「近寄る危険」
19
朝田遥は何らかの方法で、井川沙織という社長秘書としてSAコーポレーションに潜入した。
目的はセカンド・ライフと考えるのが妥当だろう。つまり、朝田遥はセカンド・ライフの退廃主義者だったという訳だ。
拓馬は朝田の部屋を出て、エレベーターに乗り込んだ。
一階に着いた時、思わず声を出しそうになった。郵便受けから郵便物を取り出す朝田の姿が眼に映ったのだ。
帽子を深く被り、視線を落としてエレベーターから出る。朝田は拓馬に気付くこともなく、急いでエレベーターに乗った。
拓馬はそのまま振り返えることなくエントランスから出る。
危ないところだった。もう少しで部屋の中で鉢合わせをするところだった。
少し長く居過ぎたのを反省し、拓馬はマンションの向かいの歩道に渡った。ここからだとマンションが一望出来る。しばらくしてから、3階の角部屋に電気が灯る。
歩道に設置されているガードレールに腰掛け、拓馬は考えていた。
SAコーポレーションに潜入した朝田という女は、おそらくYumiの存在に気付いたのだろう。そして桐原由美の家に向かった。偶然にも自分が桐原を殺害している時にやってきたという訳だ。
となると、自分にとっても会社にとってもあの女は邪魔な存在になる。やはり、生かしておく訳にはいかない。
拓馬は朝田の部屋を見上げると、先程まで点いていた朝田の部屋の電気が消えていた。随分と寝るのが早いようだ。
ガードレールから腰をあげて、その場を去ろうとした時だった。マンションから朝田が出てきた。
咄嗟に身を隠し、様子を伺った。
朝田は風呂から出たばかりなのだろう。髪の毛が濡れていた。しかし、それなのに朝田はスーツを着ている。これからどこかに行くようだ。
朝田は周囲を見渡しながら、人通りの多い道に向かっていった。その表情は焦っているようにも見える。拓馬はそのまま尾けることにした。
鞄から携帯電話を取り出している。どうやら相手は出ないようだが。
時折周囲を確認しながら、さらに人の多い街中に朝田は向かっていた。拓馬は見失わないようにし、後に続く。
周囲はイルミネーションに彩られ、明るさを増していく。拓馬はニット帽を被り直し、朝田が入って行くビルに間をおいてから入った。中には朝田の姿はなく、設置されていたエレベーターが3階で停まる。近くにあったテナント名の載っている看板を見ると、ber「Fructus」と書かれていた。
こんな夜中に、髪も乾かさずにバーに来るヤツなどいない。
しまった、と拓馬は舌打ちをした。
朝田は自宅に侵入されたことに気付いたのだ。それで、なるべく人通りの多い道を通って安全を確保しながら歩いていった。そして、この街中のバーだ。こんな安全な場所はない。周囲を確認しながら歩いていたのもそれで頷ける。
拓馬は悩んだ。
この時点で警察に通報していないということは、その心配はないだろう。だとすると、他の手段を取る。先程から携帯電話を取り出しているということは、誰かをこのバーに呼ぶ可能性がある。
おそらく朝田は自宅に侵入したことを見抜いている。あの会社に社長秘書として入社出来たことを考えると只者ではない。早めに手を打たなければ、こっちがやられる。
…いいだろう、やってやろうじゃないか。
拓馬は意を決して、エレベーターに乗り込んだ。3階の階数ボタンを押し、バーに入る。深く被ったニット帽越しに店内を観察して、朝田を探した。朝田はカウンターの一番奥の席に座っており、携帯電話で誰かと話しているようだった。
拓馬は見つからないように近付き、朝田の座っている場所から陰になるテーブル席に座った。
「…はい、それで気付いたんです。部屋に誰かが侵入したと。」
朝田は小声で話しているが、拓馬の位置では聞こえてくる。
「今、『Fructus』というバーにいます。」
