女子高生白書
何年経っても、あなたのことが好き。
「祐加ちゃん、本当に大地と何もないの?」
いきなり呼び出され、何事かと思えば、またおなじみの用件にやっぱりいつもどおり言葉を失ってため息が出た。
いつものように、あるわけないでしょう!と笑ってやると、目の前で明らかに納得のいかないといった顔で私を睨み付け、二人の女子学生達は頬を染める。
「だって、祐加ちゃん、すごく仲いいし・・・」
「うん、確かにそうだけど、私は倉田さんとも中村さんとも仲いいつもりだけど?」
かわいいな、と思って言ってしまい、すぐに後悔した。目の前で悔しそうに俯く彼女たちは、『大地くん』に本気で恋をしていることを、私は知っていたから。だから、
「何もないわ。私はあなたたちの先生なのよ」
泣きそうな表情の彼女たちに私は言った。
できるだけ、冷静に、大人の女性を演じるようにして。
「それに、『祐加ちゃん』じゃなくて、これからは『森本先生』ってちゃんと呼んでね」
それでも無意識の作り笑いも引きつってしまうものだ。
二週間の母校での教育実習もついに明日で終わろうというのに、結局最後まで誰ひとりとして私を先生扱いしてくれなかった。それどころか、いざ生徒に呼び出されれば授業の質問ではなく、いつもこのような手の内容の質問ばかり。
この大学三年間、恋人も作らず勉強にはげんできた私のどこに、男子高校生を落とす技術があると言うのよ!そう叫んでやりたくなったが、後ろから楽しそうに笑う声が聞こえ、私は咳払いをし、平静を装って振り返った。
「相変わらずモテモテだねぇ、森本ちゃん」
同期の実習生で、以前同じクラスだった手越くん(今は体育教師の手越先生)が二カッと白い歯を見せ、こちらに近づいてきた。
さらっとした髪の毛をなびかせ、軽薄そうではあるが人懐っこい笑顔。そして鍛え上げられた身体をジャージから覗かせさっそうと現れた彼は昔とまったく変わっていない。この人も昔はよく女の子たちの話題の的となっていたなぁとふと思い出したほどだ。
「今のがモテていたように見える?」
私よりもはるかに先生扱いされ、男女問わず生徒に慕われている彼に少し嫉妬してしまっている私は頬が引きつった。
「まぁまぁ。でも、変だね。普通、美男美女の教育実習生の二人の仲を疑うのならともかく、どうしてその生徒とばかり疑われるのか、本当に疑問だね、森本ちゃん」
「ここではその呼び方、やめて下さい」
「まぁ確かに、西野は俺から見てもかっこいい生徒だと思うからなぁ」
全く聞き耳も持たず、以前と変わらない態度で接してくる彼に呆れて何も言えなくなる。
「彼は私のクラスの大切な生徒なの。からかわないで」
話題の『彼』、西野くんは私の授業もいつも必死に聞いてくれて、その上で成績も優秀で申し分のない生徒なのである。だから私のせいで変な風に思われたら居たたまれない。
だんだん罪悪感が沸いてきた私が次に頭を上げた時、目の前に立つもう一人の人物を見て、さっと血の気が引いたような気がした。
「どうした?こんな所で・・」
「あ、上林先生」
いつも通り陽気に手越くんが声をかけた人物が不思議そうな顔で私と彼を交互に眺め、少し困ったように口を開く。思わずしまったと飛び上がってしまった。
私が受け持っているクラスの担任の先生を務める上林先生だ。
「なにか・・・」
「ああ、森本先生がまた生徒たちにからまれちゃってて・・・」
何も知らない手越くんが笑う。
本当、余計なことは言わないでほしいと無意識に握るこぶしに力が入る。
「また、ですか?森本先生」
優しい視線が少しくもったように感じられて動けなくなる。
一気に目眩も加わって、倒れそうになった。
「そうなんですよ。また、ですよ。今日も囲まれちゃって、本当、モテる女は困りますね」
「大丈夫ですか?本当、いつもすみません」
穏やかな声でそう言い、上林先生は申し訳なさそうに笑った。
(嫌だ。変に思われたかも・・・)
実習生ということもあり、いつも上林先生についてあちこち回っていた。
