99.過去一まとまっていない努力と運の話
ここまでのどこかで書いたことだとは思うが、僕は努力というものにそこまで価値があるとは思っていない。努力を否定しているわけではない。努力をしたい人はすればいいし、したくないならしなければいいことだ。
以前も書いた通り、努力なんて言葉は自分で自分を認めたいときにだけ使えばいいことだと思っている。自分を擁護し慰めたいときには「自分は努力をしたのに」と言えばいい。自戒やコンプレックス、そういった思想を他人に押し付けなければ好きにすればいい。
というより「努力すれば誰しもが同等の結果を出せる」という発想、思考、価値観に共感ができないという面がある。努力絶対主義は理解できない。
この価値観は「誰でもいい」ということでもある。誰でもいいなら個人の存在に意味も価値もない。「個」として生きている意味や価値がない。数さえあれば補うことができる。
そもそも後天的に手に入れられないものだから人間は価値を見いだしているのでは? と。
おそらく大多数の人間はわかっているんだとは思う。多くの人が選ぶのは人工より自然だし、養殖より天然だし、整形より無工事だし、ステマより口コミだし。最近ではAI絵より人間の絵師もあるか。人工ダイヤは天然ダイヤに勝ることはない。人類史で言えば血統というどうしようもなく価値をおかれてきたものだってあるか。
そして「現実では人間の力でどうにもならないこと」だからこそ、フィクションではそうした理不尽を覆して心を慰めるものが多くなったわけで。
「自分は努力してきたから現状を得たのだ」と思っている人もいるのだろうが、同じだけの努力をした他者が居たとして、その他者がまったく違う結果になっていたらどう思うのだろうか。
昔の知人に現役T大生になった者がいたが、本人曰く勉強で努力なんてしていなかったと。塾にも行っていなかったのを知っている。自宅で授業の復習をして、教科書と参考書で予習の勉強をしていただけだったと。中学生の頃から毎日、家に帰ったら6時間勉強をしていただけだったと。
なろうのことでも書こう。僕は一応なろうを眺めはじめてから、書くようになってから12,3年になった。僕のなろう読者としての立場よりも長く創作活動に勤しむ方々もいらっしゃるのは存じている。そしてなろうで初めて書いたものが書籍化デビューになった方々がいることも解っている(本当に処女作であるなら)。
同じ努力をしてきて、どれだけの人間がT大理系現役合格を出来るか? なろうから作家デビューできるか? 同じだけの努力量で誰しもが同じだけの結果を得られていたら、人間はここまで多様性に富むことはなかっただろう。
まず、どれだけの人間が同じ努力をできる環境を得られるかは「運」なわけである。それにくわえて努力に耐えうるだけの作りの脳や遺伝子が得られるかどうかも「運」だ。悲しいかな人間というのはどこまでも「運」でしかない。どんな運があるか次第で人生のすべては変わってしまう。
この「運」というものを持っている人間こそが、生物として真に選ばれた人間ではないか? と僕は思っている。どれだけの才能があろうと、人望を集めていようと、社会的成功を得ようと、死というのは誰にでも等しくやってくる。その「死」を出来るだけ長く回避できるのが真の運ではないのかとかそんな風にも思っている。かつての人は「異能生存体」という本当に便利な単語を作ってくれたものだ。




