出逢い
街のクリーニング屋さん。
そこに集まる洋服には、その街に住む人や家族の様々な物語が映し出されているという。
俺は、ただ毎日、そのクリーニング屋さんの前を通りすぎるだけの学生だ。
そんな俺には何の物語もない。
大学3年生になり、就職活動にも本気で取り組まなくてはならないこの時期に、全くやる気が起きないのは、この暑さのせいだろうか。
いや、この俺には自分の将来に何も希望が持てないからだろう。
そして、今、俺の隣で美味しそうにアイスクリームを食べてるこいつにも輝かしい未来なんてない。そう感じている。
「ゆーうちゃん、アイス溶けるぞ。」
自分のアイスクリームを食べ終え、人の分にまで手を伸ばそうとする、こいつの名前は[美山 保]。
高校の頃からの付き合いだ。
昔から、お調子者でクラスの男子からの支持は得ているが、女子には少し鬱陶しがられるタイプの男である。
「おい、俺のアイスまで取んなよ。」
美山は既に、俺の分のアイスクリームの蓋まで開けていた。
「いいじゃん。溶けちゃうから食ってやるよ〜」
「いいよ、今から食うから。」
俺は、奴の手から強引にカップを奪い返した
…つもりだった。
しかし、カップの中のアイスクリームは3割程が溶けていて、手に収まったカップそのものも既に歪んでいる。
嫌な予感がしたのと同時に、中身だけが俺の方へと飛んできた。
べちゃ。
俺の膝の上で虚しく響く音。
ジワジワと冷たさを感じる太もも。
楕円形に色が濃くなってくる、グレーのスラックス。
俺の怒りが頂点まで達した時、奴の顔は夏とは思えない程、青ざめていた。
「ごめん。優ちゃん。」
無言でアイスクリームのシミを拭き取る俺の顔を覗き込むその顔。
これでもかという程に八の字に傾いた眉毛。
あぁ、暑苦しい。
「ごめん。ほんと、ごめん。」
「いいよ、別に。母ちゃんにクリーニング持ってってもらうからさ。」
俺は、軽くあしらった。
「でも、明後日、企業説明会行くんだよね?そのスーツ着ていくんじゃないの?」
「まあ、そうだけど…。もし間に合わなきゃ、兄貴の借りてくからいいよ。」
「いや、まじでごめん。俺クリーニング持ってくし。間に合わなかったら買って弁償するから。」
また、美山から安易な[弁償]という言葉が出た。
「お前さ、いつも弁償出来ねぇくせに簡単に言うなよな。」
「ごめん。」
美山は、それからずっと黙りしていた。
チラチラと時折、視線をこちらに向けてはまた俯く。
それが、5、6回繰り返された頃、俺は家に着いた。
「ただいまー。」
「おぉ、おかえり。美山くんも一緒なんだね。」
ちょうど庭先で、愛犬の散歩に出掛けるところの兄貴と遭遇した。
振り向くと、美山が俺の背後から「こんにちは。」と小声で挨拶をしていた。
まだ付いてきていたのか。
ほんの数分前にお前の家の前を通り過ぎてきたはずだけど。
突然に甲高い声で鳴きはじめた愛犬のポコ。
俺の太ももを目掛けて何度も何度もジャンプをしている。
「ポコ何してんの?って、優、なに?そのシミ。」
下手なノリツッコミのような声をあげ、二度見をする兄貴に少し笑いが込み上げた。
「美山がさ、アイスクリーム投げつけてきたんだよ。」
「いやいやいや、ちょっと待って、違うんですよ、わざとじゃなくて。」
わかりやすく動揺する美山の顔を見てるのは実に面白い。
もう、シミのことなんて少しも怒っていない。
むしろ、本当は、スーツが汚れてしまった事を言い訳にして企業説明会なんてサボってしまいたいと企んでいたくらいだ。
しかし、その企みはすぐに打ち砕かれた。
「美山くん、大丈夫だよ。俺がいつも仕事で着てるスーツを出してるクリーニング屋さんだったら、1日で仕上げてくれるから。」
兄貴は少し社会人ぶって話す。
「まじですか。よかったぁ。じゃあ、俺が明日持って行きます。」
「じゃあ、俺が案内するよ。優も一緒に来な。自分でクリーニングくらい出しに行けないと一人前の社会人にはなれないぞ。」
はたして本当にそうなのか?疑わしい。
そもそも、クリーニングなんて社会人になったからってそんなに出すものか?
