「内通者」
14
天井に吊るされたファンが、いつもと同じように珈琲の香りを店内に広げていた。
今日は珍しく、他にも客が入っていた。
お決まりの奥の席に遥は待っていた。滝本はカウンターにいる湯澤に手を挙げ、遥の座る席に向かった。今日は滝本は休みだった。社長の休みに合わせて秘書も仕事がオフになるため、その点集まりやすかった。
滝本はブルーマウンテンではなく、甘いカフェオレを湯澤に頼み席につく。昨晩、かなりの緊張を強いられたせいか、糖分を体が欲しがっていたようだ。
「昨日はお疲れ様でした。」
遥は滝本が座ってから笑顔を作る。あの後、無事に警備員にも見つかることなくビルから出ることが出来た。その後、滝本は初めて自分の自宅に帰った。戸神としての自宅に。疲れた体に鞭を打って、自宅内も色々と探してみたが特に成果はなかったが。
「覚悟していた以上に疲れたよ。」
そう言って滝本は苦笑いを浮かべる。
「ですが、色々と収穫はありました。」
滝本は頷く。記憶を消すための装置が偽物だったのは残念だが、鍵のコピーは手に入れた。あとは湯澤がスペアキーを作ってくれるらしい。
「彼が君のバックボーンだったとはね。」
カウンターにいる湯澤を見て言う。
「湯澤さんは記憶を失う以前はハッカーだったんじゃないかと自分で言っています。」
遥は言いながら笑う。
湯澤に説明されたのだが、ハッキングとは本来コンピューターやソフトウェアの仕組みを研究、調査する行為のことをいうらしい。ハッキングという言葉は高い技術レベルを必要とするコンピューター利用といった意味合いであり、善悪の要素を持たないそうだ。そのうち不正アクセスやデーターの破壊行為を行う行為のことはクラッキングと言うそうだ。
クラッキングを英語にすると「Cracking」。「Crack」の動名詞形であり、英語で「割る」、「ヒビが入る」などの意味がある。つまり、物体を当初意図した状態よりも悪い状態にし、元の用途では使用が難しい状態にしてしまうことのことを言う。これをコンピュータプログラムやデーターに当てはめ「元に戻す気もなく、システムを破壊しながら無理矢理使用する」という意味で使われる様になったそうだ。
対して「Hacking」は「Hack」の動名詞形であり、英語で「切り刻む」という意味であり、物体を当初の状態から細々に切り刻んで使える状態にすることを言う。コンピューターに当てはめると「細かく分解し、各部分を検証する」ことになると言う。
一般的にハッカーと言われる者は、実際にはクラッカーと言われるらしい。
「記憶を失ってからは珈琲店を経営していますが、店の名前にハッカーであると意味合いを込めているそうですよ。」
滝本はテーブルに置かれているナプキンに眼を向ける。店名の「Wannabe」という文字が印字されていた。
「I wanna be a hanker.(ハッカーになろう)を略しているみたいです。」
「なるほど。」
納得している滝本に、遥から話を切り出してきた。
「まず、昨日の偽物の装置の件ですが。」
「ああ、あれは酷かった。子供騙しだ。」
簡単にケーブルが抜けた装置を思い出して腹が立ってくる。
「私は滝本さんが説明会で見たものと同じものだと思うんです。」
「というと?」
「専務室にあったものが偽物であれ本物であれ、どちらにせよあんな装置で記憶を消すことは出来ないと思います。」
確かにそれは感じる。
「他に記憶を消す装置があると言うのか?」
遥は「おそらく。」と頷いた。
説明会でスクリーンに表示された装置は、あくまでも話しにリアリティーを持たせるために作ったものではないかと遥は言う。
「確かに安易な場所に隠されていたし、鍵すら掛けていなかったしな。」
となると、一体どのようにして記憶を消しているのだろうか。
「装置については置いておいて、私達が下山のコンピューターから得た情報をご説明します。」
湯澤がカフェオレを持って来てくれる。礼を言いながら、お疲れ様と付け加えておく。
「結論から言うと、決定的な情報は得られませんでした。しかし、湯澤さんが言うにはひとつのファイルを暗号化して、それを分散したファイルがあったそうです。」
「Second Lifeの付加サービスに使っていると言ってたやつか?」
「実際にそういった形で使われている確証はありませんが、その可能性があると言うことです。その分散されたファイルは通常のフォルダやファイルではなく、色んなデーターに変換されていたそうです。コンピューターに入っていたものは下山が練習として作ったもので、特に必要な情報は入っていなかったそうですが。」
実際にその技術が可能ならば、20万人のユーザーに情報が分散されているのはほぼ確実だろう。今後ユーザーが増えていけば、さらに情報は分散されていくのは間違いない。より安全な隠し場所になっていく。
「下山、もしくはSAコーポレーションや厚衛省がその分散された情報を必要とした場合、どうやって集めるんだろうか。」
「おそらく、ホストコンピューターなら全情報を得られる様になっているんだと思います。」
遥の代わりに湯澤が答えた。いつの間にか客は帰っていたようだ。
「そのホストコンピューターがどこにあるのか不明ですが。」
三人は沈黙し、備え付けられていたテレビの音声が店内に響いていた。
「ですが、ひとつ下山のコンピューターから得られた情報があるんです。」
滝本は書類を手渡された。何かのリストのようだ。
「これは、Second Lifeのユーザーリストです。」
遥に言われて、はっとする。
「Yumiの情報が載っているのか!」
頷く遥を見て、滝本はリストを確認する。ユーザーの名前、住所、電話番号などが羅列してある。アバターの名前でリストは五十音に並べられていたので、探すのは簡単だった。
「桐原由美…。」
「はい、彼女がセカンド・ライフの内通者です。」
「この桐原由美に会えば、何か分かるかも知れないんだな。」
今度は遥と、湯澤も頷いた。
「彼女は私達が会社に進入していた時にも新たに1つメッセージを残していました。これで全部で4つになります。」
そう言って遥は一枚の紙を滝本に見せる。そこにはYumiのメッセージが英訳と和訳で箇条書きされていた。
1.Words fly away, the written remains.