それだけにできるだけ彼には良い実習生と思われたい。そう思う一心で頑張ってきていた。だから必死で良い実習生ののふりをしていたというのに、この話題が尽きない限り、まるで私が実習と私生活を混同しちゃってると勘違いしていないか、それだけがとても心配になってしまう。
なんていうか、今は実習生としての評価よりも、この先輩先生の評価の方を恐れていた。
「へ、平気、というか、何もありませんから!」
必死になって、弁解まがいの言葉を並べる。
さっきまで大人ぶってた自分はどこへやら。悲しくなる。
「ほっ、本当に、私・・・か、彼氏だっていませんし、高校生に手を出すなんて、そんなこと不可能です、って、あ・・・」
思わず余計なことまで言ってしまい、おまけに気まずそうに作り笑いをした上林先生に気づき、もう穴があったら入りたくなる。自分が本来はこれ以上になく充実いしていない毎日を送っているなんて、今ここでばらして何になる。もう最悪だ。
「だ、大丈夫。デマだって知ってますから」
上林先生の優しい瞳が逆につらい。
「へぇー、意外!彼氏いないんだ、森本ちゃん!高校時代はかなりモテてたのに。いつから?」
「ちょ、そんなこと・・・」
まるで世間話をするように楽しそうに参加してくる手越くん。
もう本当にやめてほしい。
「でも、森本ちゃんからそんな話、聞いたことなかったよね?興味あるなぁ・・・」
「あ、あのねぇ・・・」
「え?本当に今は誰とも付き合ってないの?」
「・・・・・」
「おいおい、手越。その辺にしておけよ」
もう絶望的だ。今すぐこの場から逃げ去りたかった。
「今は同級生じゃなく、同僚として扱うように」
「あ、すみませ~ん。」
同じ体育科の先輩教師に怒られ、相変わらず明るい返事をする手越くんを横目に、助け船を出してもらったはずの私はこれ以上何も言えなくなり、こっそり溜息をついた。まだまだ一人前の教師にはほど遠いようだった。
『真ちゃん、彼女はいるの?』
あの時まだ、高校生だった私は、背まである長い髪を一つにまとめ、部活着のまま、いつものようにバスケ部のコートを覗いていた。
『はぁ?って、森本、おまえ部活は?』
『今日は休み。自主練してたの。だからちょっと真ちゃんの所にも来ちゃった』
『来ちゃったじゃない。何のための休暇だと思ってるんだ?しっかり体力を回復させてろ』
真ちゃんを見るだけで一気に頑張れる気がするんだよ!と笑って言うと、彼は困ったように笑って小さく、バカ、と言った。
その姿が嬉しくて、私は毎日そこに通っていた。
真ちゃんの笑顔を見ること。ただそれが、とても幸せだと思えた。彼は高校時代、私が誰よりも好きになった人だった。
あの日、私が泣いていて、真ちゃんが私に声をかけてきてくれた、あの日から。
毎日毎日必死に陸上ばかり夢中になっていた私は、いつしか友達たちが自分から離れていっていることに気が付かなかった。それでも初めて自分が友達たちから誘われなくなっていることに気付いた時にはもう遅く、私はその事実に打ちのめされた。
『祐加、絶対手越が好きなんだよ。だからいっつもグランドにばっかり張り付いてうちらとも遊ばなくなったんじゃない?』
『えー祐加、春子が手越のこと、好きだって知ってるはずなのにね』
まさか自分が、友達から陰口を叩かれているとは思わなかった。当時、エースランナーとして陸上部でも目立っていた手越くんは、確かににかっこよくて誰よりも人気があった。
でも、自分は彼に夢中になっていたわけではなく、なかなか上がらない記録更新を夢見て、次はどうしたらいいのか?そればかり必死に考えていたのである。中学までは期待されていた自分が、高校に入った途端にうまくいかず、どうしたらいいかわからなくなってしまったのだ。どんどん他の選手に比べ、成長しないでいくことが今まで応援してくれていた家族や先生方にも申し訳ないと思って、私は周りに目もくれず、必死になっていた。
それが原因だった。
おかげで何も知らずにいつもと変わらず接してくれる手越くんには変な風に意識してしまい、挙句の果てには避けてしまうようになり、周りの目が気になって、弱い私はますます部活にも集中できなくなってしまった。
