「戸神社長」
5
高層ビルの窓越しに、夜の帳をおろしたネオン街が見下ろせた。街の灯りと車のヘッドライトが夜のキャンバスを彩っていた。しかし、いくら彩ろうとも、夜の帳を消すことは出来ない。
九条寛樹はそんな時間が好きだった。全てを覆うことの出来る闇に、絶対的な力を感じていた。
九条はポケットから煙草を取り出し、火をつける。
じじっという音がし、火が灯る。深呼吸する様に煙を吸い、窓に向かって紫煙を吐き出す。
煙は窓ガラスを伝って広く伸びていく。
もう一度煙を吸い込んだ時、ドアをノックする音が聞こえた。
「…どうした?」
九条はテーブルにあった灰皿で煙草を揉み消す。
「珈琲をお持ちしました。」
ドアの向こうから秘書の声が聞こえてくる。
「そう、入って。」
失礼しますと声が聞こえ、ドアが開いて秘書が入ってくる。一緒に珈琲の香ばしい香りが煙草の煙臭さを消していく。
「ありがとう。」
そう言いながら、九条は秘書から直接珈琲を受け取る。
「社長、真っ暗じゃないですか。」
秘書は社長室を見渡す。室内は電気が消されており、照明の代わりに窓から差し込む月明かりが室内を照らしていた。ぼんやりと見える室内には社長用のデスク、その両サイドに本棚があり、部屋の入り口側には革張りのソファーとアンティークなテーブルが置かれていた。
「この方が外のネオンが綺麗でさ。ちょっと、仕事は休憩。」
九条は秘書に笑ってみせる。薄暗い中、なんとか笑っているのが分かるくらいだが。
SAコーポレーション社長の肩書きを持つ、九条寛樹。182センチの長身で、ルックスは会社の若い社員に騒がれる程。名誉も容姿も優れていて、愛人は数多くいるという噂が立っている。
「夜遅くまで悪いね、井川君も帰っていいよ。彼氏、待ってるんでしょ?」
「いません、そんな。」
九条は膨れる井川と呼ばれた秘書を見て笑う。笑う姿があどけないことも女性社員の人気の理由らしい。
「本当かなぁ。今日は出社ギリギリだったでしょ。朝帰りでもしたのかと思ってた。」
「違いますっ!」
「冗談だよ。」と井川を制して九条はデスクに向かう。そこに腰を下ろし、井川に視線を向けた。
「…っ!?」
九条の眼が見開いた。視線は井川の後ろに向いている。
不審に思った井川が九条の視線を追うように振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
「戸神…社長…!?」
九条の驚く姿に、戸神と言われた男はにやりと笑う。
その男は半分開けられた社長室のドアに腕を組んで寄りかかっていた。
「久し振りだな、九条君。」
九条は完全に言葉を失っている。
「そうか。」
そう言って戸神は入口にある電気のスイッチを点け、近くのソファーに座った。九条は戸神を凝視しながらネクタイを少し緩めた。
「副社長だった君が社長になった訳か。まあ、必然と言えばそうか。」
蛍光灯の光に照らされた戸神の顔を改めて確認し、九条が重々しく口を開いた。
「…社長は、もう戻られないのかと思っていました。」
戸神は黒のスリーピーススーツに身を包んでいた。赤色のネクタイがアクセントになっていて、実年齢よりも若々しく見える。
「…私もそうさ。」
二人の会話を聞きながら井川は佇んでいた。そんな井川に九条は気付き、近くに呼ぶ。
「…ああ、社長。新しい秘書です。先日入社したばかりですが。」
九条に紹介された井川は、戸神に頭を下げる。
「…井川沙織といいます。」
褐色がかった瞳に、長い髪の毛をまとめて左肩から流している。
戸神はしばらく井川と眼を合わせ、「よろしく。」と一言付け加えた。
「社長、単刀直入にお聞きします。記憶は…、記憶は戻られたのですか?」
珈琲でも淹れてきてくれと井川に頼む戸神を見つめ、九条は聞いた。
「…特に何をした訳ではないんだがね。」
代わりに戸神はそう答える。
「記憶を無くした当日は、正直何も覚えていなかった。それで…。」
「説明会に来られてましたね。」
戸神が話を終える前に九条は言う。そして、戸神の向かい側のソファーに腰を下ろした。
「…ああ。行った。」
戸神はそう言って黒塗りのテーブルに視線を落とす。ぼんやりと自分の顔が映っていた。
