兄貴の苦悩
弟に任せるんじゃなかった。
家で待ちながら俺は後悔していた。
「ただいま。」
帰って来た!
「優。遅いよ。雨降って…」
直ぐに、その手に持っているクリーニング店の袋が、あの店のものであることに気がついた。
「悪い、でもこれ親切なチャラ男店員が被せてくれたから中は無事だよ。」
弟は、一体何のためにあの店へと行ったんだ?
「そうだ、アイスのシミ取れてたよ。」
「おぉ。良かったよ。」
思わず言葉が棒読みになる。
だから、なぜ、あの店へ行ったんだ?優!
「でさ、兄貴これ間違って俺に渡しただろ。」
そこには、あの店の伝票が握られていた。
「あ、ごめん。で、何か言ってた?」
俺は、優の右手から奪い取るように伝票を引き抜いた。
雨だろうか、はたまた、自分の手汗なのだろうか、伝票はしわしわに萎れている。
「ん?誰が?」
優は、雨で濡れた頭をタオルでがむしゃらに拭いながら、こちらを向くこともなく答えた。
「いや、何でもない。」
まあ、優が何にも気づいてないならいいか。
返してもらった伝票の裏には、俺のLINEのIDが記されている。
万が一、見られたら、どんな想像を掻き立てられるかわからない。
そんな事を考え始めたら、冷や汗が手だけには留まらずジワリジワリと背中を伝った。
「兄貴さ、何で二店舗も使ってんの?」
「別にいいじゃん。」
「だってさ、初めに行った店、MMfamの方がお洒落だし、早く出来るし、シミも取れたしさ。でも、後の方は何て言うか、古臭い感じはあるよね。」
「古臭いとか言うなよな。」
しまった。不意にむきになってしまった。
「まあ、いいや。」
優は、それ以上深くは聞いてこなかったので、一先ず安心だ。
まさか、店員の女性に気があるから行ってるなんて言えない。それも、未だに気持ちも伝えず、ただ毎週毎週、土曜日に通い続けて、早一年だ。
相手の女性の名前は、千葉さんという。
それは、名札を見たから間違いない。
さっき、優が、「チャラ男店員」だなんて失礼な事を言っていたのは、彼女の弟さんだ。
まあ、俺自身も初めはチャラい奴だと思っていたが、今となっては良き相談相手でもある。
あくまでも、クリーニングについての相談だが。
その弟さんは、確か21歳と言っていたから、彼女はそれより年上には間違いない。
もしかしたら、同い年の可能性もある。
そう考えると一気に親近感が湧いてきた。
よし、次の土曜日、絶対に連絡先を渡そう。
そう心に決めた。
1週間が過ぎ、土曜日がやってきた。
「こんにちは!」
いつものように、ワイシャツを1枚持って、千葉さんのいるお店へと入る。
入り口には、夏らしく風鈴が飾られていた。
来店がある度に、それが涼しげに鳴り響く。
「こんにちは。」という千葉さんの声。
いつ聞いても癒される。
「いらっしゃいませ。」ではなく、「こんにちは。」と迎えてくれるところが、何て言うか、人間味を感じで凄く良い。
「大沢さん。もしかして、弟さんいますか?」
不意に聞かれたもんだから、咄嗟に返事の声が出てこなかった。
「こないだ、弟が対応していたお客さまだったんですけど、どことなく似てるなと思っていて、話を聞いたら大沢さんのお洋服を取りに来たって聞いたもので。」
彼女は、ワイシャツの点検をしながら、時折こちらに視線を向ける。
「あ、はい。弟の優っていいます。何か間違えて来たみたいですみませんでした。」
俺は、千葉さんの点検をしている姿を見ているのが好きだ。
話し方は柔らかいのに反して、手は凄く機敏に動く。一点一点、品物の確認をしながらボタン割れやシミを発見する。
目視で行ってるとは思えないほどの正確さだ。
「いいんですよ。弟の広樹も、若いのにあんなにクリーニング持って歩いて大変だな。って言ってました。」
しまった。
別のお店でも出している事がバレてるじゃないか。
「いや、あの、何て言うか、社会勉強の為にクリーニング屋さん色々行ってみなって勧めたんですよ。ちょっと急ぎもあったんで、前に千葉さんが働いてたMMfamも行かせて。」
熱い。前髪の生え際から、急に汗が流れ始めた。なぜ、そんな言い訳を口走ってしまったのだろう。
自分でも情けない程の、動揺を感じた。
「そうだったんですね!私が辞めてから、もうすぐ1年ですね。その時から来ていただいていて、大沢さんには感謝です。」
彼女は、点検を終えたワイシャツを、カゴへと移す。
「いや、感謝だなんて。」
むしろ、僕は彼女が居たから行っていたようなもんなんだけどな。
とてもそんな事は本人には言えない。
「そういえば、橙さん。」
まさか、今まで一年以上通っていて、このタイミングで下の名前で呼ばれるとは思ってもみなかった。
「どうしたんですか?急に下の名前で呼ぶなんて。」
「いえ。弟さんも来てくださるなら、優さんと、橙さんで呼んだ方がわかりやすいかなと思いまして。」