今度こそもう八方ふさがりになってしまった私はあの日、体育館の影で思わず泣いてしまった。自分が信じていたことがわからなくなって、右も左も見えなくなって、出口のない迷路に閉じ込められてしまったようだった。
誰が助けてくれる?友達はいない。私が裏切ったから。親には言えない。心配をかけてしまうから。あふれる涙が止まらなかった。
そんな時、優しく声をかけてくれたのが、真ちゃんだった。
『おい、森本、どうした?』
初めは、とても驚いた。
今まで一度も接点のなかった彼が、私の名前を知っているのか?ということを。一年生だった当時の私は名前さえ知らなかったのに。
『何でも、ないです』
言ったら、また涙が溢れてきてしまった。
彼は続けて何も言うことはなかった。ただ、静かに泣き続ける私をじっと見ていただけ。
でも、すごくそれはありがたい行為だった。なにかちょっとでももう少し優しい言葉をかけられようものなら、当時の気の張った私なら言い返していたと思う。いえ、言い返そうにももう何を言ったらいいのかわからず、どうしようもなかったと思う。
彼は私が落ち着くまでそのまま黙って待っていてくれた。
目の前にある、優しい表情のこの人の前では何も嘘がつけないように思えた。
どんなにつらい時でも絶対に人前では泣かないでおこうと決めていた私が我慢できずに泣いてしまったのは、あの時が初めてだった。
あの後、何を言ったかは覚えてない。でもわんわん泣いて、その挙句、自分の不満を初対面だったにも関わらず、彼にぶちまけてしまっていた。
だけど真ちゃんは何も言わず、ただ黙って泣き喚く私の隣についていてくれた。そして、言ってくれたのだった。
『努力して答えをさがそうとすることは間違いじゃない。これはおまえの生きていく中での乗り越えるべく試練だから。信じて乗り越えれば、きっと笑える日は来る。あせらず自分のペースで乗り越えろ』と優しく笑って。
茶色がかった穏やかな瞳が私を映し、私は泣くことも忘れ、ただ彼を見つめ返すしかなかった。負けるなよ!と言って背中を叩いてくれた彼に、私はその時、恋をしてしまった。
それから、私は困ったように私を見ては笑う彼に付きっきりで追っかけるようになったのであった。
『真ちゃーん』
誰もいないとわかっている場所でなら、私は私になれた。
『またか。いい加減、先生って呼びなさい』
彼は溜息をつきながらも、それでも笑ってくれる。私はそれを知っていたから、私はいつも頑張って彼に近づこうとしていた。
真ちゃんが、所詮、私を一人の生徒としか見ていなかったと知っていても。
「先生、まだ残ってたんですか?」
同じ英語科の小池先生に突然後ろから声を掛けられ、物思いに耽りながらボーッとしていた私は、はっとして飛び上がってしまった。
「あ、い、いえ、あ、あの・・・」
いろいろなことがあったせいか、ここが母校だからか、思わず懐かしいことを思い出してしまっていた。
自分の脳裏だけでの出来事なのに、まるで見透かされたように私を覗き込んでくる彼女に、私はかなり動揺してしまった。
「大丈夫?森本先生、本当にいつも気を張ってらっしゃるけど、もう少し気楽にしていてもいいんですからね」
クスッと笑って、彼女はそっと私の肩に手をおく。ふわり、ととてもいい香りがした。
大人の女性だ、ふと思った。
落ち着きがあって美しく、それでいていつも余裕で存在感のある若手教師で、この人は私にとって、本当に理想の教師像だなぁと思ってしまうのは否定できない事実であった。
(私もいつか、こんな風になれたらいいのに)
「それに、手越先生もいつも心配されてましたよ」
は?と彼女に視線を戻すと、小池先生はきれいにアイメイクを施した片目をパチンと閉じて私に見せる。同姓でもうっとり見とれてしまうそんな動作だった。
いえ、そんなことよりも・・・今なんて・・・
「本当に、お二人は仲良くて羨ましいわ」
にっこりする彼女にはっとする。
「ちょ、違います」
何かとんでもないような勘違いをされているようで、どっと冷や汗が出た気がした。
「違いますって、何が違うの?」
後ろからにゅっと現れた手越くんに、私は自分のタイミングの悪さを呪いたくなった。
