマなどを思い返してしまう等、一部の読者には「害」となるやもしれません。
予めご了承いただき、不安な方は閲覧を避けていただく等のご対応をお願い致します。
「真っ当な教師」と言うにはいささか無理がある。
今月の給料もまた銀色の球に変えられ、強欲な穴の中に消えていった。
自分自身が目で追えるのはそこまでで、その後の事は皆目みる事も触れる事もできやしない。
嗚呼パチンコなんて残酷な遊びだ、やればやるほど損をするだけだと悟ったつもりで、またしょぼくれて帰る。
来る時に歩いた道とおんなじだ。先ほどは無闇に3台も立ち並ぶジュースの自動販売機が夕焼けの中で妙に輝いて見えて、何が嬉しいんだかウキウキしながらエナジーとかなんとか言う炭酸ジュースを買った。
今からパチンコをするだけなのにエナジーをつけてどうするんだかとツッコむ人間も居ない。
男はたった一人で、またもこの吹き溜まりの坩堝のなかで愚行をする為に吸い込まれていった。
さながらパチンコ球のようにするりと―
その後の事は悲惨である。坩堝の中で男はたった一人のちゃちな劇場を展開し― つまりそれは泣こうと喚こうと笑おうと誰も気にはとめない、本当に孤独でどうしようもなく惨めで、なにより薄っぺらい悲劇。それでいて結末は火を見るより明らかなのだから救いが無い。
派手なアクションを起こすのはパチンコ台の中と、それに付属するボタンを押す時のみだ。他には何もしない。本当に、何も。
帰る頃には先ほどの3台の自動販売機が恨めしかった。またエナジーを買おうにも、その130円が惜しかったからである。
確かに教師の給与は安い。だがそれにしても件の坩堝のみに一夜で飲まれる程なのか。
否、単純にこの男は不節操にこの数日であらゆる所にバラ撒いたまでである。まず初日にキャバクラ、週末に麻雀、やがて風俗― 世の中に蔓延る坩堝をひたすら肥やして回った。
たちの悪い事に、こうして素寒貧になった時の対処法というか、逃げ道が男にはあった。
夜のきらびやかな街― 短い人生の夜ふかしを全力で呆けて楽しむためのその通りの中に、一軒のキャバクラがあった。
『Club Missionary』と書かれた看板の前で男は立ち止まり、スマホでけちなゲームをしつつ立ちつくした。
無駄にきらびやかな街の中である。地蔵のように棒立ちする三十路の男が居ても、誰も気にしない。なんなら似たような地蔵がそこら中に立っているのだ。
ここもまた坩堝の一種に他ならない。様々な人間の未練がましいあとがきの様な、蛇足の様な人生がここに集まる。
ともかく男はそこで立ちつくしたまま、店には入ろうとしない。延々と立ったまま、スマホの中でまた薄っぺらい悲劇を世の中でただ一人噛みしめる。
やがてClub Missionaryから一人の女が出てきた。肩まで伸ばした黒い髪がいちいちオシャレに揺れ動き、白いレディスーツの肩をなぞる。
シンプルだが、素寒貧の地蔵と違ってずいぶん華がある女。やがて女は苦虫を噛み潰したような顔をしながら財布から数枚、紙幣を取り出し素寒貧な地蔵に投げつけるように渡した。
男はすまない、と言って受け取る。もっとも世界一中身のない挨拶だ。本人を含めて誰の保証もない、なんの意味も誠意も無い"すまない"である。ただ一瞬、金にありつけそうな、ほんのその刹那だけいかにも申し訳なさそうな顔を心がする。
たしかにそれは僅かな良心なのかもしれないが…往々にしてこの良心は本当に僅かな、微かな物なのだ。
無論、明日には忘れられている良心である。
ただ、いつも夜風とともに吹き飛んでいく良心が、今日は少しだけ慰留された。
白いスーツの女がそそくさと歩き去っていく地蔵の背中に向かって言った。
「先生、どうしちゃったんだよ―」
