×と△、時々エメ、ヒーロー
昼下がり。穏やかな晴天の中。
商店街の大通りで、突如女性の甲高い悲鳴が響いた。
ひったくりだ。女性は、突然の後ろからの襲撃になすすべもなく、派手に転んだ。バッグを奪った黒いパーカーの男は、そのまま走り去る。女性はその背中を、嘆きと共に見送るしかなかった。
遠ざかるその背中。しかし、その姿は、不意に消えた。
女性は何が起こったのか分からない。それは、一部始終を見ていた他の通行人においても同様だった。
次の瞬間、商店街の一角、八百屋を覆う、せり出したトタン屋根から音がした。女性がそちらへ見やると、驚きに目が見開かれた。
気を失った黒パーカーのひったくり犯を脇に抱えて立つ人物がそこにいた。頭をすっぽり覆うカーキ色のつば広帽で、顔はよく見えない。半袖ボーダーにジーンズ。首元に赤いスカーフが巻かれている。体つきは男だ。少年と言われればそうだと思うし、大人と言われても、納得できる。曖昧な体つきをしていた。男、ということだけが分かった。
一体何者であろうか。トタン屋根は人が登れるほどの高さではない。少なくとも人間が丸腰で上がるのは不可能だ。それをこの人物は男を抱えた上で、やってのけた。
商店街全員の好奇心を集めている謎の人物は女性と顔を合わせると、次のまばたきの合間に、女性の目の前にしゃがんでいた。そのままひったくられたと思われるバッグを女性のそばに置く。
一つうなずいて、謎の人物はそのまま、消えた。
立ち去ったのか、消えたのか、分からないほど速く、その人物は移動していた。いずれにせよ、人の繰り出せる力ではない事を誰もが理解した。
女性は未だ、ぽかんとしている。取り戻されたバッグを強く胸に抱きしめたまま。ようやく冷静な判断ができた時には、無意識につぶやいていた。
「ヒーロー……」
誰の目にもそれは明らかだった。
人は、顔も分からぬ彼をただ、ヒーローと呼んだ。
「んで、なんでひったくりなんかしたの。」
暗い廃屋に頂点まで上がった太陽が細く幾筋も差し込んでいる。その中で、黒いパーカーの男が正座させられていた。むき出しの地面。砂利が男の足に食い込んでくる。声の主は呆れたように続ける。つばの広い帽子をかぶっているために、男からはその顔が見えない。
「無益だよね。人生これで、終わっちゃうよ、あーあ。」
男は目の前の人物の意図がくみ取れなかった。ひったくりした自分が捕まって、どことも知れぬ廃屋に正座させられている。意味が分からない。そもそもどうやって捕まったのかも分からない。気を失っていたのだ。気を失う前、最後の記憶に残っていたのは、突然吹きすさんだ風だった。
呆れ声はなおも続く。
「どーなの、そこのところは。やっぱりお金なの。」
「うるせぇよ。さっさと警察連れてけよ。」
答える必要は無い。理由は図星だったがこいつに言う筋合いは無い。警察に捕まるのを待つだけだ。
「はぁ。」
帽子の男は、深くため息をついた。そして握りしめた右手を自分の顔の横に持っていく。
殴ろうとしている。
そう分かった男はとっさに身構える。目の前の帽子の男は不用心にも、男を拘束しなかったのだ。
そしてそのまま、帽子の男は右手を突き出した。
身構えた男は何が起こったのか理解できない。ちょうど先ほどの女性のように。
すさまじい轟音と共に、廃屋が割れた。帽子の男が突き出した右手は、ひったくり犯の耳のすぐ横にあった。正座した男を境に、帽子の男の差し出した右手側の廃屋が吹っ飛んだのだ。主に風圧で。
廃屋が明るくなる。つば広帽の男の顔が太陽に照らされた。若い、少年の出で立ちをしていた。
男は、すぐ横の鋼のような握り拳に驚愕していた。今のを、こいつがやったのか。
「ねぇ、分かったでしょ。早く言って。終わらないから。」
子供っぽい口調は確かに顔と合致する。年は高校生くらいか。
「か、か、か、」
「か?かって何?」
「金がっ!」
「あぁ、お金ね。浅ましいなぁ。」
少年は一気に興味を失ったようだ。男は少年の一撃に、縮み上がっていた。この一撃だからこその、正座だったのだろう。
「あのね、わかる?人の物を盗ったらだめって事を。」
少年の声色に魂がこもっていない。畜生、説教始めやがった。男は一撃ですっかり少年に怯えてしまったことを悔しく思った。それに加えての説教。小さく舌打ちした。
「あ、今舌打ちした?したでしょ、犯罪者の分際で!」
「う、うるせぇ!ぶっ殺すぞ!」
もうどうにでもなれ。少年に本気を出されたら自分はひとたまりも無い。だが、このままこのガキごときにしてやられて終わるのだけは嫌だった。無意味な意地一心で、男は少年に怒鳴った。
すると、どうだ、少年が肩を震わしたではないか。男の怒鳴り声に、あどけない少年は驚いたのだ。
そのまま少年をにらむと、沈黙が降りた。まさかと思った。男には少年が自分を怖がっているように感じられたのだ。捕らえた獲物を逃さぬように、少年の恐怖を掴んだまま、男は少年をにらみ続けた。
沈黙の果て、口を開いたのは、少年だ。
「だ、だから、物盗りは、だ、だめなんだ、って」
先ほどまでの落ち着きはどこにもない。押し通せるかもしれない。男は、内心ほくそ笑んだ。
「だからなんだよ。てめぇには関係ないよなぁ?ああ?」
勢いづいて、立ち上がる。いけ。押せ。こいつを、飲み込め。男は少年よりも背が高かった。男が少年を見下ろす。少年の黒目が細かく揺れていた。
「そもそもお前なんなんだよ、ほんと。そんな格好してよ。まじだせぇし。ひったくりは邪魔されるしよ。さっきから全然意味分かんねぇしよ。そうだ、稼げなかった分はてめぇに払ってもらおうか。出せよ、金。オラァッ!」
勢いに任せ少年の胸ぐらを掴む。形勢は逆転したようだった。いける。男は、力を込める。
「オラ、早く出せって、早くしろよ!」
「離せ……離して……」
少年がか細く声を出す。ひよこみたいに、弱々しかった。勝ち誇った男はさらに少年をねじり上げた。
「早くしろって言ってんだろうがっ!」
「離してください……!」
途端に少年の声が大きくなった。でも、男はもう恐れなかった。少年はにわかに騒ぎ始めた。離せと、つぶやいている。
「このガキ、調子乗りやがってよ、てめぇ何にもできねぇじゃん。弱ぇくせにカスみてぇなまねしやがって。ほんとにクズだな、てめぇは。いいからさっさと出せや!金!」
そして思いっきりひねりあげる!