そう言いながら、バーの場所を伝えていた。オーダーを取りに来たウエイターにジントニックを頼み、頭をフル回転させた。朝田の仲間が来る。そうなると間違いなく不利だ。
逆に、仲間が来るまで待っていればそいつも確認することも出来るが…。おそらく朝田は明日からは会社には来ないつもりだろう。自分だったらそうする。
となれば、今度見つけ出すのは極めて困難だ。朝田には桐原を殺したところを見られているかも知れない。自分を守るためには、今のうちに朝田を消しておく必要がある。
ウエイターがジントニックを持ってきた。拓馬は一気に半分程飲み干した。
残りの仲間は、また後で調べればいい。今、この状況を無駄にするのは勿体なかった。
その時、店のドアが開く音が聞こえた。拓馬は入り口に視線を向ける。まずい、仲間が来たんじゃないのか…。横目で朝田を見ると、同じように店の入り口を見ていた。しかし、店内に入ってきたのは手を繋いだ男女だった。視線を戻している朝田を見て、ほっとする。
もう時間がない。仲間が来てしまっては、朝田を殺すことは出来ない。
その時、カウンター席に座っていた朝田が立ち上がった。カウンターにいるバーテンダーと何やら会話をして、奥のテーブル席に移動する。鞄からパソコンを取り出しているところを見ると、それを置くテーブルが欲しかったのだろう。
とにかく、朝田をこの店から連れ出すしかない。
…では、どうやって連れ出す?
桐原の時に目撃されていれば、穏やかには連れ出せないだろう。だとすれば、脅すしかない。
拓馬はポケットに手を入れる。自宅の引き出しに入れてあった折りたたみ式のナイフを万一のために持ってきていた。
まだ間に合う。
拓馬は残っていたジントニックを全て飲み干し、立ち上がった。ポケットに手を入れて、ナイフの感触を確かめながら朝田に近付いた。胸が張り裂けそうに高鳴っている。こんな公の場で、こんなことをするのは初めてだった。
パソコンに向き合っている朝田の横に腰を掛ける。
振り向いた朝田は、ニット帽から覗く顔を確認しながら呟く。
「…あなたは…。」
表情が変わり、拓馬の名前を口にする。
「下山、拓馬君…?」
店内の誰かに見られない様、テーブルの下からナイフを突きつける。
「ちょっと、付き合って貰いたいんですけどね。」
朝田は突きつけられたナイフを見て、硬直する。
「あなた…、どういうつもり?」
「どういうつもりかどうかは、分かっているでしょう。朝田遥さん?」
朝田は自分の本名を言われ、困惑しているようだ。
「俺も騒ぎは起こしたくないんでね。大人しく言う通りにして貰えませんか?」
しばらく沈黙し、朝田は鋭い眼で拓馬を睨みながら「分かったわ。」とパソコンを鞄にしまう。
「俺は後ろからついていきます。先に店を出て下さい。」
朝田は頷いて、立ち上がる。ナイフはポケットの中に入れ、ぴったりと朝田の後ろにつく。
カウンターにいるバーテンダーが何やら朝田を見て口元に笑みを浮かべているが、それを無視して一万円を渡した。
「二人分だ。釣りはいらない。」
そう言って、朝田と店を出る。上手くいった。後は人気のないところに連れ出せばいい。
「どこに行けばいいの?」
エレベーターに乗った後、朝田が口を開いた。
「外に出たら、俺の言う通りに進んで下さい。後ろから指示します。でも、人が多いからといって変な気は起こさないで下さいよ。」
拓馬は朝田の背中にナイフを当てる。後姿から朝田の緊張が伝わってくる。
エレベーターを下りた二人は人混みを抜け、裏道に入っていく。しばらく歩くと雰囲気はがらりと変わり、ラブホテル街になった。
「そこのホテルに入って下さい。」
拓馬はニット帽をもう一度深く被りながら言う。朝田は少しだけ後ろを振り向き、何も言わずホテルに入っていく。
誰も来なくて、顔を見られない場所。こんな街中ではラブホテルくらいしか浮かばなかった。
受付で鍵を渡され、またエレベーターに乗り込む。受付から指定された階で降りて、朝田に部屋の前で鍵を渡す。