地蔵は夜の公園でうつむいていた。
LEDの眩い光のまわりで数匹、蛾が踊っている。
遠くから微かに聞こえてくる車の音や、信号機のシグナル音に合わせて、ゆらゆらと踊り、恐らくそれは死ぬまで終わらない。
そのダンスが目に入って居るのかは解らない。男もまた、ゆらゆらとただうつむいたまま、座っている。こんな時、涙でも流して泣いておいた方がスッキリするし、きっと体裁も良いんだろう。
だが男はそれすらも出来なかった。もっとも、不要な事だと悟ってしまったから―
スッキリした所で、立ち直った所でなにも出来はしないし、体裁をつくろうような相手も見つからなかったからである。
この救いの無い"悟り"にいきつくまでが年々早くなっていく。
人間は生きている以上、何かしら自己肯定をしている物だ。
どれだけ自己を非難していても、朝起きて昼飯なり晩飯なりを食べてまた眠り、また起きるという現象は、少なからず自己肯定があるから実現する事なのだ。
本当に自己非難、自己嫌悪で満たされたのなら、人は生きていけない。酸素が尽きたら火が消えるのと同じことで、それは必ず1セットの道理である。
あくまでもその道理は冷酷であり、「生きてどうするべきか」といった、本当にありがたい結論には至らない。ただ生存を追求し、薄っぺらい自己弁護が脳内のホルモンとかなんとか、とにかくそういった機械的な物質と共に溢れ出てくる。
本当に悲しい防衛本能である。男はサッサと死ぬ事も出来やしないのだ。
さっきまで公園でしょぼくれていた男は、かつての"生徒"からふんだくった金を握りしめてコンビニに行き、生存に必要と言うにはいささか脂肪質すぎる弁当と、くそみたいな防衛本能を加速させるためのビールを買った。
「吹き溜まり」という表現がすっかり馴染む、この街が男には似合いすぎた。
その街外れの住宅街には一本の小さな川が流れており、常に微かな水の音を織りなしている。
その川のふちには人工的な岩の小さな堤が膝下くらいの高さに積まれていて、ほとりにはベンチや灰皿が置かれている。また、公衆トイレなどもあった。
どんな狙いがあってこの川が形成されているのか、少なくともこの街の人間には知ったことではない。
川の中にはどこかで盗まれたカバンや財布、自転車が散乱し、ベンチでは宿無しの人間が横たわり、公衆トイレは薄汚い"快楽"の場所にされた。
そんなドヤ街にありがちな住宅街の一角にあるアパートの階段が、トントンと無機質に音を鳴らす。
男はそのアパートの一室の前に着くと、ドアノブのそばで煽る虫けらを振り払い、入って行った。
鍵はかけていない。
着ていた服を雑然と放り出す。
モノというか、ゴミが散乱し、最低限のスペースが確保された場所へパンツ一丁の男が座り込んだ。
テーブルすらありはしないので、先ほど買ったコンビニの袋も"そこらへん"に横たわった。
その中からこれまた雑然とビールを取り出し、男は精一杯、強がりに封を切って喉に流した。
鉄の味がする。
35年前―
男はこの街に産まれた。誰が名付けたのか大人になるまで知らなかったが、ともかく「太郎」と名付けられた。生まれつき父は居なかった。母と二人きり、こことはまた別のアパートに暮らしていた。もっとも、恐ろしいくらいに造りはソックリなのだが、どちらもワンルームである事を考えると必然だろう。
母親はこの街の件の坩堝で働くホステスだった。夜になると太郎は母親に連れられて、繁華街の焼肉屋に預けられる。
その焼肉屋を経営する60歳過ぎの夫婦は、この太郎をとても可愛がった。母親がホステスとして働く夜分中、この夫婦が太郎の面倒を見た。
「太郎」と随分安直な名前を付けられたが、不思議と誰もそれを悪く言わなかった。おいおいその理由も説明する事になるだろう。
