「捜索」
7
今考えれば、朝田遥はSAコーポレーションの社長を殺すつもりなどないのだろう。
あれだけ上手く秘書として潜り込んでいたのであれば、九条を殺すことはいつでも出来た筈だ。勿論、自分も含めて。
あの時は嫌にヒヤッとさせられたが、いまだに朝田遥という人物が掴みづらい。
滝本は社長室の本棚を調べながら、今朝の事を思い出していた。
どこまで遥の言うことが本当かは分からないが、確かに彼女の言う通りにして会社にまで無事に入れた。おそらくセカンド・ライフの真相を見つけることが、以前の自分を知る近道には違いない。彼女に協力するしかない訳だ。
滝本はデスクに座って引き出しを調べる。
どうやら遥の資料通り、このSAコーポレーションの表向きはWebサイトを運営する会社のようだ。引き出しの中や本棚にはパソコン関係の書籍、資料が目立つ。傍から見れば健全な会社に見えるだろう。
SAコーポレーションが行っているのは、『Second Life』というソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)らしい。
SNSとは社会的ネットワークをインターネット上で構築するサービスのことを言い、SNSの主目的としては人と人とのコミュニケーションにある。
出会ったことのない他人とのコミュニケーションを促進する手段や場、あるいは趣味や嗜好、居住地域といったカテゴリーの繋がりを通じて、新たな人間関係を構築する場を提供するものである。
提供する会社によっては誰かから招待されてから登録出来る会員制であったり、誰でも自由に参加出来るものと二つのサービスがある。
「ん、ここは鍵がかかっているのか…。」
一番下の段の引き出しは開かなかった。
滝本は秘書としての遥から渡された会社内のマスターキーを探ってみる。しかし、引き出しの鍵に合いそうなものは無かった。
「くそっ、九条が持っているのか…。」
中に何が入っているかも分からず不用意に九条に鍵を渡すよう言えば怪しまれるだろう。
今は引き出しを開けることは諦め、他を探すことにする。
滝本は別の本棚を探りながら、思考を巡らしていた。
九条との会話は、ほぼ遥のシナリオ通りだった。基本的に九条に喋らせ、こちらは話を合わせるだけ。逆に何か情報を引き出せればと考えていたのだが、得られた情報と言えば皆無だった。
滝本は本棚にあった本の一冊が他のものより飛び出しているのに気付いた。
取り出してみると「ラテン語」の辞書だった。何気なくぱらぱらとめくってみる。
頁の途中で、アンダーラインを引いている箇所があった。
「Secundusと Aevum?」
どこかでみたような文字だ。
脳裏に、説明会の時に見た受付の表示を思い出した。確かSecundus Aevum Co.という会社名が書かれていた。
辞書によるとAevumは「時間、人生、年齢。」、Secundusは「次の、二番目の、幸福な。」という意味らしい。つまりは「第二の人生」ということか。
ラテン語を会社名にするなんて、インテリ気取りが。
そう思いながら、滝本はもしかすると自分がつけた名かも知れないと前言撤回する。
これで社長室はある程度探し終えた。結局怪しいのは鍵のかかった引き出しのみだった。
滝本はソファーに座り、遥が用意してくれた会社の間取り図を広げる。
SAコーポレーションが位置するのは、当ビルの13階から最上階の15階までとなっている。今いる社長室はビルの最上階に辺り、先日訪れた説明会会場は13階である。
各フロアに設置された二基のエレベーターがあるホールを進むと、正面に受付があり、その先は白い壁で仕切られている。受付の右側には設備機械室、男性トイレ、女性トイレの順で並んでいて、逆に左側には階段がある。この構造は各階同じのようだった。
受付の先にある扉を開けると、最上階はまず秘書室があり、その一角に給湯室がある。秘書室の隣に資料室、通路を挟んで副社長室と専務室がある。通路の奥には扉が設置されており左手に会議室、右手に社長室と位置づけられていた。
14階はエレベーターホールを抜けると受付があり、手前は最上階と同じ間取りになっている。奥の扉を開けると手前には部屋はなく、給湯室と自販機が設置されており、休憩所と喫煙ルームがある。向かい側の部屋は第一CPU室、通路を進んだ先には第二CPU室、向かいに発電機械室という配置。
