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Stranger

作者: 長嵜 景和

――ノックの音がしたらすぐに扉を開けよ。久しぶりに会う顔が待っているかもしれない。



 男が操る櫂が海水を叩き、巧みに返すと私たちはそっと前に進む。旧市街地の元幹線道路はかつての道幅のままで、下地のコンクリートが見えるビルの壁に跳ね返って細波が膨れ上がることもない。小舟は若者の鼓動に突き上げられるように揺られていた。

「<街船>は『久しぶりに会う顔』なのか」

 私がそう聞くと、わざとらしく水しぶきを飛ばしながら、幽霊となった肉親と再会するようなものさ、と声がした。

「幽霊でも会いたい気持ち、お前に分かるか」

 私は首を振った。水は街から地面を奪い、住むべき家の床を侵し、上へ上へと建て増しする人間を嘲笑った。六階部分に作られたビルの仮入口、鉄パイプを組んだだけの足場は白く乾いた塩と錆によってやせ細っていく。私たちの心と同じように。窓枠を外しただけの扉はまだ開けっ放しで、北西から吹く潮風を飲みこんで時は過ぎる。

 壁紙は剥げていくし、タイルの赤色は錆よりも汚いだろうけど、この中に風を迎えたいと思い続ける限りは。

 洞穴みたいな窓の残骸から光が射し、生した苔がぬめっとした水滴と、褐色と白色の華が、疲れ切った舟上の男に楽園を垣間見せてくれる。だけど、水は流れ続けて舟をどこかへ流そうとする。

 櫂を漕ぐことを忘れていた男は我に返り、舟を食い止めようとする。細路地の急な流れのなすがままになり、私たちはビルの合間、暗い陰を流れる。いつの間にか私の座る船尾の方が前になっていた。船尾の尖った部分が水流を割いて進む様や、魚と思しき影を追い越していくのを見るのが面白かった。

「折角綺麗に真っ直ぐ流れているのに、櫂でかき混ぜちゃうのはやめてくれないか。勿体ない」と言うと、むっつりとした表情のまま座りこんで、タバコを一本所望してきた。マッチと一緒に最後の一本を男にやった。潮風にやられてないだろうな、と言いつつもすぐに火は点き、黒鉛みたいな煤をくゆらせた。それが綿毛のように次々と水面へと落ちていく。陽が当たらない水の中で煙は拡散していった。振り向くと男は黄ばんだ歯を覗かせて一服している。私は彼にタバコを与えたことを後悔した。水はますます黒くなる。男は手持ちぶさたに櫂で水を跳ね上げて遊んでいる。にやりとしながら空を仰ぐ男の、白くなった灰に点った火種が弱まっていくのを見ると、少しだけだが気が落ち着いた。

「このまま流れのなすがままに行くとどこへ着くんだ?」

「さあな。まあビル群からは抜けて<外洋>には出れるだろう。<街船>はそれから捜せばいい」男は腕まくりをしながら答えた。意外に細い腕には汗が垂れていた。徐々に水路の幅が広くなりまもなく市街地から出られそうだ。男は張り切って立ち上がり、待ちきれなくなっって櫂を漕ぎ始めた。だからと言って舟の速度が増す訳ではないが、男の表情には笑みが浮かんでいた。建物の天井に溜まったカモメの糞がこびりついたが目に入った。まき散らされた汗を見ているよりは幾分かましに思えた。

 <外洋>は凪いでいて、一枚の床のようだった。かつての生きていたものを覆いつくした、無慈悲で無垢な床。のっぺりとした水平線が、まっすぐに張った糸のようになっているのがよく見える。朽ちかけたビルが水面から顔を出すことはなく、船らしき影も煙の一条も私の目には映らない。ただ水は随分と澄んでいた。沈んでしまった水底の家に眠る、安楽椅子に座った老人の亡骸に海の青色が突き刺さったが、世界は血に染まったりはしない。ただただ深い青色が、底まで広がっている。

 私が久しぶりの海を味わっている間も、男は舟を漕ぎ続けていた。街の外郭をぐるりと廻っては、水平線の向こうを覗きこもうとする。目に潮が貼りついても知らないぞ、という私の忠告にも返事をしない。その内幽霊船でも見つけるに違いない。とうとう一周してしまってからも、握りしめていた櫂を放して男は<街船>を捜し続けた。陽が街の方に沈み始め、放射状に走っている水路を染め始めた。昔一度だけ見たことのある赤漆喰の色を思い出した。波のように近寄ってきた赤い色は、しかし舟の手前にたどり着くころには水の流れに散らされてしまった。舟の周りの水面は光を照り返しているが、私たちと、特に陽に背を向けたままの彼の足下を貫くことはないだろう。

 男が涙を流している。血走った眼に、所々血管が破れていて瞬きの度に赤く滲んでいく。もう今日は止めにしよう、また今度捜せばいい。私は櫂を手渡そうと柄を握ろうとした。なぜだか力が入らず、櫂は私の手から落ち、男の手もすり抜けた。小さな音を立てると海流に乗ってそのまま流されていった。この時自分の手が震えていることに気がついた。真上の空はまだ橙色だったが、水平線からは夜が拡がっていくのが見えた。その間、夜と宵がせめぎ合っている空はただただ静かで、だけど一刻一刻と色を変えていった。いずれ、ここにも夜が訪れるのだが、櫂を失くした私たちよりはずっと速く顔を合わせることになるのだろう。


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