前述の通り太郎は毎晩、焼肉屋の夫婦に預けられ、可愛がられたが、その愛情で満足するのに太郎はまだ小さ過ぎる。
明け方に母親が太郎を引き取りに来た頃には、太郎の目の周りは涙の跡で真っ赤になっていた。
1日の大半を焼肉屋に預けられ、ほとんど顔も見ないこの母親の僅かな愛情を、太郎は貪らなくてはならない。
だから、離れ離れになったら精一杯泣かなければならなかったのだ。それが太郎の出来る唯一の息吹だった。
今思えば焼肉屋の夫婦には悪い事をしたと思う。あれだけ太郎に世話をかけ、悲しい思いもさせまいと構ってくれたのに。忙しく焼肉屋の営みでキリキリマイになりながら、太郎に全力の愛情を注いでくれたのに。
太郎はただ母親のしけた愛情を求めて一晩中泣いていたのだ。さながら夫婦の愛を消し飛ばさんばかりに、けたたましく、延々と。
もうそれを詫びようにも夫婦はこの世に居ない。
その焼肉屋があった跡地には合法ハーブの店が立ち、なんかしらの理由で瞬く間に閉店し、今は空きテナントとなって久しい。
兎にも角にも太郎は成長し、24歳で中学校の教師になった。色々あったが、勉強だけは不思議と出来てしまったのだ。
地元の中学校に講師として勤務している中で、各学校にある支援学級で仕事をする事があった。その支援学級には二種類あって、1つは障碍を持った児童のクラス。
もう一つは家庭環境などの問題を抱えた、要するに"グレた"子供のクラスだった。
太郎は講師として勤めた2つ目の学校で、この"グレた"クラスの面倒を見る役にされてしまう。
と言っても担任教師などはまた別に居り、太郎はあくまでも補助的な立ち位置であった。
無論、太郎もこの役割の事はある程度まで理解しており、抜擢された時には正直かなり戸惑った。
"グレた"クラスの生徒は自己主張の術として、「暴れる」という実力行使に出ることが多々ある。
それを取り押さえ、なんとか校内で穏便に済ませるのが、太郎の主な仕事である。
そうして配属された支援学級で、早苗と出会った。早苗は家庭に問題を抱え、児童相談所を介してこのクラスに来た生徒だった。
児童相談所から渡された調査書に書かれた早苗の家庭環境は、驚く程に太郎と似ている。
自分も世が世なら支援学級に通っていたのだろうかと自嘲しながら、時折"実力行使"に出る早苗を取り押さえる日々を送った。
そうして過ごす日々の中で、太郎はある事に気づく。
この学級に配属された、生徒を導く立ち場の教師たちは意外にも熱心で、なんとか生徒らを更生してあげようとしていたのだが…
悲しい事に彼らは真っ当な家庭で育っている事が多く、早苗のような荒んだ環境で生きている生徒の本質をとらえるまでには至らない。
さらに悲しい事に、太郎にとってはそれが真逆で、その「生徒の本質」が手に取るように理解できてしまうのだ。
もちろん、みんな自分とそっくりだから。
ある時、早苗が授業時間に学校から脱走した。義務教育である中学校の界隈で、授業中の脱走はなかなか大事件であり、学校中に居る担当クラスを持たないフリーの教員が総出で校内・校外を探し回った。
かくして同じように捜索に出た太郎は、悲しいほどアッサリと早苗を見つけてしまった。
住宅街を流れる小さな川のほとり、そこにあるベンチに座っている早苗を見つけた太郎は、すぐさま携帯電話を取り出し、学校に連絡した。
その後、早苗に話しかけた。
「なんで脱走なんてしたんだ」
脱兎の如く走って逃げ出すかとも思っていたが、意外にも早苗はベンチに座ったまんまだった。その様子を見て、太郎は再び学校に電話をかけ、早苗に聞こえるようにわざと話した。
「自分のタイミングで学校に戻るまで待っていただけますか。」
早苗はじっと川の中に沈むなにかしらを見つめている。