「開けて下さい。」
朝田は言われた通り鍵を解錠しドアを開ける。ドアが開いてすぐに、拓馬はドアの下に足を入れて閉められないようにした。そして朝田の背中にナイフを当て、部屋の中に押し込んだ。
怪しげな照明に照らされた室内は、思ったより広かった。
拓馬はベッドの傍まで朝田を誘導し、背中を向けたまま手をつけた状態壁にで立つよう命じる。そしてナイフを突きつけながら、ベッドにあるシーツを引き抜く。
「…あなたね、私の部屋に入ったのは。」
拓馬はなるべく朝田の背後につき、引き抜いたシーツにナイフを当て引き破る。
「よく気付きましたね。痕跡は消したつもりでしたが。」
そう言って朝田を振り向かせ、鳩尾を強く殴る。短い悲鳴が聞こえ朝田は倒れ込んだ。ヒューヒューと変な呼吸音をしながら咳き込んでいる。拓馬はそのまま朝田をうつ伏せに倒しての上に跨り、引き裂いたシーツで手首を縛った。同じように足も縛り、残りのシーツでベッドの端に朝田の腕を括り付ける。丁度万歳をするような格好だ。
悪いが、これで俺の勝ちだ。
苦しそうに喘いでいる朝田を見ながら、拓馬は笑みが零れて仕方が無かった。
この状況下であれば、この女は口を割るだろう。何かしらのチャンスを狙って、すぐに殺されるのを避けるはずだ。
「何故、気付いたんですか?」
拓馬は呼吸が落ち着いた朝田に問う。
「…郵便物。私が見た時には…すでに開けられていたわ…。」
「なるほど。まさかあれに気付くなんて思いませんでした。」
鳩尾が痛むのか、額には脂汗をかいている。
「…それに、部屋にも違和感があった。…上手く隠したつもりでしょうけど。」
ほら見ろ、話しを引き伸ばしている。だったら付き合ってやろうじゃないか。聞きたいことがあるのは、俺も同じだ。
「正直、今でもそれは分かりません。」
掌を返して、そのまま両手を挙げる仕草をする。今となっては、それはどうでもいいことだ。
拓馬はナイフは朝田に向けたまま。近くにある椅子を引き寄せて腰掛ける。
「今度は俺が質問する番です。」
そう言って、ナイフを朝田の目の前に突きつける。
「朝田さん…、あんたは誰だ?」
朝田の切れ長の眼にナイフの光が反射している。しかし、朝田はたじろぐこともなく拓馬を見据えている。
「答えろっ!」
突きつけたナイフを横にスライドさせた。朝田の頬から血が飛ぶ。白い顔に血が流れ、朝田は苦痛に顔を歪めた。
「あんたは井川沙織として社長秘書をやっていた。だが、本当の名前は朝田遥。俺が思うには、退廃主義者だ。」
微かに朝田が反応した。
「勿論、セカンド・ライフのね。」
敢えて拓馬から振ってみる。俯いたまま、朝田は答える。
「…そうよ。…兄をセカンド・ライフで失い、秘書になりすまして会社に潜り込んだ。」
予想は当たっていた。拓馬は続いて他の質問をする。
「じゃあ、もうひとつ。桐原の家に何の用があったんです?」
そこで朝田は驚いた表情で拓馬を見上げた。
「あなたが…彼女を殺したの?」
どうやらあの時、拓馬の姿は見られていなかったようだ。
「気付いたんでしょう、あの桐原のメッセージに。」
朝田は頷く。
「あのメッセージは全てローマの諺だった。英語で書かれていたけど、それをローマの公用語であったラテン語に直す必要があった。そして、あとはメッセージに反って考えればひとつの言葉が残る。」
「脱帽しますよ。あなたには。」
そう言って、拓馬は立ち上がる。
「でも、それだけではセカンド・ライフの記憶を失くした方法は分からなかった。」
悔しそうに浅田は唇を噛み締めている。
「…マインドコントロールですよ。」
拓馬はぼそりと呟いた。
「いや、催眠と言うべきか、もしくは洗脳と言うべきか。そのどれかであって、どれでもないもの。それがセカンド・ライフの方法です。」
朝田は拓馬を見上げながら言葉を失っていた。理解出来ないようだった。
