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23.いじめについてまとまっていない羅列

 「いじめ」についてよく言われることだが「逃げる」という選択肢がある。

 「逃げろ」というのは少しばかり面倒なところもあり、誰しもが行えることではない。


 例えば学生であれば「学校なんか行かなくていい」と言えるかもしれないが、学校に行かない「代わり」がなければ、その子はただ不利益を被るだけとなる(「代わり」学校で得られたはずの勉強、運動、交友などを得る機会・場所。あるいは同等以上の体験)。

 現状では──そうした仕事で真摯に従事している方には失礼な書き方になってしまうかもしれないが──「代わり」となる存在セーフティが少ない、効果が薄い、力を入れていないのだろうと感じている。無いよりは好い、といったところだろうか。


 学生でない「社会人」になると別の面で難易度があがる。パワハラ、セクハラ、ブラック労働などで成る「職場いじめ」からすぐにでも逃げだしたいと思っても、「法律」や「社会的責任」というものが絡んでくるとスムーズにはいかない。

 契約やコンプライアンスはどうだったかを確認しないとならない。離職届けを出して逆に損失が出たと訴訟されたらどうしようか。職を失えば金銭的に逼迫するのは自分だ。再就職だって上手くいくとは限らない。突然前の仕事を辞めたことは絶対に訊ねられるだろう。家族にはなんて言おう、近所の人からどう見られるだろう、職を失って生きていていいのだろうか。心身ともに虐げられ追い詰められた人間に、それらの判断を正常にこなせると思うだろうか。独りでは無理だろう。

 逃げても逃げなくても、やられ損でしかない。それなら命に代えて・・・・・も耐え続けるほうが「社会的評価」のマイナスは抑えられるじゃないか。もうなにも考えたくない。考えられない。消えたい。とまぁ、大体こんな風になる。


 「逃げる」という行動に対しての「偏見」を持っている人間は多いように感じられる。

 「いじめ」を理由に「自死」を選んだ人間に「弱者」と言葉を吐く風潮などがまさにこれだ。「そんなので逃げるような奴はどうせ社会でやっていけない」というような侮蔑的な意見すらあがる。おそらくこうした意見を言う人は侮蔑的だとは考えていないのだろうと思うし、動物学的な淘汰の話を持ち出しているのかもしれない。


 「そこから逃げればよかったのに」という意見は一見正しいように思えるが、逃げられるような状態ならば逃げているのではないだろうか。

 精神的にも、物理的にも逃げ場がない人はどうすればいいのだろう。

 逃げた後のことを考えれば悲観せざる得ない状況/状態ばかりの世の中で、いったい生きたままどこに逃げればいいのだろうか。


 ◇


 「逃げる」行為に偏見を持っている人間は多いと書いた。

 この「偏見」は「いじめ」自体にも強固に持たれている節がある。


 目立つものでは、「偏差値が低い学校だから」というもの。これも1つの思い込み、偏見だと思う。

 賢しい子供はバレないように行うだけだと考えたほうがいい。頭が回るだけあって、被害者への対応などはその辺の大学生より上手いかもしれない。


 同じような「偏見」で、加害者に対しての認識が「低所得層の家の子だから」や「貧乏なDQNの家の子供だからだ」のような思い込みがよく見られる(これは偏見というより、もっと強固な「|いじめ(犯罪)を起こすような者は自分よりも貧しく学のない、攻撃しても見逃される者であるべきだ」というようなバイアスかもしれない:世界公正など)。

 私学などへ行かせるだけの経済的余裕がある家庭の子供であれば金銭目的の暴行などせず、単純に相手を精神的に追い詰めて楽しむだけだろう。そうなると表向きは「からかっているだけ」「いじられているだけ」などと観察されるに止まる。そして加害者側も「いじめ」だなんて微塵も思っていないだろう。被害者側だって「いじめられている」と認識できているかどうかは不明だ。


 「いじめられている奴にもいじめられる理由があるんだろう」という偏見もある。

 この理屈は「理由」さえあれば「いじめ」を容認するというのと同義だ。これは「いじめ」をしたい人達にとってはこれ以上なく都合が良い考え方なのだ。「態度が気に入らない」「性格が悪い」「空気が読めない」「オタクキモイ」「悪いことをした」など、本当であれ嘘であれ、そうした理由を探せばいいし、理由がなければ作ればいいのだから。


 被害に遭った人間も「自分にも悪いところがあったんだ、いじめはそのせいだったんだ」などと迂闊に答えを出さないほうが良い。その思考は歪まされたものの可能性だってある。