本当に、間違いなく何が違うのだろう。いちいち意識しすぎな自分に笑えてくる。
「あら、噂をすれば」
「あ~、小池先生、相変わらずおきれいで」
「ふふ、相変わらずね。森本先生がいる前でそんなこと言ってもいいのかしら?」
私が絶望感に陥っている間に、どこかの漫才コンビのようなテンポで親しげに話す二人(特に頬を染めて楽しそうに話す手越くん)をボケーッと見つめ、しみじみ思う。
男性は、やっぱりきれいで大人なムードがある人の方が好きなのだろうか?と。
(まぁ私も、これでも一応成人式を終えて一年目を迎えているのではあるが)
「いやいや、森本ちゃんがヤキモチ妬いてくれるのを待ってるんですよ」
「ちょ、手越くん!」
(黙って聞いていれば、この人は何を・・・)
ただの冗談だったけど、笑えない。かわりになぜか泣けてきた。
ダメだとは本能でもわかっていたけど、私はいつの間にか立ち上がっていた。
「も、森本ちゃん?」
手越くんの心配そうな瞳に自分が映っている。なんて情けない顔なんだろう。
私は、誰よりも真面目にしてきたつもりだ。
真面目に、真面目に教師を目指して必死に努力を重ねてきた。
それなのに、それなのにだ。真面目すぎるだけにどれもこれも空回りばっかりで、うまくいかず、こんな風にからかわれても交わし方さえうまくわからないし、もうすぐ全てが終わるというのに、最後の最後まで、本当に何やってるんだろう。そう思った。
「し、失礼します」
それでも、私は絶対ここでは弱音を吐きたくなかったから、失礼だとはわかっていてもそのまま二人に背を向け、勢い良く職員室のドアを開けてそこから飛び出した。
入口で、段ボールいっぱいの新品のバスケットボールを抱えて入ってこようとした上林先生にぶつかりそうになってしまったけど、私にはもう余裕がなく、いつもみたいに猫かぶりに先生に挨拶することもなく、急いでその場を後にした。
『ねぇねぇ、真ちゃん』
『こら、先生って呼びなさい』
怒り口調でもちゃんと私の方を向いてくれる彼。
大好きなチョコレート色の瞳に自分が映って私はまた有頂天になる。
『ねぇねぇ、どうして真ちゃんは先生になりたいと思ったの?』
『え・・・』
少し驚いたようだったけど、すぐに彼は笑っていった。
なんて言ったんだっけ・・・
その言葉でさえかすかにしか思い出せない。
そんなに時間は経っていないはず。だって、高校を卒業して、大学に入って・・・いや、時の流れがいつの間に自分が思っていたよりも早く過ぎていることに驚く。
そりゃ、覚えてるわけないか・・・
あれだけ、あれだけ毎日考えていた人の言葉だったのに。それさえもすぐに思い出せないなんて。
だけど、ひとつだけわかったことがある。
真ちゃん。
ねぇ、真ちゃん。
私はあなたが見ていた世界を、一緒のように見ることができそうにありません。
「あれ、森本先生、今日も来たんですか」
私が慌てて向かった誰もいないであろう目的地、図書室にはすでに先約がいて、彼は笑顔のまま私を見ていた。
「西野くん・・・」
先ほど、女子生徒から聞かれた張本人、西野大地くんは読みかけの本をパタンと閉じて立ち上がる。
噂がある分、また二人でいるのはちょっと問題があるかと思うが、それでも窓際に椅子をずらし、いつものように遠い目でそこから見えるグランドを見つめる彼を見ていたら、やっぱりそのまま残していけなくなった。
「早いもので、もうここから直樹を見る日もあと数えるくらいになったんですよ」
冬には大学受験を控えている彼は少し寂しそうに笑った。
「一度は、あそこで走りたかった?」
聞くつもりはなかったが、それでも私は口を開いてしまっていた。
西野くんは元スプリンターだった。
彼も中学で足を痛めてしまうまでは、今もグランドで自由に駆ける彼の親友である直樹くんと共に走り続けていたそうだ。今ではすっかりやめてしまったそうだけど、それでも毎日のように校内からグランドを見ているのが日課になったのだと彼はいつか笑って教えてくれたことがあった。
「そうですね」
呟いた大地くんの横顔が、なぜか自分の時と同じように感じられた。