「セカンド・ライフを施行された者は、記憶を失ってはいません。失った気になっているだけなんですよ。」
「なんですって…?」
拓馬は手に持っていたナイフを弄び始める。
「SNSであるSecond Life。そこに、あるプログラムを埋め込んであります。」
朝田は黙って聞いている。
「俺のアバターを使って、記憶を失くさせたいアバターの日記を閲覧する。そうすると、何が残ります?」
「…足跡ね。」
「そうです、足跡が残る。SNSをやるユーザーは、誰が自分の日記を見に来ているのか気になるもの。大抵、俺の足跡を追ってきます。だが、俺の足跡をつけられたアバターが俺の日記にアクセスすると、その埋め込んだプログラムが働くようになっています。」
「まさか、それが…。」
「そう、あなたが導き出した答えです。」
「あとは、そのプログラムが徐々にユーザーの記憶を奪っていく。正確には、記憶を失ったように催眠を掛けていくということです。」
朝田は俯いて「信じられない…」と愕然とする。
「…桐原由美はどうして記憶が戻ったというの?」
「俺もそれが分からない。セカンド・ライフによって催眠を掛けた者には、必ず暗示を解く方法がある。偶然、その方法を桐原自身がやってしまったとしか考えられませんね。」
「暗示を解く方法…って?」
「さあ、そのプログラムを作ったのは俺ではないんでね。俺がやったのはもともと用意されていたプログラムをSNSに埋め込んだだけ。詳しくは知らないんですよ。」
沈黙する朝田を見ると、色々と考えているようだ。もうじき殺されるというのに、往生際の悪い…。
「俺の話はここまでです。桐原のメッセージを説いたあんたに、俺からのプレゼントということにしておきましょう。」
そう言って。拓馬は話を切り替えた。
「どうして俺の存在に気付いたんでしょうか?」
拓馬は腕を組んで聞く。
「…秘書室のパソコンにウイルスを感染させたのは、…私がやったの。」
それだけ言えば分かると思ったのだろう。それ以上は話さなかった。
「そうか…、なるほど。…俺が逆に経路を調べたのはバレてたって訳か。」
まんまと罠にかけられたのか。つくづく嫌な女だ。
「今までの中で、一番殺し甲斐がありますよ。」
言いながら、朝田に近付いていく。
「…まさか…退廃主義者を殺害したのは、あなただったの!?」
「全員じゃありませんよ。俺が殺ったのは3人です。そんな殺戮マシンみたいに言わないで下さい。」
「殺す必要はなかったはずよ!!記憶が消せるなら殺人を犯すことなんてなかったじゃない!」
「制裁ですよ。神に逆らった罰なんです。あの桐原も、説明会で暴れた男も、【白川】ってやつも。」
朝田は震えていた。恐怖に耐えられなくなってきたのだろう。
「あなたが…あなたが、殺したのね…。」
頬に流れる血に混じって、大粒の涙が零れた。
「何なの…、何なのよ、セカンド・ライフの目的って!誰のためにあんなことやっているのっ!?」
悲鳴に近い声で朝田は叫んだ。
「それは、あんたの友達に相談したらどうですか?」
朝田の横に座り込み、拓馬はナイフを構える。
「さっきから一人でやった様に言ってますけど、会社内に仲間がいるのは知っているんです。」
構えたナイフを朝田の首に当てる。
「コルクボードの写真は処分しておくべきでしたね。」
朝田の首から一筋の血が流れる。しかし、それが感じないかのように口を開いた。
「…何、言ってるの…?あなた…。」
震える声で朝田は問う。
「申し訳ないが、俺はもうあんたに聞くことはないんだ。」
そう言って朝田に笑ってみせる。そして、手に持っていたナイフを振り被った。
その瞬間、入り口から大きな音が聞こえた。ドアが勢い良く開けられた音だった。咄嗟に拓馬は振り返る。
「…!?」
部屋のドアが大きく開けられ、一人の男が立っていた。その男を見て拓馬は自分の眼を疑った。
「…戸神社長…!?」