29.自分ではないときの自分の行動について言及されるのを考えたことがあるだろうか
東雲佑/右 さんの「脳味噌が物理的にぶっ壊れるとこうなるよエッセイ」
http://ncode.syosetu.com/n4897dq/
妄想と恐怖を書いている「躁鬱」の項目を読んで今回の話を書こうと。
自分(の脳)がダメージを負ったときに受ける「影響」について解り易く、端的に書かれている一例があります。
いまだに「メンタル」の問題を「心だけの問題」という認識に置いている人は存外に多いらしく、極端になると「精神病なんかない」というような知識的偏りのあることを話す人までいるし、「性格」が遺伝や経験の蓄積に依るだけのものだなんて旧時代の知識を持っている人もいる。
現在では脳の状態によって程度の差はあれど脳にダメージを受けていれば誰でもメンタルの問題と同様の症状や性格の矯正は引き起こされるものであると、大まかにそういったところまで研究されている。
「本来の性格」などと軽はずみなことは言えないのが現実だ。「自分」なんてあやふやで存在しないに等しい何者でもない。
頭をいじられたら「自分」など簡単に変わってしまう(「洗脳」「ロボトミー手術」がわかりやすい例だ)。信念やら思想やら善悪やら社会やら、それまでに得た「自分」を自分たらしめる「肉付け」が変質、あるいは無価値にもなるのだから、そんな外皮的なものに縋って生きていた人ほど違った人に見えていくのかもしれない。
自分の脳の状態を疑いもせず問題なく社会に溶け込み生活をしている人だっているだろう。
自覚症状のない認知症の老人みたいなものだ。こちらも脳の弱体化によって起こる病状であって、問題が起きるまですぐにそれとは気がつけない。
事故によって性格が変わった、なんて話も読んだことがあるだろう。フィアネス・ゲージが最も有名だろうか。
ネットで情報が探しやすくなった現代だと、頭部にダメージを負う事故によって性格に変化があったという人は珍しくないのだと結構わかる。まとめブログなんかでも扱うていどの日常感溢れる話題だ。
創作であれば、00年代以降の(極一部で)有名作品だと『沙耶の唄』がある。主人公が事故によってあらゆる認識を変えられてしまった話だ(大雑把)。(エロゲなので18歳未満の方が万が一ここを読んでいても知らないでいいです)
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僕は「自殺」という言葉が気に入らないので「自死」と書いている。島○県民だというわけではない。イメージがなんたら、などでもない。
「自分」は他人や社会の物ではなく「自分」のものだ。キリスト教的価値観の文化であると人間は神の所有物なので「自分から死ぬこと」は「神の所有物である自分を殺すこと」で「自殺」という見方になり、日本の文化歴史だと人間も土地も国家か天皇の所有物なのであって自由はなく、こちらも結局自分のものは自分のものではないという見方がある。
けれどせめて自分の命ぐらいは自分のものであってほしいと考えているので、僕は「自殺」という他者の責任を用いない「自死」としている。
ご了承ください。
健全な人には理解できないかもしれないがこの「自死」を選ぶ人には2種類ある。
実行するかどうか、ではない。
大雑把に書くと「死にたいなと考え死ぬ人」と「死ななければならないと考えこんで死ぬ人」だ。
はっきり書くと「自殺願望」と「希死念慮」。
「自死」への根底がどこにあるかを考えないで「自死」について一面だけ考えても、皮膜をなぞっているようなもので臓腑に至ることはない。だから「死ぬのは逃げ・甘え」なんて妄言がいつまでも存在する。
自殺願望が一般的にされる自死のイメージだろう。
「もう嫌だ、耐えられない、消えたい、辛い、苦しい、死にたい」
よほど恵まれた人生だったり、強烈な自己愛・自尊心を持っていたりしなければ、誰でも一度ぐらい考えたことがあるとは思う。
壁にぶつかって立ち止まり挫折してもまた立ち上がって、問題が解決されれば考え方も変わっていく。そうやって人間は成長していく面がある。ポジティブとネガティブの両方を知っている「正常」な状態だ。
勝ち組の人が正しくも浅いこと、大衆に反感持たれることを言うケースは、この経験が足りないがゆえに、親身に考えるときの想像力・現実の把握をする能力が低いのだろうと、誰しもが感じたことはあるだろう。
一方で希死念慮は理解されにくく、大衆の方々には考えられにくい。
「○○だから自分は死ななきゃいけない。死なないとダメな人間なんだ」