(言葉は飛び去るが、書かれた文字は留まる。)
2.In the beginning, Deity has created the heaven and the earth.
(初めに神は天と地を作った。)
3.One of many.
(多くの中のひとつ。)
4.Harmony in discord.
(不一致の中の調和。)
滝本が知っているのは一番目の言葉だけだった。
「全てローマの諺です。」
「意味は?」
遥は口元に手を持ってきて、考えながら話す。
「二つ目の言葉は、神はおそらくセカンド・ライフの創始者。戸神のことでしょう。天と地を作ったというのは、両極端なものを作った…という意味かも知れません。そして三つ目と四つ目は、合わせて考えてみると他とは違うものの中に一つの答えがある、ということでしょうか…。」
そう言って両手を広げる。その解釈が正解か分からない、といった感じだ。
「意味は分からなくても、本人にコンタクトを取れば問題ないな。」
「そうですね。」
滝本は先程のリストを眺める。桐原の家はここからそう遠くはない。
「行くか。」
先が見えた気がした。滝本は少しずつ真相に迫っている手応えを感じていた。
桐原由美の自宅は、湯澤の店から電車で1時間半程移動した距離にあった。
木造建てのアパートで、閑静な住宅街の裏に位置している。
到着した時にはすでに日は沈み、辺りは薄暗くなっていた。
社長である戸神が突然押しかける訳も行かず、遥に訪ねて貰うことにした。湯澤は店の都合上、一緒には来なかった。
これで全て解決するだろうか…。
桐原由美は、まずどうやってセカンド・ライフのことを知ったのだろう。
内通者がいると言われた時は社員の誰かだと思っていたが、桐原由美という社員はいなかった。いまだ謎の多い、厚衛省の役員なのだろうか。
滝本はなるべく顔を隠すようにアパートの陰にいた。傍に植えられていた木が陰を作ってくれていて、周囲からは目立たないだろう。
桐原由美の部屋は二階にあるようだった。遥が上がっていった階段を見上げる。
その時、背後で何かが落ちる音がした。咄嗟に顔を隠し、滝本は木の陰に隠れる。
しばらくして木の陰から顔を覗かせると、視界には地面に尻餅をついている男がいた。
先程の音と照らし合わせると、二階の部屋から飛び降りた様に思えるが…。
その男は立ち上がって、滝本がいる反対の方向へ走り去っていった。
丁度そのタイミングで、背広のポケットに入れてあった携帯が振動する。取り出してみると、遥からだった。
「滝本さん、部屋に来て下さい。」
滝本は「分かった。」と告げ、終話ボタンを押した。
階段を上って、桐原と書かれた表札のドアに近付く。がちゃりとドアが開けられた。開けたのは遥だった。その顔は蒼白している。
「…まさかっ!?」
嫌な予感がして滝本は土足のまま室内に入った。部屋はワンルームで、ドアが開けられたままの奥の部屋に駆け寄る。
「なっ…!?」
嫌な予感は的中した。ベッドにうつ伏せになって一人の女性が倒れている。その背中には、深々とナイフが突き刺さっていた。ベッドには大きく黒い染みが出来ている。
ふと、さっきの男を思い出す。
滝本は開けられていた窓に近寄り、下を見る。
間違いない、男がしゃがんでいた場所だ。
「何てことだっ!!」
みすみす犯人を逃してしまった…。滝本は歯を食い縛り、窓際を叩いた。
「死んでいます…。」
振り返ると遥は二本の指で倒れている女性の頚動脈に手を当てていた。
「…おそらく、即死だろう。」
滝本はその女性の手に触れてみる。まだ確実に暖かい。
「滝本さん、これ…」
死体から視線を背けていた遥は、近くのデスクに置いてあったパソコンを指差した。
パソコンに映し出されていたのは、仮想空間にひっそりと佇んでいるYumiの姿だった。
「If you want to be loved, love.(もしあなたが愛されることを望むなら、あなたが愛しなさい。)このメッセージを残していた矢先に襲われたんでしょうね。」
「これで5つ目のメッセージか…、ん?」
言いながら滝本は眼を見開いて倒れている女性の顔を見る。どこかで見たことのあるような…。
「あぁっ!?」
滝本は驚いた。髪が乱れており、顔の半分はベッドに埋まっているが…この女性は会ったことがある。薄暗くて見え辛かったが、おそらく間違いない。
「説明会に来ていた女性だ…。」
桐原由美を見て、滝本は呟いた。