それを横切るように、時おり深い茶色にくすんだ落ち葉が通り過ぎていく。
風と共に、いくつかそれが過ぎていった。
「また、暴れそうだったから―」
早苗が口を開いた。
太郎はあえてそれには何も言わない。座っている早苗とおんなじ方向を向いて立ったまんま次の言葉を待っている。
もっともこのまんままた黙り込むならそれでもいい。とにかく今は無理矢理つれ戻すような事はしたくなかったし、無理に説教をたれて諭すつもりもなかった。
また、それが早苗にも伝わるよう、その意思表示をしたかった。そこに居る中学生は確かに自己中心的で、社会性なんかカケラもありはしないが、そのくらいの意思表示は汲み取る奴だと、太郎には分かっている。
それを証明するようにして、早苗は再び口を開いた。
「先生は親とか居るの?」
太郎は目線を変えずに答えた。
「いるよ、そりゃ」
「―どっかに」
早苗は可愛らしく吹き出して、
「どっかって…」と言った。
実際、太郎自身、今ごろどこに自分の親が居るのか、よく解らない。ホステスをしていた母親とも色々あって、なんとなく生き別れてしまった。
早苗の母親は今も早苗と暮らしているという体ではあるが、ほとんど家に居ない。父親は例の如く蒸発しており、行方不明だ。
早苗は、いつも家で一人ぼっちなのだ。
太郎も少年時代をよく一人ぼっちで過ごした。それでもあまりその異常性と向き合う事が無かった気がする。子供ながらに、どうあってもこの状況は変わるまいと諦めていたのかもしれない。
それでも、全くミジメな気持ちにならなかったかと言うと話は別だ。痛いほど早苗のやりきれない気持ちが解る。
ここで早苗の身の上に深く踏み入るのは勇気が要る事だったが、自分には早苗の気持ちが理解できるという自信があったので、あえて踏み込むことにした。
「どうだ、最近、おふくろさんは?」
川の方でポチャン、と音がした。早苗が小石を投げ込んだらしい。
「ぜんぜん家に居ないよ。」
「どれくらい居ないんだ?」
「まあ、週に一回くらい帰ってくる。」
「週に一回か…その時はなにか話すのか?おふくろさんと。」
「んーん…ぜんぜん。」
またポチャンと音がした。
川面に波紋が広がる。それは落ち葉を巻き込みながら、ゆっくりと輪が広がっていき、やがて静かな流れの中に淀んだ。
「いつも変な男つれてくるんだよね。あのババア。」
つくづく、自分がガキの頃とそっくりだな、と太郎は思った。
早苗と同じように、太郎が子供の時にも母親がよく自宅に愛人を連れ込んでいた。だから、太郎自身の居場所は、そのワンルームの中のどこにも無かった。
早苗が心の中で「あんな家でも帰らないといけないの?」と聞いてきたのが聞こえた。
「まあ、無理に帰らなくても良いんじゃないか?そんな家…」
子どもたちを取り巻く大人はだいたい、「無理してでも親と子は一緒に居るべきだ」と結論づける事が多い。だがそれは太郎に言わせれば、順風満帆のマトモな家庭に生まれた人の偏見なのだ。全ての「親」という生き物が、我が子に一定の愛情を持って接するというのは理想論に過ぎない。
似たような環境に育った、太郎だから言えた事だった。そしてそのたった一言から、早苗もそれを全て読み取った。
早苗と太郎は揃って学校に帰る事にした。ある約束を結んで。
学校に戻った太郎は、すぐさま児童相談所に電話をかけ、さらにもう一つの場所に電話した。それはかつて自分が育った児童養護施設だ。
太郎がまだ7歳だった頃―
行方不明だった父親と会ったことがある。もっともそれが最初で最後の顔合わせだった。本当に突然、その男はやってきた。
最初、母親の知り合いのおじさんという事しか聞かされなかった。母親はホステスだったから、よくも毎度知らないおじさんを連れては太郎に会わせてきたものだから、太郎にとっても全く珍しい事ではなかった。
