プロローグ
「死にたい」
掠れた声が口から漏れた。今日だけで何度この言葉を呟いたのかわからない。終電間際の満員電車は息が詰まりそうだ。人口密度的な意味だけではない。社内全体が陰鬱な雰囲気に包まれていて、誰も言葉を発しない。俺はスマホから顔を離して窓を見る。
窓ガラスに映るのは痩せこけた頬をした疲れきった顔の男……つまりは俺だ。目の下にはクマができていて、吊革にぶら下がっていることで何とか体勢を保てている。
周りを見れば、似たような男たちがズラリと並んでいる。全員よれよれのスーツを着て、死んだ魚のような目をしたままスマホを眺めていたり、あるいはぼんやり外を眺めていたり。夢も希望もない絶望だけがここには渦巻いていた。
そんな折、人が一斉に動き出す。そこでようやく、最寄り駅に到着したのだと気づいた。
「すいません、降ります……」
人混みを掻き分けて出口へと向かうが、皆自分の居場所を守るために是が非でも動こうとしない。どころか、俺が動くたびに舌打ちを寄越してきた。しかしそれでも姿勢を低くして何とか出口へ向かう――が、
「馬鹿野郎、気をつけろ!」
車内に乗り込もうとしていた中年男性と肩がぶつかり、思わずよろめいてしまう。本来、乗客が降りてから乗り込むのが作法だが終電間際という緊迫した状態ではそんなものは何の意味もなさない。俺が頭を下げている間に、中年男性は車内へと消えていた。
「……帰ろう」
通勤カバンがズシリと重い。すっかり人が捌けて寂しくなった駅のホームを下っていると、何やら怒鳴り声が聞こえてきた。どうやら終電を逃した人が駅員を叱りつけているらしい。関わり合いにならないよう、視線を下げたまま改札を潜る。
もう春になるのに夜はずいぶんと冷え込む。身を震わせながら駅前のコンビニに入った。
「らっしゃーせー」
気合の欠片もない店員の挨拶が聞こえてくる。眠そうにしている大学生風の青年を一瞥した後でゆっくりと弁当コーナーに移動し、一番安い弁当とコーヒーを選択。もう二週間ほど同じ弁当だが、構わない。どうせ味なんかわからないんだから。
またため息を一つ落として、それらをレジに持っていく。
「四百九十八円になりまーす」
「あ、はい」
五百円玉を渡してお釣りの二円をもらい、ビニール袋を片手に外に出た。
「あざーしたー」
気のない挨拶を聞きながらコーヒーの缶を開けた。ほんのり温かいコーヒーがじんわり体に染みわたっていく。一気に飲むともったいないのでちびちび飲みながら、帰路に着いた。
俺の住んでいるアパートは駅から離れた場所にある。徐々にコンビニなどがなくなっていって、住宅街が広がりだした。どこの家も灯りが消えている。当然だ。今は深夜を回っているのだからそれが普通だろう。
そう、それが普通だ。普通なはずなんだ。だから、終電間際まで残業させられた俺は明らかに『普通』じゃない。
飲み終えたコーヒーの缶を自販機近くのゴミ箱に入れ、のそのそ歩いていく。曲がりくねった道を行くと、やや大きめのアパートが見えてきた。築三十年にしてはしっかりした建物だ。
「はぁ……」
またため息が漏れた。何度目かもわからない。けれど、安堵によるものだからまだマシだ。
早く風呂に入って寝よう。あぁ、洗濯物が溜まっているけど、次の日に回せばいいや。ほとんど外出してないからそんなにないし。
などと思いながら二階への階段を上っていく。今は少しの階段すら恨めしい。手すりを頼りに上がっていき、一番奥の角部屋まで向かった。ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回す。そしてゆっくりと鍵を引き抜いてドアノブを――
ガチャンッ!