 これはよく言われていることだが、「いじめ」を受けていた人間は自罰的になりやすく、自己評価も低くなる。そのせいで、たいした欠点でなくても「自分も悪いんだ」と非を過大にして考えやすいという。

 虐げられて否定されていたので自信がなく、自分の弱さを受け入れることもできず、「理由があったから自分はいじめられた」のだと一種の「逃避」に陥る。しかしどんな理由があろうと肉体的・精神的な攻撃による「いじめ」は認められてなどない(私刑は許されていないのだから当たり前の話ではあるが)。推論が誤っていることにも気がつけなくなっているということだ。

 また、悪循環なことに、自信がなく自己の肯定もできない人間は、自分の弱さから目を背けるように「力強い存在・支配している存在」に魅力を感じるようになり、自分を虐げる存在すら「強い存在」だと誤認し、離れられなくなってしまうこともある。こうなると傍観者が「逃げればいい」などと軽々しく言える段階ではなく、緊急の救済措置が必要だと僕は考えている。


 *


 これを書いている最中に進学校での傷害事件が起きた。

 「いじめ」に対して「やり返せばいい」と普段息巻いている人たちはどう考えるのだろう。

 法律的には傷害事件が起きただけだ。被害者が加害者に、加害者が被害者に。問題は更に大きくなった。今後は他の生徒へのケアは必要となり、風評被害への懸念も起きてくる。

 被害者はいじめに遭ったうえに「犯罪者」として扱われる結末なのだが「やり返せばいい」と声高に言う人たちは、これで問題が解決していくと思うのかもしれない。


 「DQN学校だから~」なんていう「偏見」を持っている人が改めて認識すべきは、加害者側の資質、学力、家庭の事情によって「いじめ」の「やり方」や「表に出る数」が違うということだけだ。「お利口(clever)」とは「狡賢」でもあると、大人なら学んでいるだろう。

 お金のかかった嫌がらせ(彼らには「遊び)だ)などは報道で見られないから勝手なイメージが生まれるのではないかと思っている。


 ◇


 話は逸れる。


 「いじめ」の問題は、ドメスティック バイオレンスに似ていると考えたことがあるだろうか。


 念のため書いておくがDVは肉体的な暴力だけのことではない。精神的に責めることもDVにあたる。そして男女関係ない。これまでは女性被害者が圧倒的に多かっただけだ。これからの時代は男性被害者も増えていくと思われる(地域によって差はあるが男性の被害件数が全体の1割という場所もある。「デートDV」では若年層に限れば男性の被害が女性を上回るようなデータも取れるようだ)。

 ネットではよく見られるが「誰のおかげで食えてると思っている」「家の中だけで働くのは楽だろう」「夫or妻の稼ぎが少ないせいで」などは控えた方がいい発言だ。「働かざる者食うべからず」という言葉を歪曲させられて憶えさせられた日本人だと、なにがいけないのかすらわからない場合が多いかもしれないが(他人を非難するのに使うような言葉ではない)。




・「逃げればいい」と言われても、自分以外のことを考えると簡単に逃げられないこと


 DV被害に遭っている方だって、逃げられる状態ならば逃げている。しかし、逃げたとしてもDV行為を起こすような人物は高確率で追ってくる。よく事件になるのはこのパターンだ。

 自分だけが遠くに逃げようとしても、親兄妹や友人知人を狙うと脅しをかけるケースも多い。子供がいれば子供だって狙うだろう。(逃げた妻の実家や友人知人を狙った事件は起きている)

 しかもDV行為をするような元交際相手が住所などを調べられるような|システム(法律)──住民票の閲覧、交付制限──はある。このシステムを利用したとあるDVストーカーの事件で報道は「情報漏洩」としていたが、手続きをすれば「誰でも」住民票の閲覧ができるというシステムが問題だと思ったものだ。改善されているかどうか調べていないので言及はしないが。




・DV被害者に対しての「偏見」が同じようなもの(学歴、所得、人種、自業自得など)であること


 DVを自分には関係がないと考えている人は多いのだろう。

 事件が起きるとまず加害者のプロフィールから判断しようとする。マスコミもそうした面から報道する。社会的立場がどうか、生い立ちはどうか、交友関係はどうか。そうした側面を重視するだけでは、色眼鏡をかけることになり「DVをするのはこういう人間だ」と印象付けられていくだけだ。