そして13階は先日行った説明会会場である。エレベーターホールを抜け、受付を通る。その先のドアを開けると質問書を記入した部屋が通路を挟んで向かい合っており、その隣に倉庫が並ぶ。一番奥の部屋にはスクリーンが設置されていた会場がある。
各フロアの一番奥に非常口階段が設置されているようだった。
滝本は全ての間取り図をテーブルに並べてみる。
社長室を見る限り、セカンド・ライフに関する資料は表には出されていなかった。やはりそう簡単には見つかりそうもない。
各階の監視カメラの位置を確認する。社長室など室内には設置されてはおらず、エレベーターホール、受付、各通路に設置されているようだ。遥が言うには、この監視映像は当ビルの一階にある警備室でモニタリングしているそうだ。
確かに朝田遥が秘書として潜り込んだとはいえ、自由には探索は出来ない。綺麗さっぱり記憶を失った元社長は強力な助っ人だろう。
滝本は改めて間取り図を見る。13階は説明会の時に見てはいるが、怪しいところは思い当たらない。となると、14階を調査するのが妥当だ。
腕時計を見ると、短針は23時を回っていた。おそらく会社内の社員は殆ど帰っているだろう。
「行ってみるか…。」
テーブルに広げた図面をまとめて小さく折り畳み、背広の内ポケットにしまう。
滝本は意を決して社長室のドアを開けた。
目の前には会議室があり、通路を歩いてその先の扉を開ける。確か、右側に副社長室、専務室。左側に資料室、秘書室の並びだった。通路には案の定誰もおらず、滝本は背筋を伸ばしそのまま歩いていく。秘書室に隣接している給湯室を曲がったところで声を掛けられた。
「戸神社長?」
視線の先にはグレーのスーツを着た女性がお茶を淹れていた。資料によると、高峰由希という副社長秘書だった。
遥の資料には、社員の名簿も含まれていた。重役を重点的に詳細が書き込まれており、短時間の割にはよく調べてあった。とはいえ、ほとんどが遥が秘書として働いてる間に出会った社員のみだが。
「お帰りなさいませ。九条副社長からお話しを伺いました。」
高峰はそう言いながら、手にしていた急須をテーブルに置く。話を伺った、ということはある程度現状を把握しているのだろう。
「どちらに行かれるのですか?」
「下に用がある。」
そう言って秘書室の先にあるドアノブに手をかける。その時、秘書室から遥が顔を出した。滝本を見て頭を下げる。
「そう言えば、九条君は?」
滝本は振り返り二人の秘書を見る。
「社長室を出た後、しばらくして帰られましたが。」
高峰が答える。内心ほっとしたが、表情には出さずに「そうか。」と答える。
「警備員には私が戻ったことは伝えているのか?不審者と通報されても困るんでね。」
今度は遥が「問題ありません。」と答える。滝本は頷き、ドアを開けて通路に出た。
滝本がいなくなったのを確認してから、高峰は伸ばしていた背筋を緩めた。
「まさか戻ってくるなんてね。」
そう言って途中まで淹れていたお茶を淹れなおす。
「フロアに入ってきた時はびっくりして声も出なかったけど…。」
滝本がフロアに入って来た時に受付ブースに座っていたのは高峰だった。
「副社長が帰られても高峰さんは残業なんですか?」
遥は高峰が淹れてくれたお茶を受け取りながら聞く。
「まあ、得点稼ぎ?」
高峰は戸神が出て行った方向を見ながら、ぺろっと舌を出す。遥は何の得点稼ぎにもならないのに、と口が裂けても言えない。
「それにしても、本当に大量の飲酒が記憶を戻したのかしらね。本来記憶を戻すことはできないんでしょう?」
高峰はここでちょっと小声になって話す。
「私が思うには、社長は記憶を喪失していなかったんじゃないかと思うの。」
二人は秘書室に戻って、各々のデスクに座った。この時間帯は誰も受付ブースには座っておらず、フロア内の照明も落とされている。会社の営業時間は過ぎているため来客は来ないが、エレベーターが使用され当フロアに停まる場合は前もって秘書室に設置されているランプが灯るようになっている。
「どういうことですか?」
興味のある振りをして遥は身を乗り出す。副社長秘書による推理ショーに真実は隠されていないだろうが、そこから何かしらの情報が拾える可能性はある。
「多分、セカンド・ライフの未完成を主張するため。」
「未完成を主張するため?」
遥は首を傾げる。
「社長が戻ってきたから言うけど、戸神社長が記憶を無くしたのは事故だと言われてるじゃない?でも実は社長の自作自演だったそうよ。」