私も以前、彼と同じく走れなくなってしまった身であるから何となく彼には共感してしまう部分があるのだろう。ただ、私は引退前という時期だったので、このグランドで走れないというつらさと同じにしては失礼だと思うけど。
「でも、もういいんです。直樹が俺の代わりにゴールを目指してくれてますから」
それに、と言いかけて目を輝かせた彼は、本当にそう思っているようだった。
「俺も、また新しいゴールを見つけて走ろうと思いますし」
「新しいゴール?」
思わず聞き返してしまうと、そこではっとしたように少し頬を染めた彼が、なんだか微笑ましくなった。
「ああ、好きな子のこと?」
前に少し話してくれたことを思い出す。
私の言葉に、彼はますます真っ赤になったけど、それでも何かを思うように泣きそうな顔で笑い、彼は言った。
「先生、失恋って、どれくらい振られるまで、有効期限は可能なんでしょうね?」
遠い空を眺め、ポツリと呟いた彼の瞳は、いつもよりずっと大人びて見えた。
きっと彼の瞳は今、胸を焦がすほど熱く想いを寄せるたったひとりの女の子を映しているのだろう。
「挑戦できるまで、ずっとじゃない?」
「え・・・」
悔しいほど輝いて見えるその瞳に、私は胸のあたりがほっこり暖かくなるのを感じた。
「私が西野くんくらいの頃は、何度も何度もアピールし続けたわよ。失敗しても、ね」
素敵だなぁ。ふとそう思った。
青春時代と呼べる期間はとても短いものだけど、彼は今、その真っただ中だ。
あとの後悔を恐れず、自分に正直に前を向き、彼はまた走り出そうとしている。
「失敗しても・・・?」
「そうそう。私の場合、毎回毎回困ったような顔をさせるのをわかってたんだけど、当時の私はあまり相手の迷惑とか考えられなくって、どちらかというといかに自分の方を見てもらおうというかもう必死でアピールしにいったものよ!」
言い過ぎたかなって思ったけど、西野くんが真剣な顔でこちらを見ているものだから、まぁいいかと思えた。
いつも今にも泣き出しそうな顔で彼のことを聞きに私の所へ毎度毎度やってくる女子学生たちが彼に夢中になる意味が少しわかる気がした。その反面で、そんな話題の的の彼にこんな表情をさせている人物が誰なのかも気になった。
本当にみんな青春真っ最中なんだなぁって、少し羨ましくなった。何も考えずに、ただ前だけを見て、明るい未来を信じて何も疑わなかったあの頃が、とても懐かしく感じられた。
大学生と高校生って、ここまで差があるなんて、とつくづく実感してしまった。
「先生も?」
「え?」
「ふられたことあるんですね?」
「もちろん」
もう何度も。数えきれないほどに。
「先生を振る人もいるんですね」
きょとんとして、私を見返してくる彼にまた自然と頬が緩んだ。
「当たり前よ」
あの人がすんなり私を受け入れてくれるような人なら、私はあんなにも必死に恋をしなかっただろうって、今ならそう思える。
「西野くんこそ、断られる理由が考えられない気がするわね」
「そりゃもう、すっぱり断られてます」
彼の視線が、微かに図書カウンターの方に移ったような気がして私もそっちを見やる。
いつの間にいたのか、図書委員の学生たちが戸締まりを確認しているところだった。
(あ、あの子・・・)
すっかり存在に気付いていなかった私は、そこで初めてそのうちの一人の横顔を見て気付いた。長く真っ直ぐな黒髪を腰元で揺らし、一生懸命に動き回る彼女に覚えがあった。
いつも、なぜか女子学生からは呼び出されることが多い、最低教育実習生の私だけに、視線を感じる事ももちろん少なくない。何となく嫌な予感ばかりするから、あまり気にしないようにはしているが、それでも彼女の悲しそうな視線だけは無視できずに、どうしたのかと思ってしまったこともあった。
彼女も、今度は私の視線に気付いたようにはっとしたが、心なしか隣にいる西野くんを睨み、また業務に集中したようにも見えた。
そして、西野くんも西野くんで、今まで見せたことのないような悔しそうな表情を浮かべていた。
そこで、私はわかったような気がした。
「さてと、私は戻るわね。頑張って」
