「暗号」
20
鍵を解錠し、力任せにドアを開けた。
視界に映ったのは、奥の部屋で男が遥にナイフを振り被っていたいところだった。その男は突然の出来事に驚いているのか、その手を止めている。
滝本は叫びながらナイフを持っている男に体当たりをする。転がるように二人は部屋に倒れ込んだ。
男はナイフを取られないように必死に抵抗する。滝本は男の上に乗り、そのナイフを掴んでいる手を振り解こうとした。しかし、滝本は力負けして男に跳ね除けられる。もう一度滝本は男に体当たりを食らわし、ベッドに倒れこんだ。
しばしの沈黙が訪れる。聞こえてくるのは滝本の荒い呼吸だけになる。
滝本に体当たりを受けた男はベッドから動かなかった。ゆっくりと滝本は立ち上がり、男から離れていく。その男の手にはもうナイフは握られていなかった。
視線を下げていくと、深々と男の胸に折りたたみ式のナイフが突き刺さっていた。
「た…滝本さん…?」
縛られた格好のまま、遥が声を掛ける。はっと我に返った滝本は遥に近付いた。
「…大丈夫か…?」
そう言ってシーツで結ばれていた手足首を解き始める。
「どうして、ここが…?」
「…とりあえず、今はここから出よう。」
ピクリとも動かない男を見て言う。やはり見覚えがある。この男は…、桐原由美の部屋から飛び降りてきた男だった。
滝本と遥はホテルを抜け出し、大通りに出た。そこでタクシーを拾い、滝本の自宅に向かった。
ホテルから30分ほど走ると、周囲にはいくつかの高層マンションが立ち並んでくる。その高層マンションに囲まれた場所に、滝本の自宅はあった。
黒を基調とした外壁が特徴的なマンションで、独特な雰囲気を醸し出している。エントランスも室内も黒をベースとし、シックな印象を与えていた。
遥は部屋に通されて、今はリビングのソファーで休ませて貰っている。
「どうして…、私の場所が分かったんですか?」
気を落ち着かせるために滝本に出された珈琲を一口飲んで、遥は聞いた。珈琲はブルーマウンテンだった。
「君が電話で伝えてきたバーに行ったんだ。だが、君はいなかった。それでバーテンダーに君の特徴を言ったら、男と出て行ったと教えられた。」
滝本はパソコンデスクの前にある椅子に腰を掛けている。
「君から電話があった後、ふと思ったんだ。桐原由美が殺害された時に部屋から飛び降りて来た男。あの時は気付かなかったが、君から渡された資料で見た覚えがあった。改めて見直して確信したよ。下山拓馬だったとね。だから下山に連れ出されたんじゃないかと思って急いで湯澤君に連絡したんだ。」
「湯澤さんに?」
「ああ、俺一人では探し出せない。しかし、彼ならいいアイディアがあるかも知れないと思ってね。」
そう言って珈琲に口をつける。
「しかし彼は、自分のやるべきことは終わったから協力はしないと言ってきた。」
「そうでしょうね…。」
湯澤の性格なら、きっと平然とそう言うだろう。
「だから言ってやったんだ。自称ハッカーと言っても、どうせ探すことは出来ないんだろって。」
思わず遥は笑ってしまった。
「そうしたら彼はむっとして、すぐに君の居場所を探してくれたよ。」
滝本も笑いながら言う。湯澤は遥の携帯電話をジャックして居場所を突き止めたらしい。おそらく携帯電話に搭載されているGPSを調べたのだろう。
「君も君だ。脅されていたとはいえ、何故あんなところまで連れて行かれたんだ?」
滝本は多少怒ったような口調で言う。
「まさかあんな人混みで脅されるとは思いませんでした。それに、私が無理矢理逃げていれば他の誰かが危害を受けてしまいます…。」
それはそうだが、と滝本は納得いかないような顔をする。
「ですが、セカンド・ライフの記憶を失くす方法が分かりました。」
誤魔化すように遥は話を切り替えた。
「桐原由美のメッセージはラテン語に直す必要があったんです。」
そう言ってラテン語に直して記入した紙を、遥は鞄から取り出す。
1、Verba volant, scripta manent.
(言葉は飛び去るが、書かれた文字は留まる。)
2、In principio creavit Deus caelum et terram.