出して、また取りに行って。
二度手間で面倒臭いし、何で家で洗っちゃいけないんだよ。
それに、愛想が無いんだよな。
俺も人のこと言える立場じゃないけど、何て言うか、ちょっと無愛想なおじちゃんと、おばちゃんがやってる感じ。
もしくは、よっぽど暇なのか、おばあちゃんが雑誌読んだり、編み物したりして店番してる感じ。
考え始めたら、いい印象が全く浮かばない。
そんなクリーニング屋に、わざわざ早起きして行かなければいけない虚しさ。
俺は、眠い目を擦りながら、スーツのズボンを紙袋に入れて家を出た。
前を歩く兄貴と、その隣には美山だ。
何で、そんなに楽しげなテンションで歩いていられるのかわからない。
まだ、朝の8時半過ぎだというのに。
「ここ、俺がいつも利用してるクリーニング屋さん。」
兄貴が立ち止まった先を見てみると、クリーニング屋さんのイメージとはかけ離れた、小洒落た建物が建っていた。
黒とシルバーを基調にした、何ともインダストリアルを感じさせるような造りをしている。
そして、もう1つ目を疑う光景。
クリーニング屋さんの前に、何故人が並んでいるのだ?
まだ開店5分前だというのに、既に3人…いや、俺を含めたら4人ものお客さんが並んでいる。
「ここ、日曜日は9時からなんだけどさ、日曜日って凄い混むから早めに来て正解だったよ。これなら結構すぐやってもらえる。」
え?これで空いてるってことかよ?
「凄いっすね。なんか、クリーニング屋さんじやないみたい。お洒落で社会人って感じっす。」
美山が興奮気味に中を覗き込む。
「いらっしゃいませ。」
開店3分前ではあったが、店員の女性が快くドアを開けてくれた。
中に入ると、これまたクリーニング屋さんにはミスマッチと思われる洋楽が流れている。
しかし、インダストリアルな空間にはこの洋楽が見事にマッチしてしまっているのだ。
周りを見渡すと、アイロンの形の置き物や、トルソーなんかが置かれていて、随分とディスプレイには拘っているように感じた。
そして、驚いた事に店内には、お客さん用の長椅子が用意されているのだ。
それも、おそらく特注で作ったであろうサイズとデザイン。
クリーニング屋さんで並ぶという概念が無かった俺にとって、並ぶことを前提に作られたであろうこの長椅子の存在。そして、そのお店の計らいにはただ驚いた。
しかも、この椅子がまた座ってみたくなる形をしている。
俺は、そっと端に腰を掛けてみた。
兄貴は、自分の番が回ってきたようで、手慣れた様子でメンバーズカードを取り出した。
「こっちは、いつも通りお願いします。」
いつも通りだなんて、常連ぶって。
何だか兄貴の言い方が気にくわなかった。
しかし、店員さんは
「はい。大沢様ですね。こちらは、本日3時のお仕上がりで承りますね。」
と、まだメンバーズカードの名前も見ていないのに、顔と名前を認識していた。
兄貴、本当に毎週来てるんだな…。
自分とは正反対なこまめな性格の兄貴を見習えるとは思わなかったが、このクリーニング屋さんならまた来ても良いと思った。
「それで、これが弟のなんですけど、アイスクリームこぼしたみたいで。」
雑に入れた紙袋から摘まみ出すように俺のスーツを取り出した美山。
「そうなんですね。弟さんですか?」
その店員さんは、ニコりと美山に顔を向ける。
「あ、俺じゃないっす。あそこに座ってるやつです。」
美山はヘラヘラ?いや、デレデレしながら俺の方を指差した。
仕方なく俺もレジへと向かう。
遠くからだと気づかなかったが、レジのすぐ脇と言ってもいい程の近さでクリーニングの作業は行われていた。
だいぶ興味はあったが、中に居る人と目があってしまいそうな気がしたので、あまり見ないでおこうと決めた。
「アイスクリームのシミ、落ちますか?」
兄貴の問いかけに、店員さんは