彼の肩をポンッと叩いてやると、彼は焦ったように私を見たが、私にはとてもそれがとても羨ましかった。
彼らはまだ、走り出したばかりだから。
振り返ることも知らずに。
だから、彼も永遠に知らなくていいのに、と思った。もしかすると、これから先に見えてしまうかもしれない現実世界のことなんて。
私のように、臆病にならないように。
大人が、つまらない生き物だと、本当は私も気付きたくなかったから。
『やったな、森本!』
珍しく真ちゃんが大声を上げて、私の前に走って来たから、私は正直とても驚いた。
『真ちゃん?』
『よくやった!優勝したんだってな?』
その嬉しそうな顔が信じられなくて、私はポカンとしてしまった。
『真ちゃん、知ってたの?』
『ああ、おまえ、頑張ってたからな。心配で気にしてたんだ』
『え・・・』
気に、してくれたの?思ったら涙が出た。
『よくやったな!本当によくやった!』
頭の中が真っ白になった。
試合の直後、自分がこの競技場で一番になったんだって思ったときだって涙はでてこなかったのに。ただ、早く伝えたいなって、思ったくらいだったのに・・・
『真ちゃん・・・』
目の前の世界がきらきら輝いて見えた。
私の大好きだった彼は、いつもそうやって私に幸せの瞬間をくれた。
彼からは、ただ一人の生徒に対する態度だったとしても私にとってはとても嬉しかった。
彼は、やっぱり思い出の中でも私に優しく笑ってくれた。彼を思い続ける高校生活で、本当によかったと今なら思えるくらいに。
「さっきのは、本気だから」
鞄を取りに職員室に戻った時、すでに小池先生はいなくなっていて、手越くんただ一人がその場に残り、今まで見たことないほどの真剣な瞳で、私を見ていた。
「俺、本当に森本ちゃんのこと、好きだから」
(は・・・?)
いきなりの彼の発言に、私は思わずあんぐりしてしまい、声が出なくなってしまう。
「数年ぶりに、ここで再会した時からずっと」
「ちょ、何言ってるの。私たちは仮にも実習生なのよ。そんなこと言ってる暇・・・」
「言わないとわかってくれないでしょ、森本ちゃんは。高校時代も、今も」
信じられない状態に寒気がした。
「わ、私はここに、そんなつもりで戻ってきたわけじゃない」
恋愛なんて、するつもりはない。
母校で、どんな時よりも一番、自分自身が恋愛に輝いていたこの場所に、戻ると決まった時にそう決意していたことだから。
「私は先生になりたくてここにいるの」
「俺だってそうだよ」
荒げられた彼の声に飛び上がる。
「俺がついてても先生になれるよ?」
夕日を背にした彼の顔は、逆光でどんな表情をしているのかわからなくなった。
「なんで、なんでそうやって、昔から人から壁を作ろうとするの?」
「つ、作ってな・・・」
言いかけたら、涙が零れた。
私は、何をしているの?ここに、戻ってきて・・・なんだかそう思えた。
「私・・・」
目の前が真っ暗になった気がした。
私が大好きだった真ちゃんのもとへ、素直に走っていけなくなったのは、高校三年生になってすぐに私がスランプに陥ってしまったからだ。
走れなくなった。
いや、走れている。
でもわからない。
走っても走っても、自分の体が自分のものでないように感じられ、走れなくなってしまった。
今思うと、あれは気持ちの問題だったんだろうと思うけど、それでも当時、いつも喜んで試合の結果を報告しに行っていた真ちゃんへは、なんといえばいいのかわからず、彼のもとへいく足まで重くなってしまった。
真ちゃんが顧問をしているバスケ部の調子の良さとどうしても自分を比べてしまっていた。
あれから高校を卒業して、大学生になった私。
あの時の弱い私は、全く変わらず、今も出口のない迷路の中にいる。
「そこまでだ、手越」
手で覆っても涙が止まらず、自分の情けなさに嫌気が差した時、突然後ろから響いた低い声に私は飛び上がってしまった。
「う、上林先生・・・」
「おまえは今、ここではただの大学生じゃない。生徒にとっては尊敬すべき教師なんだ。わきまえて行動しなさい、手越」
なぜ、今ここに?という疑問よりも、もっともな上林先生の声が私の胸を抉る。
(私は・・・教師・・・)