真面目な人とか優しい人とか共感性の高い人によく見られる傾向があるとは思うが、弱ったときには特になりやすいか。誰でもはならないだろうと、思う。
自殺願望と違って問題が解決しようが人生が上手くいっていようがそんな些末なことは関係なく、生きていくことへの気力、欲求を満たしたいという願望、生への執着、それら全てを上回る死への念慮を持つ。「念慮」という言葉が持つ意味についてはご自由に検索してください。
これはとある男の話だ。
彼は長年家族の介護を自宅でしていたが、その家族が寿命によって亡くなった。
常に家族を気にかけていた期間と違ってなんの心配もなく落ち着ける時間に、初めの内は彼も喜びを感じた。
しかし介護から解放されてから2年後、唐突に自分が生きていていいのか不安になりはじめた。
介護のために仕事を辞めて、それまでの友人知人との縁も断ち、遊びや趣味と言えるものもなく、ただ漠然と老いただけの自分と向き合う時間。
どんな仕事だって長期間のブランクがありスキルも体力も足りない中年を雇おうとはしない。
不要な自分の存在に気が滅入っていく。
その内、ネットや報道を見ていて社会的に利の無いもの、損であると判断されたものは罵られて排斥されるだけなのだと感じだした。
彼がそういった社会の全てに恐怖し始めるまでにさほど時間はかからなかった。
いつか自分も熱狂に潰されるのではないか。
いつか唐突に誰かが自分を社会的にも肉体的にも殺しにくるのではないか。
そうでもなければこんなにも弱者ばかりが晒し者にされているはずがないじゃないか。
きっとこれは、お前もこうなるんだぞという天からの通告に違いない。
やはり自分も追い詰められて、全部を奪われて駆逐されていくのだ。
恐い。自分が生きているの否定して自分を殺そうとしてくる社会が怖い、他人が怖い。
ぐるぐると取り止めのない妄想が渦巻き、いつしか昼夜逆転の生活が始まって外にも出られなくなった。
起きている間は只管恐怖に脅えた。
恐くならないようにテレビも消し、ネットも切断し、持っていた漫画やら小説やらを処分していった。
自分になにかがあっても手間がかからないようにとの彼なりの配慮だ。ねんどろいどの捨て方はわからなかった。
それが1カ月、2カ月と続いた。
ある冬の夜。
目が覚めた彼は「そうだ、自分なんか生きているからいけないんだ。死ななきゃ」と思うが早く、寝間着のグレーのスウェットに黒のコートという奇妙な恰好で外に飛び出した。
行き先は夜も交通量が多い国道、それに繋がる狭い路地。
彼はそこを行ったりきたりし始めた。
飛び出したりしたら運転手にも家族にも迷惑がかかる。それゆえに、自分を死なせてくれる事故が起きるのを願って歩き続けなければならなかった。
徘徊だ。
徘徊をしだして2時間ほどが経った頃。
彼は尿意で我に返る。
真冬の夜に寝間着のままうろついていれば寒くなって当然。
自分がどうしてここにいるのか、何をしようとしていたのかを冷静に考え出し、路上でいきなり中年のおっさんが泣きだした。
そんなことが一カ月の間に、2回。
起きた瞬間から「早く死ななきゃ」という言葉に自分が動かされていた。
「死にたい」よりももっと強固な「死なねば」という衝動。
家族に言えるわけもなく、かといって友人知人もおらず、刺激的な情報を避けるためネットもできず、職もないから医者にも行けず、誰にも相談できない孤立無援。
もう自分ではどうしようもない状況だ(と自分の妄想により思い込んでいた)。
けれど心配かけまいとしていた家族にやつれていく容姿でバレたようなバレていないような状況となり、徘徊して死に場所を探す行動は止められることとなった。
無駄なことを書いておくが、こうなった状態の人間に生の価値だの、生きる意味だの、死ぬのはよくないだのは、一切届かないどころか「自分のせいでそうさせている」という風に更に追い詰めてしまうケースもある。自分を責めることをしない人は理解できないかもしれない。
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環境/状況によって人間の脳の状態は簡単に変えられてしまう。現在希死念慮は脳の誤作動ともされているようだ。生物として本来求めるべき「生」ではなく、「死」へ欲求が向くよう狂ってしまっているのだから誤作動と言えもするのだろう。
今とはまったく違う自分に変質してしまったとき、それまでの自分が持っていた価値観、所属しているコミュニティに、いったいどれほどの意味が見出せるか事前に考えて備えている人とかいるのだろうか。