その頃は近所の展示会館で、恐竜をテーマにした大掛かりな博覧会があった。別段、行きたいとは思わなかったが、太郎はそのおじさんに連れられてその博覧会に行った。
さすが大きなイベントなだけあって、多くの人でごった返している。その雑踏で太郎は迷子にならないように、おじさんの後をせっせとついて行った…つもりだったが―
いつの間にかおじさんと離れ離れになってしまい、人混みの中を泣きべそをかきながら、見えないおじさんの背中を探し回った。人垣をかき分けながら、必死に探した。
ようやくその姿を見つけた時、そのおじさんは、背広を着たたくさんのおじさんに囲まれていた。
少し話し込んでいたようだが、やがて、おじさんはおじさんの群れに連れて行かれてしまった。
太郎が呆気にとられていると、別のおじさんが話しかけてきた。
「おじさんたちは、警察官なんだ」
7歳の頭でも時に恐ろしいくらいに冴え渡り、あれもこれも悟る時がある。
「おじさん、逮捕されちゃった―」
太郎は警察官に保護され、警察署に連れて行かれた。その後は母親が引き取りに来る手はずだったのだが、その母親が待てど暮らせど来なかった。
仕方なく児童相談所を通じて、太郎は近くの児童養護施設に預けられた。
その際にひょんなことから、逮捕されちゃったあのおじさんこそが、実の父親である事を聞かされた。
その時はそれがよく解らなかったから、ふぅん、という感想しかない…というか、大人になっても未だにそれ以上の感想なんて出てこない。
大昔の記憶の片鱗の中で、その思い出はどんどんちりぢりになってぼやけ、ホコリを被っていくのみだった。
「はい、もしもし。りんどうの里です。」
すこししわがれたような女性の声が応答した。
「太郎です。昔、お世話になった――」
「ああ、太郎くんか…しばらくぶりだねぇ。先生になったんだって?」
「ええ、まあ…」
実を言うと太郎はこの児童養護施設を出てから、一度も連絡をとっていない。本題を忘れそうなほどに気まずかった。どこかしこがむず痒い。
「太郎くんが…ねぇ…先生ねぇ。まあ、元気そうで何よりだよ。」
職員室の自分のデスクに無造作に置いていた小さな木彫り細工の魚を、いたずらにトントンと鳴らしながら、太郎は本題に入る隙間をうかがっていた。
「ウチの施設を出てから、神社に預けられたりしたでしょう?厳しく無かった?」
「まあ、はい…お陰で勉強ばっかりは良く出来ましたね。」
「そりゃあ、先生になったんだもんねぇ。」
木彫りの魚が汗をかきだした。
「園長、それより――」
「たまには顔を出して、お願いね。太郎くんのお話、きっと今いる子供たちの為になると思うの。」
木彫りの魚はいよいよ遠くを見ている。
「あー…園長、聞いてください、園長。」
魚と、目が合った。
「ウチの中学校にね、ちょっと家庭の問題がある子が居まして…まあ最終的な判断は児童相談所と家裁なんですけども…良ければりんどう(の里)で面倒みてもらえればなって――」
魚が、今度はカタカタ鳴る。
そういえばこの魚は誰にもらったかな――
「もちろんそれは構いませんよ。ウチはみなしごハウスだからねぇ、来る者拒まず、よ。」
「まあ、そうですよね…」
「ところでその子は太郎くんみたいな子なの?」
「ええ、良く似てますね。怖いくらいに。」
確か、この魚は去年卒業していった生徒が技術の時間に作ったやつを貰った物だったはずだ。
「太郎くんとそっくりなのか…厄介ね、それは。」
魚がまた黙り込んだ。
兎にも角にも、早苗が行く先の算段はついた。後は早苗の母親を説得できるかどうかだった。基本的にそれは児童相談所の仕事ではあるが、その下地を作っておけばスムーズに行くだろうと思った。
