59.倫理観や良心ではなく共感で偏るほうが「引きこもり」よりも怖いことだと思う
川崎通り魔事件と元農水事務次官による事件という2つの出来事があった。事件をきっかけに「引きこもり」という言葉、そしてその者たちが取り沙汰されている。
多少時間が経過したおかげか、冷静さを持った人たちが事件の報道に違和感を持ち始めたのは良い傾向だと思う。
先に起きた川崎の事件は、被害が大きかった為に犯人への憎悪や怒りが強まってしまい、最初の段階では報道される犯人の像に疑問を持つ声は少なかっただろう。
初報を知った人々は「無職の引きこもりは危険な人物」というイメージだけを強烈に植え付けられ、それを絶対の真実かの如く信じこむようになった。
ところが徐々に出されてくる発表では、イメージされるような「引きこもり」どころか豪胆な性格を同僚に見せていたり、金に困っていた様子でも人生に詰まっていた感じでもなかったり、事件に見える疑問点(場所、被害者の選別、理由)だったり、そもそも本人なのかどうかも確認が難しかったって一体なんなん? というように謎が深まる人物像になってきている。フィクションならこれだけで1本作れてしまうもの。
つまり最初に報道されていた部分だけで語られてい犯人像は憶測に近いものだった。しかしイメージを固定化されてしまった関心の薄い人々は情報を更新することもなく、犯人を批難するつもりで「引きこもりは危険」と言い続けることになる。
影響を受けた元農水事務次官による事件も、同じような流れと言えるだろう。
被害者である息子は「引きこもり無職の廃ゲーマー」。加害者である父は「迷惑をかける前にやった」というような理由を述べたという(端折って書いてます)。
被害者は障害を持っており、それを原因とする後天的な病気も発症していたという(自己申告のようだが)。そして最初の家庭内暴力は30年前で、それ以降は別々に暮らし、家に戻ったのは事件の1週間前で、そこから家庭内暴力が起きて、事件に至ったと。
この事件は簡単に言えば引きこもりの問題ではなく、ありふれた家庭問題の延長であって、犯人である父親が最初の家庭内暴力の時点で息子と向き合っていれば起こさずにすんだかもしれない事件と言えるだろう。
それなのに、他者に迷惑をかけさせなかったのは偉いだの事件を未然に防いだのだから減刑だのとおかしな意見を見かけた。
家庭内暴力を起こした人物を施設での治療をするでもなく、けれど傍には置いておかず長期間独り暮らしさせていたという事を無視している。この長期間、父親(犯人)は社会的地位を得たり称賛を受けたりしていたわけだが、「家庭内暴力(他害行為)をとった息子」が住んでいた区域の近隣住民は何も迷惑を受けずに過ごせていたのだろうかと疑問が出てくる。今更社会への迷惑だのは言い訳じゃないの? と。
そうした考えを含めた上で父親の行動に称賛や同情を持てるのは自己中心的というか、規範より感情が優先されている状態なのではないかと、僕は思う。
◇
どちらの事件も「引きこもり」が問題の根幹というものではなく、片方はアウトローな印象を受ける人物像が起こした未だ意図が読めない事件であるし、もう片方は親子関係の拗れが原因(あるいは子育て問題)だったのがすぐにわかる。
僕ですらわかるようなことを識者やマスコミの人間がわからないはずがない。それでも「引きこもり」を前面に出して一括りに危険なものとするのは、やはり騒ぎ立てるのが商売だからだろうか。「引きこもりは危険」という「偏見」の価値観を持っている人々は、意図的な誤謬があると気がついていても乗じることが可能だ。
ここに欲望と欲望とでwin‐winの関係が成立しているが、偏見を受ける者たちやその余波についても考えてほしいと、少しだけほんのちょっとだけ願う。