途端、少年が叫んだ。
「離せっていってん%&$&%&がっ!」
後半部分は少年の涙に紛れて、男は何を言っているのか分からなかった。そして、少年が暴れ出した。
「ちょっ、暴れてんじゃねぇ!」
なんとかなだめようとしたが、少年は、奇声を上げながら、足をばたばたし続ける。男の努力は、全く無意味であった。
そうして、暴れて浮いた足が地に着いたとき。
男は、少年の足により飛び出た地面に包まれた。吹っ飛ばされたと気づいたのは、廃屋の残った方の壁に背中を激突させたときだった。
少年の訳の分からぬ怪力。そして、背中の激痛。眼前に迫る死の気配に男は錯乱した。少年は目に涙を浮かべ、息を荒げている。
「お前、本当になんなんだよぉ!一体俺をどうしたいんだよぉ……なぁ、答えてよぉ。」
勢いが削げた。あまりにも情けない声が出た。男にそれを自覚する余裕は全く無かった。
死ぬ。このまま、訳の分からない奴に殺されて死ぬ。
「知らないよぉ。どうして、そんな荒っぽいことするんですかぁ」
少年の口調も男のそれと似たり寄ったりだった。荒い息のまま、少年は言う。
「はぁ、……僕は、ただあなたに変わってほしいだけなんです。改心、って言えば生意気ですけどぉ、はぁ……」
「生意気だよ、そんなの……」
男にはもう先ほどまでの勢いはない。逆らえば一瞬で消されると今度こそ分かってしまったからだ。恐れおののいていた。
「とにかく、言いたいのは、人間容易に変われるって事ですぅ。それは、善でも悪でも……。」
何の説教にもならない口調で、少年は続けた。
男には、やはり少年のしたいことが理解できなかった。人間が変われるだって?そんなこと簡単にできるわけがない。そういうことを語れるのは、義務教育を幸せに暮らしてきた連中だけだ。甘えたこと言ってるんじゃねぇ!ガキの分際で!
「分かった、分かったからよ、お、俺はどうすりゃいいんだ?」
助かりたい一心で、男は気持ちとは裏腹な事を言った。ここから早く逃げ出したい、男は少年から離れることを切に願った。
「もう、二度と、ひったくりしないでください、僕の願いはそれだけです……どうか、僕の前で、誓ってください……。」
「分かった!もう二度としない!約束する!」
力強く言い放った。この場から去れるような気配がした。
「絶対ですよ……もういいです。僕は行きます、ほんとに二度としないでください。」
そう言うと、少年は鼻を一すすりした。次の瞬間には少年の姿は消えていた。音も無く風も無い。少年の存在すら無かったかのように男は感じた。しかし、男は、すぐに認識を改める。半壊の廃屋、乱れた地面。少年のいた証拠は確かに刻まれていた。
しばらく呆然としていた男は気づいた。これは無罪放免であると。その事に気づくとにわかに心が湧いた。充足感を覚えた。自分はなんてラッキーだったのだろうと、神様に感謝した。おもむろに立ち上がり、駆け出した。背中の痛みなど気にならなかった。空がいつもより澄んでいた。
少年の脅威などすっかり忘れていた。
夕暮れ時。グラウンドでは運動部の熱い声がする。
屋上のフェンスの外、足を空中に投げ出して座る僕は、両手で広げた新聞を読んで落ち込んでいた。僕が見ていたのは、地方の情報を伝える小さな記事だ。
「ひったくり犯、再びひったくり、あえなく御用」
概要はこうだ。三日前、僕が捕らえたひったくり犯がまた同じ罪を犯した。僕は三日前に捕らえたそのひったくり犯を警察に突き出さなかった。あまりにも不憫だったから、少々説教を加えて解放したのだ。いや、説教なんてかっこいいものじゃ無かった。僕が怖がりすぎて、ほとんど上手くいかなかった。逆に犯人は僕のあり得ない力に恐怖を覚えたようで、約束もしてくれたから、もうやらないと思って、一安心していた。けど、またやった。
「悪人は本当に悪人なのかなぁ。」
僕は頭を垂れる。新たな被害者が出てしまったこと、犯人を改心させられなかったこと、その2点が僕をひどく責め立てた。一少年が悪人を説き伏せて改心させられるかといえばそれは無理な話だと自覚している。それがどれほど傲慢かということも。
それは人間に限った話ではない。ヒーローである僕にとっても、また然り、なのだ。右手を振り下ろした風圧で家屋を吹き飛ばそうが、踏み込んだ足で地面を飛び出させようが、人の心を簡単に変えられるわけじゃないのだ。僕は、僧侶や聖職者じゃない。ただのヒーローなのだから。でも僕にも僕の通したい道がある。いくら傲慢だと罵られても、僕は悪いことをした人間を改心させたいのだ。
フェンスが鳴り、人が近づいてきた。その人物はフェンスの上にまたがり、僕に何かを投げつけてきた。重力の手助けで加速した缶ジュースを僕は目もくれず右手で捕まえた。
「美和、危ないから、そっから降りて。」
「ぇえ、でも別に落ちても、どこぞのヒーロー君が助けてくれるから良いじゃん。」
「人の力を勝手にあてにしないでくれるかな。あとさ、無言でジュース投げつけてくるのもできればやめてほしい。取れるけど。」
「ぇえ、でもヒーローは強いからなぁ。」
聞いちゃいない。僕は、美和のペースにすぐはまる。
美和が今どんな態勢で僕と会話してるか手に取るように分かる。でも僕はあえてそちらを見ようとはしない。こんなこと考えたくはないんだけど、多分彼女今スカート。彼女の方を向けば、きっと、その、パンツが見える。美和に、変質者だと思われたくはない。というか、悪い印象を持たれたくない。それに、会話の表層では平静を装っていたが、本当に落ちてしまわないか内心で冷や冷やしていたのだ。姿を見れば、僕の心臓は保たない。
「もう、こっち見ようともしないんだから。見たくないのかね、私のものを。」
「変な言い方しないでくれるかな。」
フフっと笑った声がして再びフェンスが鳴った。そのまま僕の横に座る。やっぱりスカート。そこから伸びる白い足がヘタしたら夕日よりまぶしい。美和は遠くを見ながら、自分の持っている缶ジュースを飲む。一息つくと、突然切り出した。
「今日の君、目に見えて落ち込んでるけど、何かあったのかい?」
ずぶりと核心を突く美和。図星である。
そういう機微に彼女は異常に聡い。故に僕はよく彼女に悩みを打ち明けていたのだった。というか、どこにいて落ち込んでいても、何故か彼女はそこに現れてしまうので、僕が悩みを言わざるを得なかったのだ。
だって好きな人とは何でもいいから会話したいものでしょ?