回そうとしたが、ドアが開かなかった。どうやら出かける時に鍵を閉め忘れていたらしい。珍しいことじゃない。今週に入って二度目だ。どうせ盗まれるものはないし構いはしない。
ただ、面倒なのは確かだ。先ほどの動作をもう一度して今度こそドアを開けると……。
「あれ?」
部屋の電気も点いていた。確かに今朝は忙しかったが、確かに消したはずだ。なのに、照明ばかりかテレビまで点いている始末だ。明らかにおかしい。
加えて、玄関には草履が並べられている。俺の物ではない。サイズは子どものものだ。
まさか本当に誰かが入ってきたのか……と不安に思いながらリビングに向かうと、嫌な予感は的中した。
「……子ども?」
一年中敷きっぱなしの布団の上に小さな子どもが寝転んでいる。小学生くらいの女の子だ。布団に包まれてすぅすぅと心地よさ気な寝息を立てている姿は天使と評しても差し支えないだろう。それほどまでに整った容姿をしている女の子だ。
だが、見惚れたのは一瞬。俺はハッとして、彼女の枕元に座りこむ。
「君。君。ねぇ、起きて。ここは君のお家じゃないよ」
「う、うぅん……」
少女の形のよい眉がピクリと動いた。と、思った瞬間瞼が開いて琥珀色の瞳がジッと俺を見据える。彼女はしばしぼんやりしていたが、やがてにへらっとだらしなく笑うとゆっくり身を起こして俺に向きなおる。
「あぁ、ソウちゃん。おかえり。遅かったねぇ。待ちくたびれて寝とったよ」
鈴の音の様に澄んだ声音だが、だからこそやや訛っているのが気になる。彼女は可愛らしい欠伸をすると、困ったように首を傾げた。
「疲れた顔しとるねぇ。お仕事お疲れ様。ご飯作っとるけん、よかったら食べて?」
「へ?」
彼女が指差す方向には卓袱台があって、その上にはラップがかけられた茶碗や皿が並んでいた。白米と豆腐とネギの味噌汁、それから筑前煮だ。久しく見ていない手作り感満載の料理に自然と喉が鳴る。
「ソウちゃん、筑前煮好きやろ? 手洗ったらチンして食べ」
「うん、ありがとう……じゃなくて、君は誰? ここは俺の家なんだけど、間違ってない?」
「あぁ、ごめんねぇ。この姿じゃわからんよねぇ。ほら、ばあちゃんよ、ばあちゃん」
「ばあちゃん? でも……」
俺は改めて彼女を見る。
ツルンっとしてハリのある白い肌。寝間着の袖から出た小さくて細い手指。あどけなさの残る顔立ちと……どこをどう見ても、ウチのばあちゃんとは違いすぎる。
けど……不思議と、他人とは思えない何かがあった。泣きホクロの位置や少したれ目気味なところ、笑った時の顔は田舎のばあちゃんに酷似している。何より、俺のことを『ソウちゃん』と呼ぶのはばあちゃんだけだ。
「……本当に、ばあちゃんなの?」
「そうよ。大山知世。大山宗助のばあちゃんよ」
「で、でも、身体が……」
「これねぇ、ばあちゃんにもよぅわからんのよ。朝起きたら身体が縮んどってね? 一応お医者様にも行ったんやけど原因がわからんで……でも、おかげで腰も治ったけん、ソウちゃんの家に遊びに来たっちゃん」
と、目の前の少女は述べる。正直言って胡散臭い。でも、特徴的な訛りや全体的な雰囲気はばあちゃんにそっくりだ。事情はわからないが、まるっきり嘘というわけでもないだろう。
実際、この家に入れたのがその証拠だ。もし東京に出ることがあれば、と合い鍵を送っていたのを覚えている。それに、俺の好物まで知っているとすれば……。
「本当に、チセばあちゃん?」
「そうよ。ソウちゃん。あぁ、ほんに久しぶりやねぇ。社会人になってからは忙しくて帰ってこられんかったけんねぇ」
「うん、ごめん……」
「あぁ、よかよか。謝らんで。ほら、それよりお腹空いとらん? ご飯、チンしとくけん手ぇ洗っておいで」
ばあちゃんはゆっくりと布団から出てちゃぶ台の上にある茶碗などをレンジの方へと持っていく。が、生憎レンジは冷蔵庫の上にあって、ばあちゃんの身長ではギリギリ届くか否かだ。
「貸して。俺がやるよ」
「あぁ、ありがとねぇ。この姿になっても、ソウちゃんには世話になりっぱなしよ」
そう言って笑いかける彼女を見て「あぁ、本当にばあちゃんなんだな」と思ってしまう。
正直、訳がわからない。でも、久しぶりにばあちゃんに会えたことがすごく嬉しかった。
「ここまではどうやって来たの?」
「飛行機と新幹線よ。この姿やけん『家出か』っておまわりさんに疑われたよ」
「まぁ、小学生くらいの格好だもんね」
などと話しているうちにチン、と軽快な音が鳴った。茶碗などをトレイに乗せ、ばあちゃんが運んでいる間に俺は台所で手を洗う。おそらくラップを開けたのだろう。味噌汁と筑前煮のいい匂いが漂ってくる。
手を洗って戻れば、ばあちゃんは居住まいを正して布団の上に座っていた。俺も座布団の上に腰掛けて、そっと手を打ち合わせる。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
出来立てじゃないとはいえ、目の前のご飯は実に美味そうだった。まずは大好物の筑前煮からいただくべく、にんじんをつまみ上げる。箸で崩れないギリギリのライン。ふーふーと息を吹きかけてそれを口に運んだ。
「どう? ばあちゃんの味やろ?」
