降り落ちた花と沈む花
アルファルトの地面を、
藍色に染上げてしまう程の土砂降りの雨が降る中で。
一匹の小さな動物が、
藍色に染まっている冷たい地面へと倒れこんでいた。
倒れこんでいる動物は、
雨に身体を濡らしているからなのか、
身体に傷を負っているからなのか。
小さく震えて、もぞもぞと刻むだけで、
その場から動くことは無かった。
眼を開ける力も無い動物は、
自身の体に染み込む大きな粒の雫に包まれ、
尖っている二本の耳に流れ響く雨音に、
じわりじわりと飲み込まれるような恐怖感を覚えて、
ただ、ただ寒いと、ただ、ただ誰か助けてと、
溺れそうになる心の中で小さく零した。
真っ暗な世界の中で、誰かに見付けて貰える様に。
小さな動物はそれまで保っていた意識が、
ぷつりと途切れる寸前、
身体がふわりと浮いた感覚を感じた気がした。
――――。
どうしようも無かった。
何もかも嫌になった。
諦めたかった。
生きていても意味がないと。
私の居場所なんて最初から何処にも無いし、
これからだって作れるわけでも無い。
そう思ったから、
そう思っていたから古い小さなビルの屋上から、
飛び降りる事を何日も前から決めていた。
例え――決行の日が歩いた瞬間から、
犬好きな私が犬達に威嚇されて吠えられまくったり、
靴が水浸しになる土砂降りの雨だろうと、
豆乳を買いに寄ったコンビニの傘立てからお気に入りの傘を盗まれてため息を付いたとしても、
ビニール傘は味気ないからと、
適当に入った店では豪雨のせいで、
目ぼしい傘は全部捌けていて、
可愛らしい柄モノの傘しか残っておらず、
仕方なく花柄の傘を買ったとしてもだ。
今日はついてないな。
なんてため息を吐きながら、
花柄の傘を差して目星をつけた小さなビルへと歩いた。
本当は【今日も】ついてない筈なのに。
ビルに着いた私は、
雨水が染み込んでぐしゅぐしゅと音の鳴る靴のまま
ゆっくりと階段を上る。
ぐしゅぐしゅ。
ぐしゅぐしゅ。
お世辞にも心地の良い音や感触とはいえないソレに虚しさを感じながら階段を上っていると。
途中、
螺旋のようになっている部分に差し掛かったので、
足を上げようとするけれど、
靴が重くて上手く上がらなかった。
ふと、今まで使っていなかった手すりを使おうと、
手すりの部分に眼を向けて見た。
眼の先には思いきり、
赤黒く錆びているのが見えたので、ため息を吐いた後
なんとか力を入れて手すりを使わずにゆっくりと進む事した。
カツ、カツ、カツ。
ぐしゅ、ぐしゅ、ぐしゅ。
何度聴いても良い音とは言えないソレを無視して階段を上っていたら、
いつの間にか眼線の先には少しだけ頑丈そうな扉とノブが見えた。
――やっとか、いつもより着くのが遅かったけどそんなことはどうでもいいな。
ようやく楽になれると思った途端に身体に力が入るようになった気がした。
カツカツカツカツ。
急ぎ足でも滑って落ちないように無意識の中で注意を払っていた自身に対して軽く笑って、
屋上への入口となる扉のノブを回す。
ゆっくりと引いた扉から、
次第に――――ギイイイという鈍い音と苦い錆の匂いが響き鼻を掠めて。
幸いにも埃っぽさが喉に来る事は無く、
長く強かった災難も此処で打ち止めか。
……なんて安心して屋上を進んだ先にある金網まで足を進める。
先程と違ってコツコツと靴音を鳴らしながら、
金網の目の前まで辿り着いた私は、
傘を畳んで靴、上着を脱ぎ、金網越しに景色を見た。
未だに重く暗いジメジメとした空気の中で、
大粒の雨が滝のように降っている。
「最後までついてねえな」
誰に言うわけでもなく、
ただ、自身とこの景色に呆れてそう口に出てしまった
もう、いいか。
そう心の中で決めて金網をゆっくりと登る。
ガシャガシャという音が冷たい感触と共に伝わってくるけれど、今の私にはなんの意味もない。
そうして、金網を登り、
からっぽの中身で降り立った後、
ゴオッという風音が鳴り荒れる中で、
同化したような気がした。
本来なら一歩先へも進むことの出来無い、
大粒の雨が響かせる音に。
――気がつくと。
濡れている身体が染み、
小さく震えている状態だった。
コンクリートの足場から、
少しだけ下を見た。
意味や意図があったわけじゃない……と思う。
動いてしまえば、
進んでしまえば。
何もかもが終わってしまうだろうその状況の中で、
ふと下が気になってしまっただけだ。
俺自身の胸の中にいくつかの、
どうでもいい言い訳のような言葉の羅列吐き出す。
未だ降り続いている大粒の雫に溶け込ませるように。
紫色に染まった唇のまま、白く洩れる呼吸のまま、
不意に、無意識にまたキョロキョロ、キョロキョロと続けて下を見る。
俺はいったい何を探しているのか。
俺を見付けて止めてくれる誰かを探しているのか?