悩み相談ってのが情けないのは百も承知だけど、自分の弱さを打ち明けてでも、僕は彼女と話したかった。実際、美和は僕の縦横無尽な悩みを最後まで聞いてくれた。長距離走が本当に苦手だからどうやったらサボれるか、から、僕の将来の人生設計まで。聞いてくれただけでもありがたいのに、美和は僕に的確なアドバイスもくれた。十中八九役に立つわけじゃなかったけど、いくらかは僕の日常を豊かにしてくれた。そんな感じで美和と僕が話をするのも普通のことだった。
それにしても、今回の悩みは厄介なものだ。それはもう、僕の根っこの所から体を真っ直ぐ突き抜けるような部分の問題だから。
僕は答える代わりに持っていた新聞を美和に差し出した。受け取った美和は少し目を見開いた。
「なに、もしかして、あんた、逃げられちゃったの?」
「そんなわけないでしょ、ヒーローなめないでくれるかな。」
「じゃあ、なによ。」
そこで、僕は押し黙る。どこから話せば良いのか逡巡した。まだ自分でも整理できていないのだ。正確には悩みの正体が掴めていない。そんな僕を美和は真っ直ぐ見つめていた。そのきれいな形の目に貫かれると、僕は小パニックを起こす。真っ直ぐ見てくれるところも美和を好きになった理由の一つだった。必死こいて、平然を努めて、僕はつぶやいた。
「悪人はどうやっても、本当に悪人なのかなぁ。」
「……よくわかんないけど、ヒーローにも抱え込むものがあるのね。」
「その犯人を三日前に捕まえてさ、改心させようと思って、説教したんだ。お前は浅はかだって。ひったくりごときでお前の人生台無しなんだぞって。」
本当は説教じゃなかったけど。
「それで、犯人も心底怯えて、もうしないって約束もしてくれたから、二度と同じ事しないと思ったんだけど……」
僕も同じように、犯人に怖がっていたけれど。
美和の手前、各種の事実を伏せる。浅はかさで言えば、その犯人と大差ない。
美和は少し考えてから言葉を発した。
「あんた、力を持ってることはき違えてるんじゃない?」
「そうだよ。傲慢だよ。ヒーローだからって人の気持ちを変えられる力を持ってるわけじゃない。たかが高校生風情が説諭だなんて大仰なことできるわけじゃない、身の程を知れってのも、分かってる。でもさ、でもやっぱり、悪いことした人間を、ただその強大な力で、警察に突き出すだけなのは違うと思うんだ。」
なんだか言いたいことと違う気がした。言葉にできないもやのようなものがある。言葉にしようとすると、自分の言いたいことから遠ざかっている気がした。
美和は僕の言葉を正面で受け止める。
「でもさ、人の道外れたんだから、しかるべき報いを受けるのは当然じゃない?」
至極当然だ。それもずいぶん考えた。
「そりゃそうだけど。でも、人って変われると思うんだ。力、じゃなくて、誰かが手を差し伸べるだけで。その誰かに、僕はなりたい。」
やっぱり違う。僕が悩んでいるのは、そういう立派な事じゃなくて、もっと自分に関わるわがままなことだ。それがなにか、はっきりと見えてこない。
美和は、唇をすぼめて難しい表情を浮かべている。夕日がじりじりと沈んでいく。おもむろに、口を開いた。
「あんた、それ、甘えだわ。」
一刀両断。さすがに美和もそこまで、僕に甘くない。厳しい意見だけど、ごまかさず言ってくれて、僕は安心した。美和は続ける。
「って、私も他の人も言うと思う。」
「えっ?」
「いや、私も甘えって言いたいんだけど、なんかあんた、そういうところで悩んでる気がしなくてね。もっとこう、別のところで悩んでるんだけど、口にしてどんどん遠ざかっちゃってるみたいなさ。だから、ばっさり切る必要もないかなって思った。」
「でも、甘えってのは言われてもしょうがないと思う。」
「それは君もよく考えたんだろうね、きっと。それ踏まえて一応言葉通りに受け取ってみるけど、やっぱり傲慢だよ。そのスーパーパワーとやらに驕ってると思う。でも、正義は力じゃないってところは、なんだろう、ヒーロー抜きにして、私はものすごく君らしいと思ったかな。」
君らしい。その言葉が、僕を突き抜けた。夕日が空全体をオレンジに照らしたように心が明るく照らされた。一瞬だけ、姿を現さないもやに手が届いたような気がした。その一端に手が触れた。
夕日と同じくらいの輝きの笑顔を浮かべる美和。しかしその表情は一転険しいものになった。
「……でも、ちょっと心配だな。」
「なにが?」
「やっぱり世の中、そんなきれいに回ってないからさ。その甘さがいつか報いを受けるんじゃないかって。」
「うーん……」
その可能性は十分にある。そして、その報いを受ける覚悟もしているつもりだ。でも、美和の不安な表情を見ていると、その覚悟が揺らいだ。「大丈夫だよ」って、美和を安心させられなかった。
代わりに、美和が優しく微笑んだ。肌触りのよい毛布が僕を包んでくれているかのようだった。
「そんな日が来ない事を祈ろうよ。ヒーローだもん、上手くやれるよ、きっと。」
「そう、だね。そうだよ。美和も隣にいるんだもん、僕は、やるよ。」
美和は上手いこと僕を励ましてくれた。美和がいてくれて、本当によかったと思った。
つまり、僕は、物事の美しい側面しか見ようとしていなかった。覚悟は、している「つもり」で、言葉通りだった。報いを受けたのは、その数日後の事だった。
僕は持ち前のスーパーパワーをフル活用している。大事な人は確実に守っていく、というスタンスだ。普段から大事な人に対してはアンテナを張っている。親と兄弟と、美和と。彼らに危険が近づくと、自然と僕に分かる仕組みだ。そして、その危険信号は空がだんだん暗くなってきた夕方に、突然やってきた。
やってきた方面は、美和からだった。一瞬で緊張状態になる。僕は、すぐに飛んだ。飛んだ先は、とある公園だった。その隅、全く人目のないトイレの死角で、美和は荒い息の男に組み伏せられていた。制服がはだけられている。強姦される直前だった。
美和の涙。乱暴に抑えられている手。もがき続ける両足。びくともしない男の体と、欲望にまみれた男の目。放っておけば、どのようなことになってしまうのか想像するのが容易すぎた。
驚きも束の間。体中の液体が沸き立った。湧き起こる怒りのあまり、体からすーっと熱が逃げていった。目を開きながら、体は、ひんやりと冷えていった。僕の目指すものは、ただ一つだけだった。