高峰は驚いた表情をする遥を見て、さらに続ける。
「社長はまだセカンド・ライフは未完成だと考えていたらしいわ。」
「それで自ら被験者に?」
「そ。でも、実際に施行はしなかった。万が一記憶が無くなったら困るしね。」
遥は手に持っていたカップが傾いて中身が零れそうだったのを慌てて戻す。
「それで、しばらくしてから記憶が戻ったと言いに来れば、未完成だったことが証明出来るでしょ。あ、これ内緒ね。九条副社長から聞いたわけでもないんだから。」
遥はお茶を飲む振りをしながら思考を巡らす。
戸神は実際には記憶を失っている。間違いなくセカンド・ライフは施行されたのだろう。しかし、未完成を主張するために自ら被験者になるとは考えにくい。社長の立場ならいくらでもシステムの見直しを主張出来た筈だ。
「ちなみに、社長が被験者になった時は誰が立ち合っていたんですか?」
「九条副社長と溝口専務みたいよ。あと厚生衛生省の役人が数人かな。」
溝口専務は、遥はまだ一度も会ったことがなかった。SAコーポレーションに秘書として潜入した時には溝口は出張のため不在しており、いまだに出先から帰ってきていない。社長、副社長、専務の中では営業的な仕事は溝口専務に一任されているようだった。
「どう!?私の推理。」
嬉しそうに聞いてくる高峰を今は無視したかったが、「あるかも知れませんね。」と言っておいた。
立ち合ったのが副社長と専務だとすると、もしかすると戸神は二人に強制的に施行された可能性もある。しかし、役員も数人いたというし、先程の九条の対応を見るとそれは考えにくい。
「あと、美嘉も傍にいたらしいけど。」
「美嘉?」
「ええ。あなたの前の社長秘書。」
斉藤美嘉。確か、社長が退任した後出社することもなく退職を希望。社員の中では社長の恋人であったと噂されていたそうだ。
「もしかして、事故じゃなく社長の自作自演って情報…。」
「そ、美嘉から聞いたの。」
言いながら、人指し指を口元に当てる。
「美嘉さんは社長が戻られた今、復職されないんでしょうか。」
「まあ、何の相談もなく退職しちゃったからよく知らないけど、もう戻れないんじゃない?結局退職理由も分からなかったけど、社長だけ戻ってきたところを見るとただの遊びだったのかもね。」
「ひどいですね…。」
遥は高峰に話を合わせながら、元社長秘書の斉藤美嘉が鍵になっているかも知れないと思っていた。
エレベーターホールにある受付には、既に誰もいなかった。また、照明も消されていて薄暗くなっている。どうやら職員のほとんどは職務を終えて帰宅した様だ。
滝本は、秘書はいつ帰るのか疑問に思いながらホールに向かう。やはり社長の自分が帰らねば仕事は終わらないのだろうか。おそらく朝も上司より先に出社しているのだろう。
エレベーターの階数ボタンを押し、滝本は頭を掻く。自分がそんな立場にいたということがいまだに信じられないでいる。
到着したエレベーターに乗り14階へ降りる。
滝本はエレベーターの脇に設置されている、ワイヤーを使用したカタログスタンドに視線をやる。その中には会社のパンフレットが差し込まれていた。表紙には「ようこそ、Second Lifeへ!幸せな時間を皆で始めよう!」と書かれている。
会社名になっているSecundusと Aevumを別の訳し方をすると「幸福な時間」になる。表向きのキャッチフレーズといったところか。
エレベーターホールの先は、上層階と変わらない光景が目に映る。横目に監視カメラを確認しながら薄暗い受付を抜け、奥にあるドアに手をかける。ドアには鍵がかかっており、ポケットからマスターキーを取り出し解錠した。
間取り図を思い出しながら先へと進んでいく。手前は給湯室や喫煙ルームがあるが、ここは無視していいだろう。まずこのフロアの第一CPU室のドアを解錠し、中に入る。
部屋の中は個人用デスクが向かい合って並べられており、間にデスク用パネルが設置されている。各デスクにはパソコンが置かれ、これと同じ列が奥にもう一列あった。いかにもWebサイトを運営している仕事場という雰囲気で、特に変わった様子はない。
滝本は第一CPU室を出て、通路の先にあるドアを開けて進む。
こちらにある第二CPU室も先程と同じで、何らおかしなものはない。残るは発電機械室だが、ここは停電やブレーカーが落ちた時に非常用電源を供給するためのものだろう。
滝本は念のために発電機械室にも入ってみたが、やはりこれといった怪しいものは見つからなかった…。
