犬山のおじき
犬山の織田信康の領地に吉法師一行が遊びにいった。
「おい吉、里芋掘りにいこうぜ」
犬山の伯父織田与次郎信康が那古野に来た。
「父上の許可がいる」
「先ほど、猿渡の城から使者が戻った。兄者もいくそうだ」
「それは珍しいのお、女のケツを追い回すのが忙しいて里芋など眼中にないと思うたがの」
「里芋が女のケツにでも見えたかの、ははは」
「聞こえておるぞ」
信康の後ろから声がした。
信長の父、信秀だった。
信康はニヤリと笑う。
「では行こうか」
「おう」
信秀が答えた。
信長は信康の馬の鞍の前のところに乗せてもらった。
織田家の嫡男である信長を乗せるということは、
それだけ信秀が信康を信頼してのことであった。
尾張の中程には平野が広がっている。
そのをずっと進んでいくとその先にわずかに小牧山が見える。
その小牧山がだんだん大きくなってくる。
吉法師は小牧山が近くなるにつれて心が高鳴るのを感じた。
犬山に到着すると吉法師はまず犬山城に行くことを信康にせがんだ。
犬山城の天守に登ってそこの窓から外を覗くと、そこには長良川が流れていた。
二股に分かれた長良川の中州の高台に犬山城はあった。
自然の要害であるとともに、尾張に入ってくる水運を監視できる。
犬山城を見たあと、一行は里芋畑に向かった。
途中で青山与三右衛門が早馬で駆け参じて来た。
「拙者にもお声をおかけくださればよいものを」
「なんだ青山、勝手に来たのか那古野の守りはどうした」
信秀が少し口に笑いを含みながら言った。
真剣に顔で言えば青山を責めることとなる。
冗談めかして言うのはそれなりの配慮であったのだろう。
「那古野の守りは内藤殿にお任せいたした。
某は吉法師様の宿老故、殿をお守りするが第一の勤めでござる」
「殊勝なことじゃ」
信秀が口を大きく広げて笑顔を作った。
里芋の畑に着くと、畑の主人と家の者が出迎えた。
農家の庭には大きな柿があった。
「あれは何じゃ」
吉法師が指をさした。
「知らぬか、柿じゃ」
「信康が答えた」
「あれが欲しいぞ」
「よし、取るがよい」
信康は吉法師を肩車して柿の木に近づき、
木の下で吉法師の胴をもって大きくさしあげた。
吉法師は手を伸ばす。
「ほれ!」
信康が手を離す」
「わっ!」
すぐに信康が受け止める。
「なにするんだ、馬鹿め」
「なんだとこのお、ははは」
信康は吉法師の頭を手荒にくしゃくしゃとなでた。
青山が血相をかけて駆け寄ろうとするが、信秀がそれを片手で制止した。
信秀は苦笑いしながら青山を見た。
青山は少し困ったような顔をしながら笑顔を作ってみせた。
里芋の畑に行くと、妙なものがはえていた。
緑色で赤い斑点がついた細いタケノコのようなものだ。
「あれは何だ」
吉法師が言った。
「あれはイタドリでございます。それ」
家の若い者がイタドリを折る。
パカーン!と音がした。
吉法師は目を丸くする。
「これはおもしろいのお」
パカーン!パカーン!
喜んで何本も折った。
「これは食べられるのですよ」
「まことか、たべさせよ」
「はい」
若者はイタドリの皮をむいて細く裂いて吉法師に差し出す。
吉法師はそれを口にはこぶ。
「うえっ、酸っぱくてまずい」
吉法師は眉をひそめた。
「これ、若様にそのようなもの食べさせるでない」
家の年寄りが叱った。
「えー、おいしいのに」
若者はそれをむちゃむしゃたべた。
「ならば」
若者は走って家のほうに帰っていった。
手には包丁と木の箸を持っていた。
イタドリを筒状に切って、縦に切れ目を入れる。
それを近くの用水路に持って行って水につけると切れ目が開いて水車のようになった。
その中に箸を入れて水につけるとイタドリはクルクル回った。
「おお、これはおもしろいのお」
吉法師は目を輝かせた。
そのあと、里芋畑に行く。
「ワレも掘りたいぞ」
吉法師がそう言いながら信秀のほうを見る。
信秀が頷く。
吉法師は里芋の茎の周囲を掘っていき、
おおよそ掘り終えると一気に引き抜いた。
「おおとれたぞ!」
「これはお見事!」
青山が声をあげる。
他の村の者も手を叩いて喜んだ。
「我は幸せいっぱいじゃ!」
吉法師が大声で叫んだ。
みんな笑っていた。
犬山は物流の要所であり、元々織田信秀の父、織田信定の所領でした。
そこから下流の物流拠点である勝幡に所領を移していくこととなります。
その場所には南朝方の大橋氏を中心とした津島南朝十五党がおり、激しい合戦が繰り広げられることとなります。
当時、南朝方はほぼ消滅していましたが、物流に通じた伊勢の北畠と津島衆はその貿易による利益で、まだ勢力を誇っていました。
大橋氏は後醍醐天皇の皇子を養子として迎えていたので、事実上、南朝方の一門という立ち位置でした。尾張に大きな影響力を持っていましたが、どうも信長公記の著者、太田牛一とは折り合いが悪かったようで、信長公記の中では完全に排除されています。佐久間軍記の中にも指摘されていますが、信長公記は公式文書ではなく個人が何の検閲も受けずに記したものですので、個人の好き嫌いがもろにでます。
そういう点で非常に正確な面とそうでない面が現れています。