「染み抜きしてみないと何とも言えないんですが…いつお使いになりますか?」
と、俺の方を向いて確認してきた。
「あ、えっと、明日着たいんですけど。」
「明日ですね。そうしましたら、時間内で出来る範囲にはなりますが染み抜きさせていただきます。ただ、当店の通常のお仕上がり時間より少し長くお時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
「それは、構いませんよ。な?優。」
「はい。大丈夫です。多分、取りに来れるの夕方6時過ぎなんで。」
「ありがとうございます。では、夕方6時以降のお渡しでお預かり致します。」
その後、支払いを済ませ店を後にした。
俺達が帰る頃には、既に店内には何人ものお客さんが列になっていた。
一体、みんな何をそんなにクリーニングしているんだろうかと、ミステリーでしかなかった。
「いやぁ、あの店員さん可愛かったっすね!」
興奮覚めやまない美山が、いつになく気持ち悪い。
「じゃぁ、夕方6時過ぎにちゃんと取りにいきなよ。」
「あぁ、ありがとう、兄貴の分も取って来ようか?」
「じゃあ、お願い。これな。」
と言って、兄貴は財布から引き換えの紙を取り出す。
俺は、それを無造作に財布へと移した。
「じゃぁな。」
それから、兄貴が何処へ行ったのかは知らない。
俺と美山は、その場で別れてもよかったが、まだ朝の9時半。よく考えたら、寝起きに服を着替えたまま出て来てしまったのだから、朝食もまだ取っていなかった。
「美山。腹減った。」
「俺も。」
二人で近くの牛丼屋に入り、夢中で牛丼を掻き込んだ。
リリリーーン、リリリーーン♪
携帯のアラームを右手で止める。
真夏の昼下がりは、余程暑かったのか、汗でびっしょりの前髪を掻き上げるようにして左手を額に添えていた。
約三時間は昼寝をしたであろうか、時間は夕方の5時半を回っていた。
あ、クリーニング。
正直、取りに行くのが面倒ではあった。
しかし、明日から再度始まる就活には必要不可欠なものである。
「いらっしゃいませ。」
朝とはまた別の店員さんが迎えてくれた。
それにしても、夕方になっても未だ客足は減っていないようだ。
中には、大きな大きな羽毛布団を抱えているお父さんも居たりして、いかにも暑苦しそうだ。
「お次にお待ちのお客さま。」
俺は、財布から伝票を二枚取り出した。
自分の分と、兄貴の分。
「少々、お待ち下さい。」
店員さんが裏へと消えていく。
1分…2分…3分……
少し遅くないか?と思い始めた頃、裏から品物を両手に抱え、店員さんが現れた。
「大沢様ですね。大変お待たせ致しました。」
兄貴のスラックスが1本と、ワイシャツが五枚。
自分のスーツが台の上に置かれた。
店員さんが、一点ずつ伝票の品物と番号を読み上げていく。
クリーニング屋さん初心者の俺は、その速さに追い付いていけていなかった。
「あ、ごめんなさい。こちらの番号を読み上げてます。お客さまは、お品物が合ってるか確認していただければ…」
つまり、お客さんからお預かりした品物は一点一点を番号で管理されており、その番号が伝票に打ち出されている訳だ。
そして、ハンガーにも同様の番号がふられている。
その番号を照らし合わせて間違っていないか、相互確認をしたいという訳のようだ。
その店員さんも、まだ入ったばかりなのか、少し話し方がぎこちないように思えた。
「シミって落ちました?」
「シミ…シミ…えっと、あ、アイスクリームの。」
そんなに大きな声で言ったら、周りに聞こえるじゃないか。
「こちら、シミ抜きの結果が付いてまして、落ちたみたいです。」
「みたい」と言うくらいなので、この子は全くクリーニングについては知らないんだなと思った。
その場で見させてもらっても、特に痕も残っておらず、すごく綺麗に仕上がっていた。