 実際に話題性が強いものだと、そうした傍観者偏見を持ちやすい人物像が多いのかもしれない。しかしそれがすべてではないと理解しなければならない。「そりゃ中には例外もあるだろう」などと考えないほうがいい。報道されるような事件にまでなっているものが「異例」であり氷山の一角なのだ。

(DVの相談件数は平成26年度から年間10万件を越えている。報道されるようなものは、目立つ事件となったものが週に1、2件あるかないかだ。内閣府男女共同参加局が公表している「配偶者からの暴力に関するデータ」「配偶者暴力相談支援センターにおける配偶者からの暴力が関係する相談件数等の結果について」を検索、ご参考にしてほしい)


 「自業自得」というレッテル張りも同様だ。「そんな相手を選んだお前も悪い」「そんな相手しかいないのはお前自身のせいだ」と被害者を責める。最初から「そんな相手」だとわかっていたら選んでなかった人の方が多いと思うのだが、もしかしてそういうことを言う人は相手を「わかっていても」選ぶのかもしれないので否定はできない考え方だ。

 なぜかこのように「原因論」と「責任論」とが同時に語られるケースが多い。

 「原因」とは「結果」を引き起こすもとであり論理的・真理的な極めて自然な「事象」の一つだ。一方「責任」は道徳的・法的価値観に基づき、「結果」に対して負わされる「責め」のことだ。結構別ものである。(そもそも「責任」というものは人間が造り上げた「理屈」にすぎないのだから同列に語る方がどうかしているとも言えるのだが)「被害者が悪い」か「加害者が悪い」かの「悪者探し」は問題の解決ではなく、白黒思考なだけだ。


 こうした「犠牲者非難(victim blaming)」の偏見/認知バイアス(認知バイアス:先に書いた公正世界や、認知的不協和、正常バイアス、嫌悪感など)をまずどうにかすべきだと感じている。偏見の強い人間が多数派になればそれが「正常」「常識」となってしまい、ますます被害者への偏見が強まり、誰も救われない。




・「被害者」が「加害者」にもなりえる、なりやすいこと


 よく使われる言葉であるが「負の連鎖」というものだ。

 DVで加害者になる人間もDVの被害者であったということは多いとされている。これが上記の育ちが良くないからなどの「偏見」へと直接に関連付けられるのかもしれない。

 父親が母親や子供に強く当たる家庭で育つと、父親の姿を見て怯え、母親を救えずに無力感を知り、人間への不信感を憶え、ストレスを妹や弟あるいは学校の同級生──または見かけただけの弱者──にストレスをぶつける、といったケースはよくあるだろう。そしてこういった環境で育った子供が今度は自分の家族に強くあたるようになっていく。「いじめ」にもDVの連鎖が無関係ではないのがわかると思う。


 別のコミュニティでは弱者となる者が、新たな犠牲者を探すという面がある。


 極端な例だと、ネットの書き込みなども当て嵌まることは多いと思う。

 「自分はこうされた、自分はこう傷ついた。だから○○なのは死んでしまえ。もっと罰を与えろ。○されてしまえ」といったような過剰な攻撃的思考に陥る。集団になればエコーチャンバー効果などで一層過激になってしまう。そうした高い感情表出された文章を見てしまうだけでも人間は不快感を覚え、同じようにストレスをぶつけようと暴言などを吐いてしまう。


 悪意や害意、敵意は容易く連鎖していく。自分の感情を完全に管理しろとは簡単には言えない。人間であれば少なからず攻撃性を持っている。けれど、それをできるだけ他者に向けないようにコントロールすることが「負の連鎖」を止める方法の1つと言える。そうすることで自分だけでなく、他の誰かを守ることにも繋がるだろう。


 ◇


 ◇


 「いじめ」の「解決」を無視した解決方法ならばすぐに思いつく。

 コミュニティを作らないよう、コミュニケーションの全てを不可能にすればいいだけだ。グループや会社、更には社会、国家という枠組みも無くし、あらゆる人間が「独り」になるまで別けて、人間同士接点を持たないようにしていく。

 当たり前だが、すべての人同士の繋がりを廃すれば諍いなんてものは無くなる。自分で見聞きしたもの、感じたこと以外は、なにひとつ、生きる上では意味を持たない世界だ。勿論、インターネットという繋がりもない。

 こんな荒唐無稽な方法は多分誰も望まないし、目指しもしない。不可能である。


 たまに見られる「人類がみんな引きこもりになれば世界は平和になる」というのも、「世界平和」という一面見ればあながち間違いではないから皮肉めいた冗句になる。


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