殺してやる。
思いっきり男に飛びかかり、ぶん殴る。それだけで、男はブランコの方まで吹っ飛んでいく。何が起こったか分かってない様子の男の体に間髪入れず拳をたたき込む。その一発で、男は醜く気を失った。死んではいなかった。二発で男が沈んでしまったことが、物足りなくて、怒りを持て余していた。殺してはいけない、と自制をかけてしまった事が悔しくて、ひどく情けなかった。
ふと我に返る。そんなことより、美和だ。僕は、一息で駆け寄る。美和は涙を浮かべたまま呆然としていた。その様子がいたたまれず、僕は思わず彼女を抱きしめた。細かく震えている彼女を感じて、もう一発男を殴りたくなった。
「美和。大丈夫。もう大丈夫だから。」
「うん……うん……」
すすり泣く声がする。安心するように出した声も届いてないかのようだった。やがてすすり泣く声が、大きくなっていく。美和が手を腰に回してきて、ぎゅうっと抱きしめてきた。何をされようとしていたのか、その認識がようやく追いついたようだった。
「こわかったよぉ……!君が助けてくれると思ってたけど、耐えられなかった……!」
美和がむせび泣く。僕も抱きしめる手に力をこめた。
「いいんだよ、美和が耐える必要なんてこれっぽちもないんだよ。あるのは、あいつが死んでもいいっていう価値だけだよ。」
何でもいい。彼女が安心できる言葉を。そう思ったが、脳裏に浮かんでくるのは、男に対する怒りや憎しみの言葉だけだった。それを美和にぶつけても意味がないのは分かっていたので何も言うことができない。何も言ってやれない自分が本当に情けなかった。それでも何も言えないのが嫌で、「大丈夫、大丈夫」と言い続けた。発した言葉が薄い夜空にさまよっていた。
抱き合ってしばらくしていると、美和も落ち着いてきた。
その後僕らは、警察を呼び事後処理に追われた。事情聴取にその他の手続きを済ましていると、だいぶ夜も深まっていた。当然美和の親にも連絡が行き、美和は親に連れられ帰って行った。美和の親には散々礼を言われ、美和も僕の袖をつまんで、ありがとうと言ってくれた。それで、僕のやったこと自体は間違ってなかったと思えた。ただ、気分は重たかった。帰路に立った僕は目に暗い光を灯していた。
帰宅し、陰鬱とした気分で雑事を済ませ、すぐに寝床に入った。ベッドに重さが伝わり、体がマットに沈み込む。そのまま深く飲み込まれていくようだった。
完璧なヒーローがいた。困っている人間がいたら、必ず手を差し伸べる。強盗や殺人なんかの悪は絶対許さない。自分の正義を貫き通す。身を挺して、巨悪に立ち向かう。自分よりも他人の幸せを一番に希求する。
そんなことを繰り返していたら、徐々にヒーローに惹かれる人々が増えていった。やがてヒーローは町を歩けば皆に羨望の眼差しを向けられることになった。ヒーローは町の誰からも愛される存在になったことにこの上ない喜びを覚えた。そうして、ヒーローはますます人々の役に立とうとした。どの犯罪者もヒーローのスーパーパワーにかかれば容易に捕まえられる。刑務所に放り込まれる人数はうなぎ登りになっていった。
しかし、あるときからヒーローは犯人を捕まえられなくなってしまう。完璧だったヒーローは気づいてしまったのだ。
気づくことができたのは、ヒーローの過ごす日常があまりにもヒーローである時とかけ離れていたからだった。
スーパーパワーを持つ以外は他の誰とも異ならない普通の少年がいた。異ならない、というのは少し語弊がある。少年はひどく臆病だった。人に話しかけようと思っても、嫌われたり、自分の不用意な一言で怒らせ、怒鳴られたりするのを極度に怖がっていた。だから、少年は無口だった。人と関わることを避けていた少年は、いつも、一人だった。
いつも一人でいる自分にすっかり慣れた少年。あるとき一人の少女に、声をかけられた。少年にとって、それは数年に一度の出来事だった。少年は、一瞬心躍り、そして再び、殻にこもろうとした。しかし、少女は少年に殻にこもらせる隙を与えなかった。少年は半ば無理矢理に少女に心を開いていった。
彼女と話す時間は何事にも代えがたい至福の時間だった。発する言葉に気を遣わないでいいということが、自分がいかに肩肘張っていたのかを思い知らせた。そして、少年は少女とたくさんの話をした。
クラスメイトなんかと会話しないことは相変わらずの日常だったが、そこに少女との会話が組み込まれた。単調な少年の生活で、それは、劇的な変化なはずだった。
満足は、やがて不満を生み出した。少年は前よりも、孤独を感じるようになったのだ。少女と話をするたび、彼女以外は声をかけてくれないその現実を強く感じるようになってしまった。それでも、その不満が少女に向く事はなかった。
少年は、少女の事が、好きになっていたのだ。
少年の不満の矛先は、自分に向いていった。正確に言えば、ヒーローである自分に、である。
ヒーローは気づいてしまったのだ。ただの少年である自分の日常と、ヒーローである自分の日常とのずれに。完璧だったヒーローを弱らせたのは、他でもない自分だった。
―本当の自分に、どれほどの価値があるのだろうか。
それが、少年の悩みの正体だった。
ヒーローは、捕らえた犯人をすぐに警察に突き出さなくなった。かわりに、改心を促す説諭を行うようになったのだ。ヒーローの力を頼らず、本当の自分の価値を証明する、少年の考えついた方法が、犯人への説諭だ。その方法をとって以来、ヒーローは、悪事を成敗することができなくなっていた。
なかなか証明できない自分の価値。増えていく犯罪にふくれあがる、良心の呵責。それでも諦めきれない少年。うだうだと悩んでいる折に、少女が、襲われた。
スーパーパワーにすべてを任せた感覚が今でもはっきり残っている。消灯した部屋の中でも、しっかりと感じる。
大切なものは失ってから初めて気づく。僕は、あのとき怒りに我を忘れて、犯人を殴り飛ばした。説諭なんて甘い措置が入り込む余地などみじんにもなかった。
『その甘えがいつか報いを受けるんじゃないかって。』
美和の声が思い出された。実際に、その甘えが、報いを受けた。
結局自分でさえも、本能で頼るのは、ヒーローである自分なのだ。そのことが、僕をひたすらに打ちのめした。
僕には、何の価値もない。
暗い闇が、僕を飲み込んでいった。