と、ばあちゃんは言ってくれるが……。
「……ダメだ」
味がない。ニンジンの食感はある。けど、まるで柔らかい砂を食べているみたいだ。
「味、薄かった? ごめんねぇ、ばあちゃんにはちょうどよかったけど、ソウちゃんには物足りんかった?」
「違う。そうじゃないんだ、ばあちゃん。これは、俺の問題なんだよ」
たぶん、この筑前煮はすごく美味しいはずだ。だって、ばあちゃんが作ってくれたんだ。野菜のあしらいもしっかりしているから歯ざわりもいいし適度に柔らかい。
それでも味を感じないのは、全て俺に原因がある。
「ソウちゃん、何かあったの?」
真摯な瞳で見つめられる。やはり、目の前にいるのはあのばあちゃんだ。困った時に首を傾げる癖も、今にも泣きそうな瞳も、あの頃のままだ。
そして、それを受けると隠し事などできなくなってしまう。俺は静かに語りだした。
「……大体、一か月くらい前かな? 何を食べても味がしなくてさ。醤油たくさんかけても、砂糖をたっぷり入れても、何を食べても飲んでも、同じなんだ。味がしないんだよ。粘土食べてるみたいなんだ」
「病院は、行ったの?」
「行ってない。行く暇がなかったんだ」
会社は連日残業続きで、休日は疲れて外出することもままならない。有給の取れる会社だったらこんな苦労はしなかったんだろうけど、今さらどうでもいい。
「……ごめん、ばあちゃん。せっかく作ってくれたのに」
箸を置いて、頭を下げる。せっかく田舎から出てきてくれたのに、俺は酷いことをしてしまった。自分が嫌になる。死んでしまいたい。死にたい。何よりも大好きなばあちゃんを傷つけてしまったと、そう思った。
けれど、
「よかよ、ソウちゃん」
ばあちゃんは昔のままの口調と笑顔を向けてくれる。穏やかで、優しくて、温かい。
「辛かったやろ? よぅ頑張ったねぇ。ソウちゃんは昔から頑張り屋さんやったけん。でも、張り切りすぎたらいかんよ。ちゃんと休まな。ね?」
ばあちゃんは膝立ちのままこちらにやってきて、そっと抱きしめてくれた。ほんのりと温かい体温が心と身体に染みわたる。頭を撫でるのはしわしわの手じゃなくて小さな頼りない手だけど、そこには確かな包容力があった。
「ソウちゃん。今の会社、好き?」
「……いや、全然。毎日朝早く出社しないと怒鳴られるし、ミスしたら晒し者にされるし、帰りはいつも終電間際だし……」
そこまで言ったところで、不意に涙が零れた。グッと唇を噛み締めて堪えようとするが、ポンポン、と優しく背中を叩かれると容易くダムは決壊してしまう。
ばあちゃんはうんうん、と頷きながらそっと耳元で囁きかけてくる。
「ソウちゃんは偉かよ。辛くても頑張っとったっちゃけん。でもね、無理したらいかんよ。身体は一生物やけん、大事にせな」
「……うん」
「会社、嫌やったら辞めてよかよ?」
「え、でも、そしたら家賃とか……」
「よかよか。そんなんばあちゃんが全部払っちゃるけん。爺様が残してくれたお金もあるし、年金だってある。ソウちゃんが職を見つけるまで、ばあちゃんが養っちゃるけん」
「いや、俺もう社会人だし、ばあちゃんに迷惑はかけられないよ」
「気にせんでよか。生きとったら誰でも迷惑かけるっちゃけん、そんな遠慮したらいかんよ。ほら、ばあちゃんだってソウちゃんが田舎におった頃は迷惑ばっかかけとったろ? そういうこと。困った時はお互い様、よ」
ばあちゃんの言葉には不思議な魔力が宿っていると思う。俺は強く拒絶することができず、言い淀んでしまった。
一方のばあちゃんは周囲に視線を巡らせる。ゴミ袋には大量の弁当の容器が詰め込まれており、部屋の隅には脱ぎ散らかした衣服があった。
しばし部屋を観察したばあちゃんはさも妙案を思いついた、と言わんばかりに手を打ち合わせてにまっと笑う。
「ソウちゃん。ばあちゃんもここに住んでよか?」
「え、は?」
「今見たけど、忙しくて家事もできとらんやろ? 病気の時なら尚更難しいやろうし、そしたらばあちゃんが手伝うよ。それに、一緒に住むんなら家賃を払うのは当然やろ? だから、ね? ソウちゃんが会社を辞めて、次の職場を見つけるまではおるけん。もちろん、ソウちゃんがよければやけど」
「……俺はいいけど、ばあちゃんは? 田舎に戻らなくていいの?」
「あぁ、よかよか。ソウちゃんの方が大事やもん」
あぁ、やっぱりどんな姿でもばあちゃんはばあちゃんだ。俺のことを誰よりも大事に思ってくれていて、すごく優しい。嬉しくて、また涙が出てきてしまった。
「あらあら。ソウちゃんの泣き虫は治っとらんね。けど、よかよ。たぁんと泣いてよか。今まで一人で頑張って偉かったねぇ」
「う、うぅ、ばあちゃん……ばあちゃん!」
「うんうん、ばあちゃんはここにおるよ。大丈夫、大丈夫」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらばあちゃんの身体に抱きつく。小さい、と感じるのは子どもに戻ったからか。だけど、その背中はとてつもなく大きくて頼もしい。
俺の方が子どもの時に戻ったみたいに涙を流して、ばあちゃんは昔のまま優しく慰めてくれる。久しぶりに、心の底から泣いた気がした。