14階はざっとではあるが、特に変わったところはない。もしかすると、一般社員の職場には何ら情報はないのかも知れない。
結局滝本はその日、遥を含め秘書を帰し会社で寝泊りをした。
ソファーで多少仮眠を取ったが、あまり寝ることはできなかった。
本来の自宅に帰るのが筋だろうが、見ず知らずの家に帰るようでどうも気が乗らなかった。ましてや滝本耕一のワンルームに帰る気はさらに気が乗らない。
滝本は遥が作成したの社員名簿にあらためて眼を通す。その中に戸神の詳細も書き込まれていた。
「戸神尚人。44歳。SAコーポレーション元代表取締役社長。2005年に会社設立、2008年に当ビルに移転した。○○付属大学 経済学部を卒業。埼玉県出身、既婚暦なし。父親は25歳の頃に病気で他界。母親は現在82歳でアルツハイマー型認知症により埼玉県内の特別養護老人ホームに入居中。」
出身大学までは分かるが、家族のことまで調べていることには改めて脱帽した。
遥から用意された書類を鞄に入れ、腕時計を見る。
「6時か。」
社員が入社して来る時間にはまだ早い。今のうちに13階も確認しておいた方がいいだろう。
滝本は椅子から立ち上がり、大きく伸びをする。
窓の外はぼんやりと朝日の明かりが街中を照らし始めていた。今日、また記憶を失くして目覚める者もいるのだろうか。
窓の景色を眺めていると、ドアをノックする音が聞こえた。おそらく遥だろう。滝本は「どうぞ。」と声を掛けた。
「失礼致します。」
入ってきたのは予想に反し、紺の背広を羽織った男だった。滝本は虚をつかれたように、一瞬たじろぐ。
「お元気そうで、何よりです。」
そう言って男は笑みを浮かべる。笑うと頬に皺が寄るのが、好印象を与える。
滝本は一瞬だけ視線を胸元に向ける。胸のネームプレートには「専務取締役 溝口」と書かれている。
「昨晩、九条副社長から連絡がありまして、慌てて駆けつけました。」
「すまないね、多忙にも関わらず。」
溝口はいえいえ、と手を振ってデスクに近寄る。
「記憶はすっかり戻られたようで。」
「お陰様でね。」
この溝口に関しては遥の資料は皆無に等しいため、どう対応していいのか悩む。唯一書かれていた情報は、溝口はSAコーポレーションに入社する前に厚生衛生省にいたようだった。 顔写真すら入手されていなかったため、会話は慎重に行わなければならない。
年齢は副社長よりやや上だろうが、端正な顔つきが実年齢より若く見られそうな容姿だ。均等に生やした顎鬚は手入れが行き届いており、あの汚い顔だった自分とはえらい違いだ。
「出張に出ていたとか?」
「はい、いつも通り厚衛省の方へ。」
厚衛省とは厚生衛生省のことだろう。
滝本はデスクの椅子に移動し、溝口をソファへ促す。しかし、「またすぐに戻らなければならないので。」と丁重に断られた。
「そう言えば、先程一階の警備員室を通った時に警備員が言ってましたよ。」
「何と?」
溝口は先程と同じ笑みを浮かべ、口を開く。
「昨晩、会社内を回られていたようですね。警備員は普段社長が来られない場所を歩かれていたので、逆に注目してしまったようです。」
少しだけ鼓動が早くなった。眼を泳がさないように、溝口を視界に捉えたままにする。
「14階に何か用事でも?」
滝本は我慢が出来ず、思い出す振りをしながら視線を上げる。
「…ああ、自分の記憶に間違いがないか確認しに行ったんだ。もしかすると思い出していないこともあるかも知れないと思ってね。」
「そうでしたか。いや、何かお探し物でしたら…と思いまして。」
「何かあれば、その時にまた頼むことにするよ。」
そう言って滝本は笑ってみせる。
「では、失礼ですが僕はそろそろ。社長が元気なのも確認しましたし、まだ仕事も残っていますので厚衛省に戻ります。」
「そうか。わざわざ、すまないね。」
溝口は深く頭を下げ、社長室を出て行った。
重たい息を吐いてから、滝本は今の会話に落ち度はなかったか思考を巡らす。
溝口は厚衛省によく出入りしているようだった。説明会の案内をした国家精神衛生サービスセンターもこことは違う場所にあるようだし、SAコーポレーションは通常の業務以外にはただの説明会会場に過ぎないのかも知れない。セカンド・ライフの拠点は、厚衛省にあるのだろうか。となると、調べるのはさらに困難になるだろう。セキュリティーもさらに厳重に違いない。
滝本は背広のポケットから遥に渡された携帯電話を取り出し、コールした。