何よりも、なりたかったもの。
(一人でも多くの生徒たちの笑顔が見たくて・・・)
つらい時は一緒に泣き、嬉しい時は一緒に喜ぶ。
誰もがいつの日か思い出してふと笑顔になれる。そんな高校時代を一緒に作っていきたい。そう思っていた。私があの頃のことを思い出して、今でも強くなれるように。
(そう、私は・・・)
あの時、真ちゃんが言っていた。
「て、手越くん、ごめ・・・わ、私・・・」
私はずっと決めていた。
「私は、立派な教師になりたいの」
今しかできないことを精一杯して、後々後悔のないように。
「私が幸せだと思えた高校時代のような時間を、少しでも多くの生徒に与えられるような、そんな先生になりたいの」
涙を拭ってそう言うと、思ったよりもしっかりした声が出た。
「今はまだまだ弱いけど、もっともっと強くなってそれで・・・」
私が言葉を続ける前に、何も言わなくなった手越くんが、ごめんとだけ残し、外に飛び出していく姿を私は目で追うことしかできなかった。
ぐっと握ったこぶしが震えている。
あれでよかったのか。そう思えるけど、追うことさえできない私だから、これで間違いなかったのだと思う。
負けるものか・・・そして、隣にいる存在を意識した。
「上林先生、お騒がせしてすみません」
静かに頭を下げると、少し驚いたような先生の顔が目に入る。
「私、忘れていました。昔から、どんな時も前を見て歩こうと決めていたことを」
自信がなくて、いつも下ばかり向いていた。こんなはずではなかったのだ。
『おまえは、俺を好きじゃない。教師としての俺に錯覚しているだけだ』
真ちゃんは、あの時そう言った。
『年相応の恋愛をしろ。今しかできない、そんな恋を。五歳以上も離れている俺相手に、貴重な時間を間違ってはいけない』
最後の最後に振られた台詞は、真剣な表情で言われた、今を無駄にするなという言葉。
私は、真剣だった。
だからその時は泣いた。どうやったらわかってもらえるのかと。
でも、わかってしまった。自分が先生の立場になって、生徒達を見ていたら。一秒ほどの一瞬がとても長く感じられたあの頃の自分が、いかに子供だったかということに。
『今という時を大事にしてくれ』
あの時、真ちゃんはそう言った。
「私、今を大事にしています。先生として」
だから、その言葉を守ろうと決めた。
そして、私が感じたこの想いが無駄にならないように、私は教師になることを決めた。
自分が真ちゃんにしてもらったことを、今度は私が生徒たちにできるように。
「取り乱してすみません。私・・・」
「ああ、そうですね」
上林先生は穏やかな笑みで、私を見ていた。
「森本先生は、きっといい先生になれると思います」
その表情を見ていたら、やっぱり涙が止まらなくなった。
本当に、何やってるんだろうと、今ばかりはそうは思えなかった。上林先生の瞳は、こんな私でも、これが乗り越えるべく試練の一つなのだと言ってくれている気がしたから。
だって、これが、私の第一歩なのだから。
「本当に、二週間、ありがとうございました」
大きな拍手に包まれた私は、大きな花束を抱き抱え、昨日とはうって代わって、今までにないほどの晴れ晴れした気持ちで大勢の生徒の前で頭を下げた。
『先生、俺、頑張ります』
西野くんは、最後にそう言って笑ってくれたし、今まで私に散々文句を言ってきた学生たちも、最後の日には私のために泣いてくれた。
一時的な嫉妬、そんな不安定な気持ちを何度も繰り返して、人はみんな大人になっていくことを私も知っているから、だから彼女たちの気持ちは痛いほどよくわかった。
現に、年齢上では大人だとされている私だってそんな気持ちになることはあるのだから。
『俺、森本ちゃんに負けないくらい立派な教師になるよ』
手越くんも笑ってくれた。それでまた口説きにいくから、と相変わらずではあったが。
「お疲れさまでした~」
私が嫉妬してしまうほどに、完璧な先生、小池先生も満面の笑みを私に贈ってくれる。
「小池先生、お世話になりました」
「もっと可愛い後輩と一緒にいたかったわ」
残念そうにそう言ってくれた小池先生は、そこではっと気付いたように辺りを見渡した。