(初めに神は天と地を作った。)
3、Unus multoram.
(多くの中のひとつ。)
4、Rerum Concordia discors.
(不一致の中の調和。)
5、Si vis amari,ama.
(もしあなたが愛されることを望むなら、あなたが愛しなさい。)
「まず、『言葉は飛び去るが、書かれた文字は留まる』というメッセージ。これは、その言葉自体ではなく、文字に注意を向けろという意味だったんです。そして、『初めに神は天と地を作った』。これは、メッセージの始めと最後のアルファベットを差しています。となると、英文の一番初めの文字は【V、I、U、R、S】。下の文字は【T,M、M、S,A】となります。」
遥はそう言って、紙に書かれた始めと最後の文字にペンで丸をつける。
「残りのメッセージである『多くの中のひとつ』というのは、その選んだアルファベットのどちらかに答えが隠されていると示しています。『不一致の中の調和』というのは、その言葉としては読み取れないアルファベットを並び替えて、ひとつの言葉にしろという意味。英文の最初のアルファベットを並び替えて言葉にすると…【V、I、R、U、S】。」
「ウイルス…?これがセカンド・ライフの答えか?」
「だと思います…。」
「しかし、最後のメッセージは何も関連していないが?」
遥は俯いた。珈琲の入れられたマグカップに視線を落としながら呟く。
「それは、おそらく…元恋人であった戸神に対するメッセージだったのではないかと思います。」
滝本は黙っている。
「あくまで予想ですが、戸神がセカンド・ライフ施行された時、その場に居たのは副社長と専務、そして秘書の斉藤美嘉です。斉藤美嘉は、戸神が施行されるのを止めに入ったのではないでしょうか?」
「記憶を失くして欲しくなかったから?」
滝本の言葉に遥は頷いた。
「…しかし、よくこのメッセージに気付いたな。」
「幼い頃に兄と暗号を作って遊んでいたのが参考になりました。」
そう言って遥はブレスレッドに彫られている「AHY」という文字を眺める。
「たいしたものだな。」
ブレスレッドを眺める遥を見て、滝本は言う。
「では、…記憶を消す方法というのは?」
「下山拓馬が言うには、マインドコントロール。もしくは催眠や洗脳といった類だそうです。」
そう言って、ホテルで拓馬が言っていたことを伝えた。
「SNSに埋め込まれたプログラム、そして桐原が残した「VIRUS」という言葉。それを踏まえて考えると、セカンド・ライフの正体は…。」
遥がそこまで言うと、それに滝本が言葉を繋げた。
「コンピューターウイルス…」
遥は頷いた。
「どのような形で行われているのか分かりませんが、そのプログラムが洗脳・催眠効果をもたらしているのでしょう。」
有り得ない、という風に滝本は頭を振った。コンピューターウイルスで人の記憶を操れる訳がない!馬鹿げてる。そんな話しがあってたまるか。
そんな滝本の様子を察し、遥は口を開いた。
「…その方法を知るには、実際に下山のアバターの足跡を追って確認するしかありません。」
滝本はソファーに腰掛ける遥に視線を向ける。頬と首には絆創膏と包帯を巻いている。それが痛々しかった。
「私の持っているアバターに下山の足跡をつければそれが可能です。」
「確かに、下山のアバターを動かすことが出来るなら可能だろうが…。」
Second Lifeのアプリケーションをダウンロードしているパソコンであれば、アカウント名、パスワードを入力すれば自分のパソコンでなくてもログインが出来る。
「しかし、下山のアカウント名、パスワードが分からないじゃないか。」
「会社にある下山のパソコンからログインします。」
躊躇うこともなく、遥は言った。
「下山の遺体が発見されれば、おそらく私達は捕まります。正当防衛が主張出来たとしても、その間に全てを隠蔽されてしまう可能性がある。そうなれば、もう真実を知ることは出来なくなってしまいます。」
ホテルのチェックアウト時間になれば、確実に下山の遺体は発見される。ホテルの監視映像に一緒に映っていた遥は勿論、その部屋に入った滝本も一瞬にして殺人の容疑者だ。
「タイムリミットは明日の朝まで…、ということか。」
遥は険しい顔で頷いた。
「分かった。行こう。」