それから、何週間か、美和とも会話を避けるようになった。美和へのアンテナを過敏にして、近づいてきたら素早く察知して、逃げるようにした。僕は、一人でずっと悩み続けていた。前の生活に戻った。
いくら考えても、ろくな答えは出なかった。どうしようもなかった。
町全体を紅蓮に照らす夕暮れ。
僕は、その日、グラウンドの運動部の声をバックに屋上でぼんやりとしていた。
突然、ぴーんと、アンテナをキャッチした。美和が近づいている。逃げようとした。しかし、逃げ場がない。飛んでいこうにも四方どこかしこで、運動部が部活を行っている。ヒーローであることは、美和にしかばれていない。今飛んでいけば確実に誰かが自分の姿を目撃するだろう。僕は、フェンス辺りをうろうろしながら、そして、諦めた。
屋上のドアが開く。そこから出てきた美和が一瞬、僕と目を合わせ、すぐに目線を外して近づいてくる。無言で、手に持っていた缶ジュースを僕に投げつけた。そして、ぽかんと立つ僕の横に、仏のように腰を据えて、座った。終始美和の様子をうかがいながら、僕も横に座った。
「あの……その後、大丈夫?」
何も言わない美和に僕は恐る恐る尋ねた。横顔を覗くだけで、彼女が怒っているのがよく分かる。しかし、美和はやはり何も言わない。沈黙がおりた。長い長い沈黙だった。運動部のけたたましい叫び声が、屋上までのびていった。
「……どうして、私を避けたのよ。」
やがて、美和が言葉を発した。僕を責めるでもなく、ただ悲しがっている、そんな声色だった。美和を避けるだけで、彼女がこれほど傷ついているとは思っていなかった。自分の中で、既に結論は出ていた。自分にはこれっぽちも価値はない。結論が出ていたからこそ、美和の悲しんでいる様子は殊更に僕を混乱させた。
僕が美和を避け、その事で、美和が悲しんでいるのだとするなら。
それは、僕の事が必要だということで、なんで美和がそこまで僕を必要とするかが分からなかった。価値のない僕などいなくてもいいじゃないか。
「……ごめん。」
よく分からなくて、僕はそれだけ言った。腑に落ちない表情の僕を、美和は、じっと見つめた。美和は悲しげな表情を浮かべていたけど、その悲しみの底に、優しさが沈殿していたのが分かった。
「ごめん……謝らせたい訳じゃなかった。本当はただ、あのときのお礼が言いたかっただけなの。君のおかげで、それほど深い傷になってないから。本当に感謝してるの。でも、君に会おうとしたら、君が露骨に避けようとするから、私、急に悲しくなっちゃって。気持ち散らかしたまま、ここに会いに来たの。ねぇ、どうして私を避けたの?」
静かに美和は言った。涙を流すまいとこらえている黒い瞳が、夕日に美しく照らされていた。美和は答えを待っている。僕の番だ。僕も、応えなければいけない。応えなければ、僕は美和を失うことになるだろう。それは容易に想像できた。
失いたくない。
僕の心の芯が強く響いた。
「……僕には何の価値もないと思ったんだ。」
何から話そうと思って出た言葉がそれだった。一番、僕を打ちのめした事実だ。
「……あの日の事、少し触れてもいい?」
美和が襲われた日のことだ。僕が全てを悟った日でもある。しかし無神経に触れることはしたくなかった。一番傷ついたのは、美和だ。僕ごとき、傷つく価値もない。美和は無言でうなずいた。
「あのとき、僕は美和を助けに行った。それはもう、全速力で、だ。そして実際の光景を見て、男の姿を見て、僕は、殺してやる、って思ったんだ。そこには、普段言っている、犯人を改心させる、とかいう甘いことを考える余裕はみじんもなかった。ただ、美和を力に任せて我が物にしようとしている男を、殺してやろうと思っただけだった。それで、スーパーパワーに頼った。後から気づいたんだけどね。結局、僕自身でも、最後に頼るのはヒーローの方なんだ。それに気づいたらさ、ヒーローじゃない僕の価値なんてどこにもないなって分かった。そしたら、美和にも合わせる顔がなくなっちゃったんだ。」
考えて、全て言った。吐いた言葉全てが、弱さだと思った。いつの間にか、美和はいつもの、僕と会話をする表情になっていた。猫が目を細めてくつろいでいるような表情。でも、その目は真剣そのものだった。やはり僕の言葉を、真正面から受け止めているのだった。噛みしめるように、彼女は口を開いた。
「正義は、力だ。」
それは、力強い言葉で、僕には重すぎる現実だった。美和の口から聞くと、その重みは何倍にも増した。やっぱりそうだ。どうせ正義なんてものは、力なんだ。僕が同意を示そうとすると美和はそれを遮った。
「でもさ、そこに至るまでの意思は、力じゃないんじゃない?」
意思。死角から攻め込まれた気分になった。
「君が私を助けようとした、その意思。私を助けるために使ったのは、スーパーパワーだったけど、その力を出したのは、他でもない君自身の意思。それはきっと、ヒーローじゃない方の君。組み伏せられた私を見て、迷わず助けに入った君自身のその強い意思を、私は尊いと思うし、何より、愛しいと思う。」
美和の言葉に籠められた思い。真っ直ぐなその思いは、いつかみたいに僕の心をぶち抜いていった。僕の身の丈にはありあまるほど、大きな言葉だった。
「だからさ、自分に価値がないなんて言わないで。必ず、見てるから。抱え込まなくてもいいもの、全部大切に抱え込んで、勝手に不器用に生きてるあんたのことを、私、見てるから。」
氷が春の陽光で溶けていくような感覚。急に肩の力が、抜けていった。力が抜けたら、不意に涙が出てきた。
「……ありがとう、美和。」
湧き水のようにあふれ出る涙をぬぐうことなく僕は言った。美和という存在が僕の隣にいてくれただけでも、僕は全ての人間を愛せると思った。
「君の悩みの正体は、それだったんだね。」
美和は柔らかく笑った。真っ直ぐ歩けると思った。涙を拭って僕も、美和に笑いかけた。
その時だ。
突然、人知を超えた、建物を破壊するときに用いる鉄球の十倍はあろうかという巨大な火の玉が、学校に向かってきた。それに気づいた僕は素早く火の玉と学校の間に飛んだ。思いっきり、右手の拳で受け止める。火の玉は、消え失せた。火の玉の熱の痛みをなんとかやり過ごす。ヒーローだけあって、苦痛に対する耐久は並の人の比ではない。
しかし、今の火の玉は何だ?