俺と一緒に此処から落ちてくれる奴を探しているのか?
「ないない、だって今日も最悪な人生だったんだから。」
愛想笑いするかのように口角を上げてみても、
虚しさと気持ち悪さが込み上がってきた。
死ぬ前に物理的に吐いて汚物と一緒に落下するなんて事はバカらしい。
いや、普通にキモいわ。
そう、自問自答しても何にもならない。
いい加減左腕の感覚が無くなりそうだ。
さて、
落ちるか――――――。
そう思って何気無く斜め下をみた。
雨で出来上がった中々の水溜まりの中に、
金色のような、淡くなんか明るめの色をした塊みたいなのが見える。
動物か?
あれはヤバいだろう。
身体の半分がもう水に浸かっている。
犬か?猫か?
クゥ――――――――。
ああ、
そんなことはどうでもいい。
声が聴こえた気がした。
幻聴かも知れない。
それでもいい――。
俺と違って、あの雨に沈んだように見える奴は、
生きたいと、諦めずに小さく力を振り絞って鳴いて見せた。
だったら、とにかく助けなければ。
火種が消えるその前に。
俺の命はいつでも消せる。
助けた後、何処かに預けてもう一度落ちに来たらいいだけの話だ。
あの水たまりには、
まだ生きる意思が沈んでいる筈だ――!!
唐突に動き出しそうな身体が硬直した。
身体は揺れ、鼓動も揺れている気がした。
――――落ちる。
【ガシャッ】
錆の臭いと雨の匂いが鼻を通っている。
力が残っていなかった筈の腕は、感覚が無いと言うのに金網を掴んでいた。
「あークソッ!」
何度も滑る金網を無我夢中で越えた時、
一息付きたい気持ちが一瞬だけ浮かんだが俺の身体はそんなことどうでも良いと言うように傘を引っ張るように掴み、入ってきた扉に向かって走り出していて。
扉に飛び込むようにして屋上から建物の内部に入り込んだ。
勢いが良すぎたのか裸足だったせいなのか、俺は傘の柄を持ったまま、階段を滑り転げ落ちた。
ガタガタと傘が階段の角に当たりながら音を響かせ、
俺は背中を打ち尻に角の部分が突き刺さったような痛みを覚えながら尚も落ちる。
気が付けば、甲羅を下にして起き上がれなくなった亀のような体勢で、建物の一番下に辿り着いていた。
遅刻して寝床から起き上がる学生のように放心状態から眼を覚ますと、キズだらけになっている傘を持って屋上から見たあの水溜まりを目指して駆け出す。
息があがる。
身体中がいたい。
それでも上で見たときより目的の場所はちょっとだけ近かった。
足が痛い。
水溜まりが見えた。
さっきよりも、水溜まりは広がっているような気がした。
耳にバチャりと音が響いた。
水溜まりの中に金色のような、
茶色のような毛をした小さな狐を見付けた。
足はもう血だらけだった。
だけど、冷たい水の中に居た筈の狐優しく抱いた時、
確かに狐は温かかった。
さて、これから忙しくなるぞ。
キズだらけになった傘を、
傷だらけになった男が差して歩いている。
腕に抱える灯を、消さないように大事にだいじに。
花柄の傘が枯れる事は無い。