岩室
後に腹心となる岩室と信長の最初の出会いであった
新しい小姓が来た。
吉法師が津島に遊びに行ったさい、祖父江の娘、豪が鞠を谷に落としたので、
それを取ってやろうとして、少々ケガをした。
その時のお付きの小姓は池田勝三郎であったが、吉法師を制止できなかったことを
泣いてわびるばかりであったことを大人たちは少々心細く思ったのであろう。
勝三郎は吉法師の言うことはよく聞くが、
吉法師の言うことには逆らわない。
たとえ危ない事をしていても、それに否と言えないところがあった。
危急の時、命を盾にしても吉法師を守る
分別のついた小姓が望まれた。
吉法師の処に来たのは素っ破の子供であった。
素っ破とは他国に忍び込み、その国の情勢を取ってくる者たちであった。
旧来の大名たちは素っ破を嘲笑し、相手にしなかったが、めざとい者たちは
大いにスッパを重用し、多くの情報を得ていた。
名を岩室と言った。
初めて会った時、岩室は伏し目がちにするふりをしながら吉法師の
目の動きを観察していた。
右に動く、左に動く斜め下に動く。
動きによって吉法師の心を読もうとしていた。
「小賢しいわ!」
吉法師は一喝した。
岩室は恐れ入って平伏した。
大人たちはなぜ吉法師が怒鳴ったか分からず、
ただ不審がるばかりであった。
そして、岩室を即座に退場させようとしたが、
吉法師は岩室を気に入って仕えさせることにした
あとで吉法師は岩室を呼び寄せた。
「そなた、我が心を読もうとしたであろう」
「恐れ入ります」
「心など読むな。人の心などというものは常に移ろうものだ。
読めば疑心を生み、また読みたくなる。またその時の心情を
読めたとしても気が変わってしまっては意味がない。
むしろ、人の心を読もうとする仕草は、
賢明な者にはけどられるものだ。
けどられれば、
心を読もうとしている者を卑しい奴だと見下すことになる。
さすれば、いざという時、一番最初に切り捨てられるのだ。
素っ破の者どもは、大名はすぐに素っ破を切り捨てるが故、
情は持つな、などと知った風な事を抜かす。
しかし、切り捨てられるは、人の心を読み、動かそうなどと
卑しい事をするが故に、軽蔑され、捨てられるのだ。
愚直に、人の心など読めずとも、誠実に尽くしておれば、
自ずと重用されるもの。
それを心得ておくがよいぞ」
「恐れ入ります。これほどご幼少でありながら、その利発さ、
この岩室、感服いたしました」
「何が幼少か、そなたとて、さして変わらぬ年ではないか」
「まことに、ははははは」
「わははははは」
二人して大笑いした。
当時、旧来野大名が素っ破を軽視したのには理由があります。
元々大名は、地方に遊説しに来た公家から都の情報を得ていました。
公家から話しを聞くためには、莫大な経費をかけてもてなせねばならず、
それだけの財力がある者だけが情報を独占することができた。
公家は家柄もよく、正確な情報を話しました。
ただし、自分を優遇してくれる大名の事はよく言うので、
その内容は常に偏向していました。
これに対して、庶民は、地方に回ってくる僧侶の説法を聞いて情報を得ていました。
今では托鉢に来てお経を上げている僧侶はある意味形式的なものですが、
当時はとても貴重な他の地域の情報を聞ける庶民の唯一の情報源でした。
しかし、僧侶は自分の宗派の思想的広報機関ですので、思想的色が付いています。
公家が提供する情報より、さらに内容が偏向していることになります。
僧侶たちは人を集めて説法をするとき、ホラ貝を吹いて集めますので、
当時、このような広報僧は「ほら吹き」と呼ばれていました。
そうした社会背景があったからこそ、多くの既存の大名たちは
素っ破たちもほら吹きと同様の品質の低いものだと断定していました。
しかし、だからこそ、そこにビジネスチャンスがありました。
対価を貰って正確な情報を提供する。
そうした信頼構築を徹底的に行った伊賀と甲賀が次第にブランドを形成して
情報ビジネスを全国展開していきます。
ちなみに、風魔はそこまでブランド化が出来ず、情報収集よりも破壊工作を主に行い、
世間的には盗賊の類いと呼ばれていました。