辺りを見渡した時、雄々しい獣の咆哮が街を覆った。その方向を見て、僕はその姿を捉えた。
ビルがミニチュアの模型に見える程の巨大な四肢。その体表は、こけのような色で覆われている。その出で立ちは獣のようで、顔は龍そのものだった。常に肩の位置まであげている腕の先には鋭い爪が生えていた。まるで絵に描いたようなその怪獣は、積み木のように壊れていく建物などお構いなしに、その歩みを進めている。辺りからは、煙がもうもうと立ち上り、よく耳を澄ましてみると、甲高い悲鳴や泣き叫ぶ声、サイレンの音が聞こえていた。
「何がっ、あったのっ!」
美和が上空で漂う僕に大声を張り上げる。いまだかつて、経験したことのない緊急事態に僕は、言葉を失っていた。
「か、怪獣が……」
「えっ!何っ!聞こえないよっ!」
「怪獣が出たんだ!」
しつこく聞く美和に負けじと大声を張り上げ返すと、自然に背筋が伸びた。
これは、僕がやらなければならない。
自然にそう思えた。幸いにして、美和のくれた言葉は僕の中で、怪獣以上にその存在を放っていた。
僕なら、できる。
美和の認めてくれた僕ならやれる。
ここまで自信が持てたのも初めてだった。決意するのも、時間はいらなかった。
「ちょっと、世界救ってくる!」
「えっ?!」
言うが早いが、僕は混乱の渦へ、飛び込んでいった。
サイレンと、煙と、燃え上がる炎と、騒ぎわめく人々の群れ。その中心に、大きな大きな怪獣がいた。
僕はその怪獣の真正面に対峙した。怪獣と目が合った。僕の体以上に巨大な目だった。
互いににらみ合う。
次の瞬間、怪獣は地を揺るがす咆哮と共に再び火の玉を放ってきた。火の玉の向こう。巨大な牙が覗いている。僕は左手で、火の玉を受け止める。左手に走る、熱さと痛み。力の抜けるような痛みに戦意喪失しそうになる。が、そんな余裕はなかった。間髪入れずに怪獣が火の玉を放とうとしているのが見えたからだ。
そもそも、ここでドンパチやったら、街が壊れる!
僕の判断は迅速だった。怪獣に突っ込む。その体に触れ、次の瞬間、一緒に消えた。
広い、山中に開けた原っぱ。人は誰もいない。そこに降り立ったと同時に、怪獣は火の玉を大空へ放った。
急に変わった景色に、怪獣も戸惑いを隠せないようだった。テレポート。ひったくり犯を捕まえたときと原理は同じだ。違いは一緒に飛ぶ相手が大きいか小さいか。僕は怪獣の混乱ぶりに少し気持ちが落ち着いた。
気持ちが落ち着くと同時に怒りがこみ上げてきた。ぼろぼろの街。人々の奇声。きっと、死人やけが人はたくさんいるだろう。この怪獣は多くの人々を傷つけた。湧いた怒りに、僕は、以前にも似たような怒りを覚えたことを思い出した。大切な人を傷つけられた、怒り。
今度の僕は、その怒りに支配されなかった。美和が僕の意思を、価値を尊重してくれたから。
今こそ、自分の筋を通すべきなんじゃないのか。
その時、平静を取り戻した怪獣が、火の玉をこちらに放ってきた。僕は、それを避ける。フィールドが広いので、わざわざ受け止める必要もない。大体、両手が既に悲鳴を上げていた。火の玉の行く末に目をとられていると、怪獣はその鋭い爪を振り下ろしてきた。台風並みの風圧と、鋭い爪の打撃(巨大すぎてもはや打撃である)をもろに食らった。
僕は、地面に叩きつけられた。痛い。起き上がろうとする僕を、怪獣は見ていた。僕に大きな影が覆い被さる。一気に辺りが暗くなって、怪獣の巨大な足に踏みつぶされようとしてるのだと分かった。僕は、素早く怪獣の足下から這い出る。
そして、怪獣の眼前まで行くと、野球のグラウンドほどもあろうかという、その頬に思いっきり右拳を叩きつけた。
吹っ飛ぶ、怪獣。舞う土ぼこり。原っぱに刻まれる怪獣の跡。そこで、互いに間合いがとれた。力は、五分五分といったところか。
息が上がっていた。自分の筋を通す、すなわち怪獣の心を改心させる暇なんてどこにもないことに気づいた。
今の一連の怪獣の攻撃で分かった事がある。怪獣も、考えている。火の玉を陽動にした多段攻撃。鋭い爪で、僕を地面に叩きつけた後、流れるように足を振り下ろしてきた。そこに感じた戦略。戦っている、という印象を受けた。
体の芯を壊すような地響きと共に、怪獣は立ち上がった。来るのか。このままでは、戦うことしかできない。しかし、僕には打開策が少しも思い浮かばなかった。
向かってくる!そう思った瞬間だった。
「お前は、何のために、私と戦っている?」
怪獣の発した声だった。低くくぐもった声。老成していて、呼びかける者を逃さない威厳があった。
僕は、怪獣が話せたことに驚いたが、やっぱりという思いもあった。戦略で戦えるほどの知性なら、もしかしたら対話が可能ではないかと考えていたのだ。
しかし、やはり僕は戸惑いを隠せない。なにせ怪獣と話すのは初めてだし、それに質問の意図が見えない。怪獣と戦う理由?そんなこと決まっている。
「そ、それは、僕の正義のためです。みんなを守るためにあなたと、た、戦っている。」
僕は、できるだけ毅然と振る舞った。怪獣相手でも、なめられてはいけないと思ったからだ。空回りしていることには、気づいていなかった。
怪獣が、口の端をつり上げた気がした。僕は、思わず聞いていた。
「で、では、あなたは、どうして、僕と戦っているのですか?」
うわぁおう。風が吹きすさんだ。大きな口を開けて、怪獣が笑っていた。
「それは、私の正義の為だ。皆を守る為にお前と戦っている。」
腹の底からぶわっと怒りが湧いた。正義?街を破壊して、罪のない人々を傷つけた。その行為が、正義?自分とは明らかに違う「正義」という言葉の使われ方に嫌悪感を覚えた。お前と一緒にするな。
険しい表情になったのが伝わったのだろうか。怪獣は鋭く、そして厳しくこちらを見据えた。その目には、僕と同じ怒りが燃えていた。お門違いなその怒りに僕は、黙っていられなかった。
「あんたのしたことの、どこが一体正義なんだ……!」