「鏡に映った自分の顔を見て、誰だか分からなかったんだからな。神にもすがる思いで説明会に行ったよ。まあ、行ったところで何の解決にもならなかったが。」
皮肉に笑ってみせる。
「実はその後、問題がありまして。社長の…、いや『滝本耕一』の上着に細工していた盗聴器から何も傍受出来なくなったんです。」
「あれは、どこかの馬鹿なOLに珈琲を溢されてね。上着をすぐにクリーニングに出したんだ。」
戸神は両手を挙げて、普通人の背中に溢すか?と付け加える。
井川が珈琲を持って入ってくる。二人の前にあるテーブルにカップを置いた。
「そのようですね。途中までは傍受出来ておりましたが、初日からデーターを取れなくなる事態は今後の課題です。」
九条は納得したように、早速珈琲を啜る戸神を見て言う。
「やはり、私も盗聴されていたのか。」
コップを皿に戻し。九条を見る。
「貴重なデーターになりますので…。」
仕方が無かったという風に、九条は眼を瞑った。
「しかし…、何故記憶が戻ったのでしょうか?」
「説明会の後、自分の中で消化出来なくなってね。ひたすら酒を浴びるほど飲んでいた。」
「はい、一週間近く飲まれていたのはその後の傍聴で存じています。」
そうだろ、と言わんばかりに戸神は眉を上げる。
「…まさか…、大量の飲酒が記憶を戻すきっかけになったと?」
「それを調べるのは、私の仕事ではないだろ九条君。」
九条は腕を組み、片方の手を口元に持ってくる。何やら考えているのがよく分かる。
「…分かりました。担当の者に調査させ、確認を取ります。」
そう言って九条は立ち上がる。
「思わぬ事故により記憶を失われましたが、こうして戻られたのは奇跡です。記憶が戻る可能性は喜べませんが、戸神社長が戻られて溝口専務も安心することでしょう。このことは私の方から伝えておきます。また秘書以外の一般社員には混乱を招くと思い、社長は辞職の予定とだけ伝えておりました。」
「そうか。」
「はい。明日から通常業務に戻られても問題はありません。」
お決まりの笑顔を作り、社長室のドアへと向かう。
「まだ誰も副社長に就任しておりませんし、私は社長の任を降ります。今日はゆっくりお休み下さい。」
九条は井川に「社長秘書として戸神社長につくように」と言い残し、ドアを閉めた。
確実にドアが閉まり、しばらくしてから戸神、もとい滝本はぐったりとソファーに寄りかかる。
「素晴らしい演技でした。」
井川が拍手をする仕草をする。
「どこかの馬鹿なOLは余計でしたけど。」
「聞いていたのか。」
滝本は誤魔化すように背広の襟を直す素振りをする。
「…しかし、さすがに記憶が戻った振りをするなんて無理があったんじゃ…。」
九条が出て行ったドアに視線を移し、滝本は言う。
「無理は承知です。ですから、私がこうして…。」
「分かってる、分かってる。こうやって君が秘書に成りすまして情報を仕入れていたんだろう。」
井川もとい朝田遥は頷く。先程は緊張していて余り見れなかったが、よくよく見ると珈琲を溢された時とはまた一味違って、大人っぽさが出ている。
「君は…、まるで七変化だな。」
「ありがとうございます。」
皮肉で言ったつもりが、どうやら勘違いしているようだ。
ふうっと滝本は溜息を吐き、ソファーに座り直す。
「この先、どうするんだ?」
「そうですね。飲酒が記憶を戻すという嘘がバレる前に、徹底的にこの会社を調べます。」
「そうだな…。私は、まず九条が使っていたこの社長室から調べていくか。」
そう言って滝本は立ち上がる。
「私がずっと社長室にいると怪しまれますので、通常の社長秘書としての業務を行いながら別ルートで調べていきます。」
遥はテーブルに置かれた珈琲カップを片付けながらそう言う。
「分かった。何かあれば知らせてくれ。」
「それと、私との連絡は以前お渡しした携帯電話でお願いします。間違っても会社から支給された携帯電話を使用しない様に。」
「盗聴の恐れがあるんだろ。」
遥はにこりと笑って、失礼しますと社長室から出て行った。
一人残された滝本は、もう引き返すことは出来ないのだと覚悟を決めた。
もとはと言えば、事の発端は自分にあるのだから。