兄貴に前もって忠告されていたので、家から大きめの手提げ袋を持参してきた。
それに全て洋服を入れてもらい、帰ろうとした時、店員さんに「待ってください」と呼び止められた。
「これ、さっき一緒に渡された伝票なんですけど…いくら探しても見当たらなくて。」と、少しだけ眉間にシワを寄せながら俺の顔を伺う。
おそらく、他のスタッフも忙しなく働いてるのでなかなか誰かに聞けなかったのであろう。
「え?自分が出したのはこれだけです。」
確かにそうだ。自分と兄貴と…
「ちょっと伝票お借りしますね。」
こちらの様子を見兼ねてか、奥から一人の店員さんが出て来て、彼女の持っていた伝票を確認している。
「お客さま、大変申し訳ありません。こちらは、当店の伝票ではないようです。」
その先輩スタッフの発言に絶句しながら伝票を覗く彼女。
それよりも呆気に取られたのはこっちだ。
それじゃあ、何なんだこの伝票は。
「申し訳ありません。大変似ている伝票なんですけども、こちらの方に別の…」と言葉を濁しながら、伝票の下部を掌で差す。
そこには、明らかに別のお店の名前が書かれていた。
「こちらで早く気がつけば良かったんですが、お時間をいただいてしまって本当に申し訳ありません。」
「いえいえいえ、間違って出したのは自分なんで。すみません。」
その後、三人ですみませんのやり取りが数回続き、俺は最後に無言で一礼してから店を後にした。
先程、大きな羽毛布団を抱えていた男性も無事に出し終えたのか、駐車場で一服している。
あの様子だと、あの子は少なからず叱咤を受けるのではないかと少し心苦しさが残った。
それにしても、この伝票は一体…。
仕上がり日の日付は、すでに二週間も前のようだ。
兄貴が取りに行き忘れたのか?俺は、親切心と、少しの好奇心でその別のクリーニング屋さんへと向かった。
なんだろう?
少しだけ、クリーニング屋さんに興味を持ってしまった自分が不思議だった。
きっと、お洒落な造りに、お洒落な店員さん。
社会人の第一歩を踏み出した場所が、そんな一風変わったクリーニング屋さんであったことが、自分の中で少し特別で鼻が高いことであった。
たかが、クリーニング屋さんの話なんだけども。
そんな事を思いながら、たどり着いた先は、いかにも昔からあるクリーニング屋さんであった。
正直、少しガッカリした。
扉も自動ではなく手動だ。
「いらっしゃいませ。」
中から出てきたのは、男?!しかも若い!
自分と同年代であろう、茶髪の男が出てきた。
「これ。」
先程の伝票を渡しながら、何となく別のお店で引き取った品物を足元に隠した。
「これ、返してありますよ。」
「え?だって、伝票が。」
俺は少し強気でかかってみた。相手が男だからか、店員だからか。いや、チャラそうに見える容姿が少し気に入らなかったからだ。
「こちら見てもらえますか?」と差し出したノートには、二週間前の日付、つまり仕上がり日に引き取ったという兄貴のサインが[大沢 橙]と残っていた。
「すみません。」と、俺は今日何回謝れば良いんだ。さっき強気に出てしまった事が恥ずかしすぎる。
「いえ。それより、雨降ってきましたけど、袋大丈夫ですか?」
足元に隠したつもりの袋もバレバレだったようだ。
そのチャラ男…いや、男性店員は、更に大きめの袋を上から被せてくれた。
「雨だからサービスですよ。」とニッコリ笑いながら。
俺は、今日最後の「すみません」という言葉を発して店を出た。
雨と言っても小雨程度ではあったが、大事な洋服を濡らしてしまう訳にはいかない。
足早に帰ろうとした時、外で幟をしまっている店員の女性に「ありがとうございました。」と声を掛けられた。
俺は一礼してその場を去った。
何だろう。さっきのクリーニング屋さんとはまた違った居心地の良さを感じた。
そして、兄貴の顔がフワッと浮かんできた。
そういうことか…!