僕の怒りに怪獣はしばらく考える素振りを見せた。真っ赤な怒りの表情のまま。たっぷり考えて、そして答えた。
「お前達人間は、やはり、いつも自分のことしか考えていないのだな。」
「どういうこと、だ?」
「私の守る『皆』がお前達人間だとでも思っているのか?私の正義がお前と違っているとでも言うのか?馬鹿にするな。やっていることはお前と同じだ。私は、私の仲間を守りたいだけだ。お前も、お前の仲間を守りたいだけだろう?」
怪獣は、怪獣の仲間を守りたい。僕も、僕の仲間を守りたい。怪獣の言っていることが本当であるとするならば、確かに僕とやっていることは、同じだ。しかし、同じ、ということを僕は受け入れられなかった。だから、何も言えなかった。
「答えろ!」
黙っている僕にしびれを切らし、ぶをおっと、怪獣が吠える。激しい風圧が僕を襲った。考えがまとまっていなかったが、怪獣の圧に負けて、僕は話し始める。
「……た、確かに、仲間を守るためだったというのなら、同じだと言えます。しかし、あなたの行為はあまりにも一方的だ。突然現れて、突然街を破壊した。あなたも、話す能力があるのなら、まずは人間と対話することから始めるべきだった。いきなり襲ってきたあなたに、正義があったとはとても思えない。」
「まず対話?ふざけるな。人間様の規則がこちらにも適用されるとでも?お前達人間が何をしたか分かっていないから、お前はそう言えるんだ。無知の子供よ。」
無知の子供と、揶揄されたが、僕は意に介さなかった。怪獣が正義たる由縁を知りたかったのだ。僕はもう、ためらわなかった。
「じゃああなたが、人間に牙をむくのはどうしてですか。どうして、僕らを攻撃することが、あなたの仲間を守ることにつながるのでしょうか。」
「ふん。無知のくせに、真っ直ぐな目をしている。人間は皆、汚れ、死んだような目をしているが、お前は違うようだな。迷いながらも、自分を貫き通そうとしている。」
「質問に答えてください!」
僕は、叫んだ。怪獣はやれやれという風に肩をすくめた。
「お前達の記憶に残らないほど遠い昔、陸は、私達の場所だった。お前達人間は、後からやってきた、悪い言い方をすれば、侵入者だった。私達の祖先は、人間が陸に住むことを許容した。しばらくは、私達と人間は、共存できた。束の間の享楽だ。いつの間にか、人間の数は、私達の数よりも遙かに多くなっていた。お前達の優れた繁殖能力の賜だ。陸は、加速度的に狭くなっていった。狭くなっていく土地。あるとき、お前達人間は、私達に持ちかけた。『海へおりてくれませんか』と。私はこれを親から伝承されたとき、何て人間は無礼なのだと思った。元々私達が住んでいた陸を分け与えただけでも大恩なのに、お前達は、私達に立ち去れと言ってきた。あまりにも傍若無人だ。私は憤った。しかし、私達の祖先は違った。寛容にも、祖先は人間の要求をのんだのだ。力あるものが、力ない弱者に手を差し伸べる。私達の中では、それが共通の守るべきルールだったからだ。しかし、祖先は海へおりる前に一つ人間と約束を交わした。それは、『海を犯さないこと』。新たな土地を奪われないように、後世に生きる私達の為に祖先はそう人間と契った。人間は、その約束を破らないことを誓った。私達の祖先はそうして海へと、住む場所を移した。そこで、長い間平穏に暮らしていた。しばらく人間は約束を守っていたようだった。平和がいつまでも続くはずだった。少し前の事だ。人間は、海に手を加えだした。巨大な建築物を海に浮かべ、鉄の塊が海上を往来する。海の静けさは、途端に失われた。あるときには、海に元来あったものとは別の黒い油が流れ込んできて、多くの仲間がそれで死んだ。あるときには、丸い鉄に包まれた火薬が、海の中で炸裂してまた多くの仲間が死んだ。私達は悟った。人間は、約束を破ったのだと。私達の平穏は奪われた。他でもないお前達人間によって。お前らは大恩を忘れるどころか、約束までも破り、私達を脅かしている。そこからの決断は早かった。人間を殲滅するしかない。殺すしかないではないか。このままでは私達が死んでしまう。力あるものが、力ない弱者に手を差し伸べる。人間にそういうルールは無かったようだ。私達弱者に手は差し伸べない。私は仲間を守る為に、お前達を攻撃した。仲間を守る、それはお前達にとっても、正義なはずだ。これが、私の攻撃する理由だ。お前のように人間らしくない力を持つような者は見たことが無かったがな。」
急に規模の大きい話になり、正義とか力とか自分の筋とか言う以前に、僕の頭は混乱していた。
つまり、怪獣の攻撃する訳は、正当防衛って事だよな……。
僕らが怪獣の住む場所を奪い、さらには移り住んだ場所までも侵し始めたから、怪獣は街を破壊し、人間を殲滅しようとした。怪獣は、仲間を守る為に戦っている。そして僕も、皆を守る為に戦っている。
正義のぶつかり合い。そんな言葉が浮かんだ。怪獣の話を聞けば、人間が悪いような気がしてくる。しかし、対話もせず突然街を破壊した行為はやはり正しかったとは言えない。対話、という手段は人間にだけ通用するものだと怪獣は言っていたが。
だから分からないけど、分からないなりに僕は考えて、それを怪獣に伝えた。
「僕はあなたの振りかざす正義が、完全な悪だとは思えない。しかし、あなたのやり方はあまりにも唐突過ぎた。その点は悪だと思います。一方で、僕の行いも全てが善であるとは言えない。あなた方の存在を忘れていたとはいえ、あなた方の住む海を壊していくのを看過していた一員であるからです。一色の正義など、どこにもない。正義の色は、多様です。そして、あなたにも、僕にも、みんなを守るという確固たる正義がある。……どうか、折り合ってくれませんか。」
力ではなく、改心。そこに至るまでの意思。
結果的に自分の筋を通そうとする提案をしたことに僕は驚いた。自分でも予期していなかった。案の定、怪獣は鼻で笑った。原っぱが凪ぐ。
