101.好きってなんだろうかと思うとすぐ執着という言葉が出てしまう
ここまで書いてわかっていることの1つ。
エッセイに僕が好きなことはほとんど書いてこなかった。
せいぜい数年前に狩野英孝氏の名前を事件の話題のときに書いたくらいか。そんな氏も今ではユーチューバーとして大物の存在である。そりゃあそうなるよねと。時代が追いついただけよねと。
それ以外には何か書いた覚えがない。BLACK SUNの感想は書いたか。
それもそのはずで、エッセイは基本的に僕がそのときの気分やなんとなく感じたものばかりを書いてきただけだからだ。何か書こうとか考え、文章を組み立ててから書きはじめているわけでもなく勢いだけで書いていた。初速が無かったり、勢いが衰えたりした箇所は自分で読み返してわかるだろう。
要は思いついたものを行き当たりばったりで書いていただけという話。だから深くもないし、まとまってもいないし、ふわっとしていて、書き続けることも難しく、どうにかして書いていた。
基本的には世の中の7割8割は自分の人生や価値観の芯にとってどうでもいいことで構成されている。生きる上で大事なことなんてそう多くないものだ。そして自分の手の届く範囲でどうにか出来ることなんてもっと少ない。
ネットでは「誰か・何かに意見を書き連ねる」というものがよくあるが、自身の力で及ばぬ物事によくそこまで感情や感想を持って書けるものだなと。ネットに意見を書くのがお仕事なのかもしれない。
僕は好きになったものにもこのスタンスであるので、好きなことについてあまり多くを書くことができない。好きだからなんなの? 気に入ったからってなんなの? といったところだろうか。いつかは自分が飽きるか死ぬか、対象が消えてしまうか、なんにせよ無にしかならない。
そんな価値基準であっても、やはり生きる上では何か「好きなもの、熱中できるもの」があるほうが人生というのは楽しく、前向きでいられるものではある。刹那的なもので辛い人生をうまくごまかしてやるのが良く生きるコツというか。生きるというのは残酷なもので、苦しくても辛くても、どれだけ惨めであっても、終わりがこなければ続いてしまうのだ。
それが僕にとっては数々の「創作」の消費だった。絵画にしろ、映画にしろ、ドラマにしろ、アニメにしろ、漫画にしろ、小説にしろ、ゲームにしろ、音楽にしろ、舞台にしろ、哲学にしろ、お笑いにしろ、料理にしろ、エッセイにしろ、僕にとって大事なのはジャンルという大雑把な括りではなく、それが僕を楽しませてくれるかどうかだった。
多くの人が本当はこうであろうと思う。読書が好きだからってどんな本でも好むわけでもあるまいし、音楽が好きだからってどんな音楽でも聞いているとは限らないし、音楽以外に好きなことがないわけない。なろうの異世界チートものなり悪役令嬢ものなりが好きな人だって、そのどれもが楽しんで読めるものだとは言わないだろう。当たりハズレというか、趣味嗜好に合うかどうかは別の話であるわけで。
生きるうえで本当に大事なのは、こうした「ちょっと明日が楽しみ」になる何かなんだと思う。それすらも失くしてしまうと、毎日が真っ暗になるだけ。いわゆる鬱状態。