電話で母親を呼び出してものらりくらりとかわされてしまったので、仕方なく日を変え、早苗とその母親の住むアパートに出向く。
少し雨が降っていた。アスファルトに小さな雨のつぶが落ちては砕けて、やがて風の中で揺れる。重い、足音がずりずりと響いては奥歯の方までくすぐったかと思うと、すぐさま雨の中空に溶けていく。
「時雨――」
時雨を歌った和歌を思い出しながら、あいも変わらずずりずりと、アパートへ歩いている。
「九月の しぐれの雨の――」
次第に、足もとに花壇が見えたので上を仰いだ。
小さなアパートがそこに立っていて、その向こう側に見える空にはおぼろげな光が見え、黒ずんだ雲を引き連れてこちらに押し寄せようとしていた。
雨が強くなりそうだ。
傘を折りたたんで、階段を登った。早苗とその母親が住む部屋はこの3階建てのアパートの2階。階段を登った先から少し離れた中部屋だった。
なんとなく咳払いを2度して、深呼吸をする。やがて古ぼけた呼び鈴のボタンを押した。劣化したプラスチックの、独特な肌触りがする。
この呼び鈴がちゃんと仕事をして鳴っているのかどうか確証が無かったが、2度目を押すのが億劫だったので、少し待った。
今日は週末なので、早苗と母親、そして変な男が居るはずだ。
「九月の しぐれの雨の 山霧の いぶせき我が胸――」
がちゃり、とドアが開いた。
他人の家独特の落ち着かないにおいが鼻をつく。それとともにドアの隙間から、眉毛の無い女が顔を出した。
「ああ、先生――」
安っぽい紫色のスウェット姿で出てきたのは早苗の母親だった。
「急にお邪魔してすみません。娘さんの事で―」
「明日じゃいかんの?今忙しいから。」
「少しだけですので。」
母親は眉間を歪ませて太郎の目を一瞥すると、首だけ後ろを向いて叫んだ。
「さっちゃん、ちょっとタバコ持ってきて!」
部屋の奥の方から、早苗がタバコを持ってきた。マルボロのメンソール。
その早苗が太郎の顔を見て「あ」と言った瞬間に、母親が金切り声を立てた。
「アホか、タバコ持ってこいって言ったらライターも持つやろ普通。」
すごすごとライターを取りに戻る早苗の背中を見て、なんだかやり場の無い熱が、太郎の胸を侵食し始めている。
早苗からライターを受け取った母親が、玄関先のドアに挟まるようにして立ち、タバコに火を着けた。やがて品の無い煙が、うろうろと宙を舞う。雨空にまでそれが至ると、青白くなって消え、それをせわしなく繰り返す。いくつかそれを見送って、母親はアゴを突き出すようにして、何色とも形容し難い、どえらい煙を吐き出すと、雑な咳払いを一つしてようやく太郎の顔を見て言った。
「で、なに?」
太郎の握りしめた傘が、キリキリと苦しそうに鳴った。
「あの、娘さんなんですけども…もし、忙しかったりで面倒をみるのがお辛いようなら、児童養護施設に預けるというのも手かと思うんですが―」
母親がタバコの穂先で朽ちた灰のかたまりをポン、と落とした。
「そんな事できんの?」
「ええ、まあ…児童相談所の判断次第ですけど―」
先ほどより一層、タバコの火が盛り立て、母親はまたアゴを突き出して煙を吐いた。その煙が、太郎の顔にへばりつく。
「なに?ウチの家庭事情に問題でもあんの?」
太郎はあえてだまりこんだ。母親の目を真っ直ぐ見たまま。青白い毒々しい煙が、蛇のように連なって、何処に伸び上がっていく。
やがて母親が一瞬、ニヤッと笑うと、後ろを振り向いて叫ぶ。
「さっちゃん、施設っ子になるんだって!」
続けて母親の鬱陶しい、薄気味悪い笑い声がケタケタと響いて、太郎の周りをぐるぐると旋回し、やがて踊り狂うようにして太郎の神経を煽る。
やがて――
「まあ、別にいいんじゃね?」