「私達が退くだとっ!?馬鹿馬鹿しいな。力は持つが、知恵は伴っていないようだな、無知の少年。私達が退けば、それこそお前らの思うつぼだ。私達が大人しくなったのをいいことに、今度こそ私達の海を奪いかねないということが、分からないのか?お前と私は己の正義の為に戦うしか無いのだ。さっさと決着をつけよう!」
そう言うと、轟音に等しい雄叫びと共に怪獣は鋭い爪を振り上げて、こちらへ全力疾走してきた。このままでは正面衝突という事態なのに、僕は怪獣の背後に目を向けていた。
どこからかぎつけたのか、猛スピードで向かってくる戦闘機が二機。そのおなかには大事そうにミサイルを抱えている。怪獣は自らの発する地響きで、戦闘機に気づいていない。そして戦闘機が、ミサイルを放った。
折り合う。閃いたのは、一瞬だった。
僕は猪突猛進する怪獣をかわし、飛来するミサイルを両方とも自分の体で受け止めた。炸裂する爆弾。取り囲む爆風。熱。痛み。怪獣の火の玉より程度が低いのが、幸いした。だからまだ、動ける。僕はずたずたの体で、戦闘機二機を破壊した。操縦士は……無事だ。墜落する寸前、脱出したのが見えた。
全身に激痛が走り、僕は急速に飛ぶ力を失っていった。そして、原っぱへと力なく落ちていった。草原は、クッションとなって僕を受け止めた。
仰向けに倒れた僕の視界に、こちらを凝視する怪獣が入ってきた。巨大な目が、さらに大きく見開かれていた。怪獣は、僕の行為に驚いていた。
「今、お前はまさか、私を……守ったのか……?」
僕は、力なくうなずく。僕は、怪獣に、僕の折り合う姿勢を見せたかった。怪獣は賢いと思った。僕たち人間を良く知っていると思った。主に狡猾で貪欲な部分を。だから、僕の言いたいこと、やりたいことを、怪獣に分からせるには、実際に行動するしかないと思った。ちょっと、犠牲は多かったけど。怪獣を動揺させられたから、ひとまずは企み成功だ。ちょっと本当に、犠牲は、多かったけど。
「お前にとって、私は、お前の右腕を失うほどまでに、価値のある存在だったのか?」
怪獣は、深く深く動揺していた。僕の行動が理解できないようだった。痛みの中、僕は怪獣の言うことに反論した。
「あ、あなたに僕の右腕をかけたわけじゃな、い。あくまでも、ぼ、僕には僕の通す筋がある、んです。僕は、み、んなを守る。で、きれば、あなた方も、その『みんな』の中に、は、入ってほ、しいんです……」
怪獣は、僕を見つめた。何かを確かめているかのように。僕も、目をそらさなかった。怪獣の空色の大きな瞳が、空よりも澄んでいて、綺麗だなって思った。右腕を失って良かったなって思った。やがて、怪獣は静かにつぶやいた。
「正義を折り合う、か……」
その声は、怪獣が自分に言い聞かせているものだとも受け取れたし、僕に言っているとも受け取れた。
一陣、涼風が原っぱを駆け抜けた。
夕暮れ。太陽が、街をみかんのように照らしその存在感を放っている。張りのある運動部の大きな声に心地よく耳を傾けながら、僕は屋上、フェンスの外で、足を投げ出していた。ぼんやり、街を眺めていた。いつものように悩んでいた。
街の中心、少し目をこらしてみると、大きな穴が開いているのが、よく分かる。怪獣の残した爪痕だ。人類への警告とも言える。
怪獣は、僕と戦った後、人間と対話するという道を選んだ。どうして対話するに至ったかはよく分からないらしい。無知の少年がどうたらこうたら……と、ワイドショーでは言っていた。その言葉の意味を細かく分析するのにテレビでは三十分もかけていた。テレビってのは本当に暇なんだなって、僕は内心呆れていた。
「今後不用意に海を荒らせば、陸全体をこの街のようにする」怪獣は、人間達にそう警告し、人間達はそれを受け入れた。ただ、人間も海を利用しなければ、生きていけない部分があったので、そこは怪獣達に譲歩してもらったという。
人間達と怪獣達は、こうして和解した。
そして、怪獣は海へと帰っていった。
僕の右腕はミサイルに吹っ飛ばされたまま戻ることはない。さすがのヒーローもそこまでの治癒能力は持ち合わせていない。
そういえば、今回の怪獣騒動では不幸中の幸いか、なんと死者は出ていないらしい。僕が右腕を失い、怪獣が海へ帰り、全ての日常が戻りつつあった。
しかし、僕の目の前に非日常が転がっている。悩んでいるのはその事だ。
『尊いと思うし、何より、愛しいと思う。』
美和の言葉が僕に突き刺さっていた。最初は僕を認めてくれたという事で、全く気づいていなかったが、途中で思ってしまった。あれは、美和からの告白だったんじゃないか、と。だって、「愛しい」って、そういうことだ。辞書でも調べた。恋しく慕わしいだった。僕は悩ましい、だった。
「見てるから。」とも言われた。勘ぐりすぎかな。とにかく、美和の真意が分からなくて僕は、悶々としていたのだった。これが、今の僕の非日常。
その時、カシャンとフェンスが鳴る音。見なくても分かる。美和だ。というか、なんだか恥ずかしくて美和を見ることができない。美和はそのまま僕の横に座った。
「危ないから、フェンス乗り越えてくるのはやめてほしいんだけど。」
平静をつとめる。内心、心臓が暴れている。近い。
「大丈夫だよ。右腕を人類に捧げたヒーロー君がいるから。」
「また、勝手に依存してる。」
「それに、フェンス越しじゃ、君と近くで話せないんだもん。」
僕は思わず二度見してしまった。太陽に照らされる、美和の横顔。美しくて、眩しい。絶対、守る。強く思った。たとえ、ヒーローであっても、ヒーローじゃなくても、美和を守り抜いてみせる。これが僕の、意思。
「美和、僕って、鈍感だったりする?」
「ヒーローも完全無欠ってわけじゃ無いよね、鈍感君。」
美和が微笑んだ。
やがて、手元でつながった二人の影が、太陽に照らされて、真っ直ぐ伸びていった。