「そういえば、うえっちは?」
「あれ、さっきまでここにいたのに・・・」
大きな花束をかざすようにしながら、手越くんも不思議そうに辺りを確認する。
「担任だったし、誰よりも森本先生のこと気に掛けてたのにね」
小池先生の声が遠く感じられた。
誰よりも、お礼を言わないといけない。それがわかっていたから、私の本能のまま、行動しようとする自分の衝動を止めなかった。
この二週間、私は何度も道に迷って、絶望的な気持ちになって立ち止まる事もあったけど、それでも今という時を、しっかり新しい自分に向かって進むことができた。
だから、また私は走り出した。
「ああ、森本先生、お疲れさまでした」
今行こうと思っていたところだと笑って、体育館倉庫の整備をしていた上林先生はいつものような穏やかな笑みで笑った。
「バスケ部、夏の大会には勝ち残るといいですね。毎日頑張ってたし・・・」
もうここには来られないという、少し寂しい気持ちを抱えながら、私は館内を見渡した。
「先生、本当にお世話になりました。未熟者でしたが、これからも目標を持って頑張ろうってまた思えることができました」
いつもいつも泣き言ばかりでみっともない姿ばかり見せた。
それでもいつもしっかり見守ってくれて、優しい言葉をかけてくれて。
「学生達はいつも一生懸命に毎日をしっかり生きていて、ここに来て、自分の高校時代を思い出しました。必死に勉強して、必死に部活をして、必死に人に恋をした、あの時、あの場所でしかない、そんな時期のことを」
無理にでも笑おうとしたけど、やっぱり堪えられなかった。だって、最後なんだから。
「貴重なあの時間を、無駄にするなと言われたことがあります。でも、でも、それは無駄じゃなかったんだって、私は思ってます」
あの時の思い出は、私の宝物だから。
「私、先生の下で働けて本当によかったです」
先生が、静かに顔を上げた時、視界が霞む。
「せ、先生、私・・・」
「立派になったなって、思い出していたんだ」
穏やかな瞳が向けられて、溢れる涙が止まらなくなった。
「あんなに、子供みたいだった女の子が、今ではもう誰も文句の言えないくらい、素敵な女性になったなって。本当に、よくやったよ」
懐かしいその言葉は、私の胸を締め付けた。
「上林せ、せんせ・・・」
優しいチョコレート色の瞳に自分が映っている。
「せ、せん・・・し、真ちゃん、私・・・」
「ああ、よくやった。最後まで、ちゃんと先生ができてたよ。俺を相手にしても」
それは、今のあなたはちゃんと私を対等の先生として扱ってくれていたから。そう思ったけど、もう我慢ができなくなって、思わず彼に飛びついてしまった。
「もう、私のことは忘れたのかと思ってた」
上林先生、いえ、真ちゃんは、少し驚いたようだったけど、それでも何も言わずに受け入れてくれた。
「もちろん忘れてないよ。『私が成長してあんないい女振って後悔したって言わせてやる』って捨て台詞を吐いて卒業していった生徒だからな」
「なっ・・・」
怖い物知らずだった過去の自分の発言に穴があったら入りたくなってしまったが、真ちゃんの腕にも力が入った気がして私は驚いた。
「す、すみません・・・」
「本当だよ、まったく」
「!?」
「当時まだまだ新人だった俺に真ちゃん真ちゃんって女子高生がまとわりついてくるものだから、ほかの先生たちになにかと文句つけられるたびにびくびくしてたよ」
続けて変わらない笑顔でははっと笑う。
「立派な先生に、なれよ」
長い沈黙の後、距離が離れた真ちゃんのやさしい瞳に私が映っていた。
しっかり見返して頷いたら、やっぱりまた涙が出た。
「なります。みんなが大切だと思える思い出の瞬間を与えられるようなそんな先生に」
私は、そんな先生になりたい。絶対に。
「後悔、してくれそうですか?先生」
そうだな、って笑ってくれる彼を見て、やっぱり生徒のために頑張りたいと強く思えた。
そう、私が昔ここで宝物を見つけたように。
恋することは女の子を強くする!
そういう気持ちを想像しながら書いてみました。
ぜひ、読んでいただけたら嬉しいです。
よろしくお願いします。