ニコっとした表情が愛らしくて胸の奥の方をつつかれた気がした。
「ごめんなさい。駄目でした?」
「いえ。全然駄目じゃないです。」
「良かったぁ。」
彼女は、ほっとした表情でレジを打ち始めた。
「本日のお会計、120円です。」
俺は、ちょうど握りしめていた120円を、コイントレーへと置いた。
「あの、ちなみに、千葉さんって何てお名前なんですか?」
自分も聞かれた今こそがチャンスだとばかりに尋ねた。
「あす美っていいます。」
「へぇ〜。あす美さんっていうんですね。やっと聞けた…」
一人言のような、か細い声が出た。
それに覆い被さるように彼女は、「それでは、来週末28日のお仕上がりです。」と言い、伝票とカードを渡してくれた。
「あす美さん、歳って同じくらいですよね?」
自分の口が暴走する。いや、でもこの際だ、聞けることは聞こう。
…と強気に出た矢先だった。
「あのぉ…お取り込み中悪いんですけど…」
こんな時に、誰だ。邪魔をする奴は。
「姉ちゃん、こっち間に合わないから手伝ってもらわないとさ。」
あす美さんの弟の広樹くんだ。
「ごめん。ちょっと待ってて。橙さん、すみません。」
そうだった。ここはクリーニング屋さんだ。うっかり、あす美さんの手を止めてしまった。
「こちらこそ、すみません。また来週来ます。」
「あ、待ってください!よかったら、またお時間ある時にお話しさせて下さい。」
どういうことだ?社交辞令か?
それとも…
いや、そんなはずはない。僕のことなんて何も知らないのだから。
それにしても、あと一歩だったんだけどなぁ。
一体、あす美さんは何歳なんだろう。
同じくらいですよね?だなんて言ってしまって、もし年下だったら凄く失礼な事を言ってしまった。
そんな思いを抱えながら家路についた。
「兄貴〜兄貴〜」
一階のリビングから優が呼ぶ声がする。
階段をかけ下りる途中から、ハヤシライスのいい匂いがしてきた。
そうか、今日は両親とも同窓会で居ないんだった。自分の親ながら、幼馴染み同士が結婚して長く続いてることには尊敬する。
昔から優が料理を作ってくれる時は、いつも優の大好きなハヤシライスと決まっていた。
カレーライスが大好きな自分にとって、ハヤシライスが小さい頃から好きだった優は、子供にしては少しひねくれているというか、クセがあるというか、自分とは似ても似つかないと感じている。
「いただきます。」
一口目から美味い。やっぱり、なんだかんだ作りなれたものは美味いんだよな。
「そうだ!兄貴、あの千葉クリの店員さんのこと好きなの?」
「チバクリって何だよ。」
思わず、そっちにツっこんだ。
「略してチバクリじゃん。」
ニヤニヤした顔でこっちを見るな。
「何でもかんでも略すなよな。ゆとり世代が。」
正直、自分もゆとり世代に片足を突っ込んでいた自覚はあるが、何かとこの言葉を若者に使ってしまう。
「出た!たまに現れるブラック兄貴。やっぱり好きなんじゃん。」
優はやっぱり気付いていたのか。
こんなことになるなら、クリーニング店に連れていくんじゃなかったよ。
「ちなみにさ、兄貴じゃ聞けてないんじゃないかなぁって思って年齢聞いといたよ。」
おっと!それは、ラッキーだと思っていいのか?
「何歳だって?てかさ、何で?また店行ったのか?」
「ほら、食い付いてきた〜!絶対、兄貴のタイプだと思ったんだよな〜。」
奴のニヤニヤは止まらない。
「うるせぇよ。で、何歳なんだよ。」
「28だってー。ちなみに、店行ってないよ。こないだ広樹くんがさ、俺が着てたインディーズバンドのTシャツに食いついてくれてさ、その後たまたま駅で会った時に話が盛り上がってLINE交換したんだ。」
「さすが、若者。すぐLINE交換出来るってゆうのが羨ましいわ。」
俺も弟も人見知りな性格には変わりないが、俺は結構な勇気を振り絞って、自分から話しかけて何とか友達を作るタイプだ。
しかし、優は違う。自分からは友達を作りには行かず、クールに教室の後ろの席で座ってるタイプだ。
それでも、周りが放って置かない、何か魅力を持っているようだ。
友達になったら、そこから一気に三枚目に化けるあたりが、男受けも女受けも良い鍵となるのだろう。
「兄貴も早く、あす美さんとLINE交換しなよ。」
ぶっ。やべぇ。ご飯が口の中に入ったまま、吹き出しそうになったのを我慢したものだから、誤って米粒が鼻の中に入ってきた。
これが、物凄く痛気持ち悪い。
「余計なお世話だよ。お前、ほんとに内弁慶だよな。外ではクール気取ってるくせにさ。」
涙目で訴える。
「兄貴は、仕事は出来ても、ほんと人間付き合い下手だよな。」
これは、もう単なる兄弟喧嘩だ。
まさか、この兄弟と、千葉姉弟が、今後もっと深い仲になっていくとは、この時は、まだ誰も予想していなかった。