その一言を放り投げると、パタンと扉が閉まり、太郎の視界から母親の姿は消え去った。
しかし相変わらず太郎の周りを踊り狂う何かが居る気がした。それから逃げるように太郎はアパートの階段を早足で降り、傘をばさり、と広げると余った片手で鞄を開き、その奥底で窮屈そうにしていたセブンスターの箱を出してぎこちなく開け、そこからまたぎこちなくタバコを1本取り出そうとする。
なんだかいつも通りに取り出せない。わかっている。箱を開ける前からそんな気がした。こういう時のタバコというのはどうしてかスムーズに出てこない。いつもの事だ。
ようやく咥えたタバコに火を着けた。少しだけ眉毛が焼かれた様な気がした。
白い煙が、雨空に向かって広がる。味もへったくれも無かった。
「九月の しぐれの雨の 山霧の いぶせき我が胸 誰を見ばやまむ――」
それからほんの二日後、太郎は「しまった―」と思った。朝、登校してきた早苗の腕にアザがあったためである。それに気づいた瞬間、太郎は口をついて「ごめんな。」と言ってしまった。そしてその声が自分でも驚くほどに震えている。
早苗が、ひきつった笑顔で「なんで?」と返したのが、また心の奥の方を抉った。
いずれにせよ、何があったのか聞かなくてはならない。大方、察しはつくが―
早苗から直に聞く前に、児童相談所に連絡をとった。太郎が早苗の家を訪ねた次の日に、児童相談所の職員も訪問したらしい。
太郎が会いに行った時とはうって変わって、早苗の母親は随分と発狂なさったそうだ。
「母子家庭の生活保護費を受け取れなくなるという話をした途端ですね。」
児童相談所の職員が、ため息混じりに言った。
早苗の身柄が児童養護施設に行くと、母親は生活保護費を受け取れなくなってしまう。もちろんそれは母子家庭として申請していた為だ。
現代では、たとえ母子家庭でも自力で生活費をまかなう人が多く、その制度が利用される事も少ない。無論、母親が精神的な病や身体的な理由で働けない場合を除いてだが―
そもそも早苗の母親には愛人がおり、その生活保護費がどこに使われているのかも分かったものでは無い。元来、こんな母親からはサッサと生活保護費など取り上げて、早苗を児童養護施設に入れてあげるのがほとんど正解のはずなのだ。
無論、中学校の教員の中でも太郎のその意見に反論する者が居る。それは乱暴だ、子供は実親とできるだけ一緒に居るべきなのだ、と。
もっとも太郎は意に介さない。安全安心、順風満帆にぬくぬく育ってきた分際が、どこぞで借りてきたような中身の無い理想を振りかざして、それに子供を巻き込む。勿論それには悪意が無い、無邪気な意見だと言うことも承知である。が、残念ながら世間知らずの妄言と言わざるを得ない。
子供なんてヤることをヤれば出来てしまうものだ。
世の中―― 世間というものはいつも、「子供が産まれる」というただ一つの現象を、まるで神秘の奇跡のように言う。その中で母となる女性は神託を授かり、母性のまま、子に延々と慈愛を注ぎ込む。と、勘違いしている。
事はもっと単純明快で、要は交尾をしたら出来てしまった、だけに過ぎない。それ以上でもそれ以下でも無い。
太郎に言わせれば自分や早苗の母親たちは本能に正直だっただけで、至極自然な事をしたまでだ。
本当に重要な事は、子供が生まれるという奇跡ではなく、そこに例えば「早苗」という一人の人間が居て、人格が有り、尊厳が有る事ではないか。そこに母親がどうとか実親がどうとか、まるで関係の無い事なのである。
早苗を一人の人間として、人権所持者として守る事。それ以上に大切な事など、今ここに無い。太郎はそう心の中で言い切る。
だから、母親がなんと言おうと、周りがなんと言おうと、早苗は自分の選んだ家に帰るんだ。