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信長物語  作者: 楠乃小玉
9/12

父の思い

吉法師と林秀貞の諍いを聞いて、心配した織田信秀は古渡から那古野城にやってきた。

そして、林秀貞との出会いを語ったのである。

 吉法師が一宿老いちおとなの林秀貞と言い争ったという噂を聞いて、

 古渡の城から織田信秀がやってきた。

 「父上は某を叱りに来られたか」

 眉をひそめていぶかしそうに吉法師が言った。

 「そうではない、まあ聞け」


 そういうと信秀は林秀貞と初めて会った頃の話をはじめた。

 林秀貞の家は元々は織田本家の家臣筋。

 守護代織田家の直臣であった。

 礼儀作法を心得た家筋として知られ、

 父親は今日とから来訪した公家衆の接待を任されるほど

 守護代織田家から信任を受けていた。

 そのような家柄であったから、蜂須賀家など羽振りのいい富豪の国人衆は

 皆、金の延べ板を積んで秀貞に士官を誘っていた。

 しかし、秀貞はその全てを断っていた。

 守護代家臣の家柄は貴重なもの。

 金品では買えないものである。

 戦国の家制度の中では臣下には二種類ある。

 同じ家の中にあっても直臣である家臣、郎党、また複数の家に仕える家来。

 家来は家に来るものであるからこそ家来という。

 家来は同じ家の中であれば複数の国人衆に使えることができたが、

 直臣に比べれば世の信用や家格は低く見られた。

 戦国時代には「武士は生涯に七たび主君を変えて一人前」という言葉があるが、

 これはあくまでも家来の言い分であって、七人もの人から士官を求められたという

 自慢である。

 直臣、郎党は一つの家に忠義を尽くすことこそ尊いとされ、社会的信用もあった。

 その信用を金のために毀損することはないだろうと世間の人々も噂しあった。

 しかし、その林秀貞が織田信秀の誘いに乗った。

 守護代直臣の家格を捨てて、織田信秀の家来となったのだ。

 織田信秀が林秀貞を家来にしようと誘った時、林秀貞は問うた。

 「そなた、天下を望むか」と

 信秀は即答した。

 「同然の事なり」

 今まで林の問いに、すべての国人衆が失笑するか呆れて答えなかったそうだ。

 唯一、信秀だけが当然の事と答えた。

 大名どころか守護代でもなく、ただの若造、神社の神官である信秀が「天下を望む」と答えた。

 秀貞はそこに惚れたという。

 秀貞は信秀のため、身を粉にして働き、倹約し、金をためて信秀の軍資金を貯め込んだ。

 そして、信秀のためならその資金を惜しみなく戦につぎ込んだ。

 ある時、合戦で領土を得た信秀は、真っ先に林秀貞に領地をやろうと言った。

 しかし、秀貞はそれを固辞した。

 それでも信秀は所領をやるといい、押し問答となり、最期は怒鳴りあいになった。

 それで仕方なく、林秀貞は信秀の刀のツバを褒美として望んだという。

 それほど、秀貞は欲がなく、信秀に献身的に尽くした。

 その秀貞が信秀とともに力を合わせて得た城がこの那古野城だという。

 「だから、どうか秀貞を許してやってくれ」

 そう言って信秀は頭をさげた。

 「うむ、分かりもうした」

 吉法師としても父に頭をさげられては、そうとしか返答ができなかった。


「七度主君を変えねば武士とはいえぬ」 とは藤堂高虎の言葉ですが、これは現代では 

 よく誤解されます。

 実際は藤堂高虎は一度も主人を裏切ったことがなく、あくまでも円満に主人を変えています。

 これは、当時の家来というシステムを理解しなければ分かりません。

 鎌倉時代から、武士の配下には武士に従属した家臣、郎党と、よそから来た家来が居ました。

 家来は同じ陣営であれば複数の主君に使えてよく、複数の主君から引き合いがあるということは、

 それだけ有能だということであり、その武士の評価を高くすることでもありました。

 これは、ヘットハンティングされる専門職のようなもので、一般の終身雇用の社員とは

 まったく別の存在でした。

 ですから、この藤堂高虎の発言だけで、戦国時代は義理も人情もない信用が毀損した社会だと 

 断定するのは間違いです。

 また、織田信長はそれまで農民を徴兵していた雑兵を、臨時雇用の専業兵に切り替えたから

 成功したというのも、現代創作された巧妙なウソです。

 実際は、戦国時代は臨時雇用の専業兵士全盛時代であり、文献場その存在が明記されているのは

 室町時代の骨皮 道賢までさかのぼります。

 彼らは加世者と呼ばれる専業用兵であり、臨時雇用であるために当時の戦国武将たちから

 経費節減のための臨時雇用として重宝されました。

 これとは反対に、織田信長は雑兵を正規社員にしました。

 それは、小牧城の発掘調査のおり、雑兵用の弊社が発掘されたことであ明かになります。

 当時、経費削減で、正規採用を減らし、臨時雇用の加世者を雇うのがトレンドとなっていた時代に

 信長は雑兵を正規雇用した。

 このために信長は嘲笑され、周囲から「うつけもの」と呼ばれました。

 しかし、実際に桶狭間の合戦の時、この正規雇用の兵士たちは、信長が数万の今川軍につっこんだ時、

 信長についてきました。

 それは、信長公記で信長が「あちらの士気は低い、こちらは旺盛だ」と力説したり、

 三河物語で今川の斥候となった三河武士が「織田軍の軍勢は今川方よりはるかに勇猛である」という事を報告している点を見ても明らかである。

 今川方が臨時雇用の傭兵であることが分かっていたからこそ、織田軍ははるかに少数の兵で

 今川の大軍に突っ込んだのです。

 そうでなければ、同じ練度、同じ士気の軍隊であれば、ほぼ、必ず、数が多いほうが勝ちます。

 この事実を理解できず、根性で少数が多数に勝てると思い込んでいる日本人は多く、

 これは極めて危険なことです。

 そうした間違いを犯さないためにも、当時の状況を冷静に把握する必要性があります。

 

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