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キスの続き

 ぼくと珠世は地下迷路にきていた。そうこの場所はぼくときみがはじめてキスをした場所だ。あれから20年経った今、この場所は少しだけ変わっていた。観光地としての開発が進んだのか、ところどころにあった瓦礫もなくなってきれいになっている。

 迷宮を少しすすむと、きみと休憩をしたベンチがあった。それは驚いたことにくたびれたままで残っていた。まず間違いなくきみと過ごしたベンチだ。ぼくはきみに似てきた珠世とそのベンチに腰を下ろし20年前のことを思い出していた。このベンチに座ると、唇にきみの唇の熱い体温の感覚がはっきりと思い出された。



 それは長い時間だった。唇が触れている間は時間が止まっているようだ。静寂の中、音といえば二人の吐息と鼓動、あとは遠くで微かに人の声が聞こえていた。先ほど抜いていったカップルの声だろうか。多分「怖いわ」とか「大丈夫だよ」とか言っているのだろうが耳を澄ましてみても何を言っているかはわからなかった。その間にもきみの舌がぼくの舌に絡みついてくる。ぼくはいよいよ頭がぼーとして意識が希薄になってきた。あまりの心地よさに気が遠くなっていた。

 長い。この時間は永遠に続くのだろうか。そうだ。きっとそうだ。そうに違いない。このまま時が止まり、ぼくときみが口づけをしたまま、この至福の感覚が永遠に続くのだ。

 ぼくの体は先程から激しく変化していた。ぼくは女性経験がないわけではない。豊富というわけではないが歳相応の経験はあった。だけどきみとの接吻はこれまでに経験したことのない衝撃的なものだった。そんな状況で誘導灯の明かりが付いた。

 ひとしきりの熱いキスが終わり、きみは唇を話してくれた。ぼくの頭の中はまだぼーとしていて、眼の焦点もうつろだったと思う。その目でまだ顔が近いままのきみを見ていた。

 きみもこちらをジッと見ている。何も言わずにぼくの顔をただ見ていた。そして不思議なことを言った。


「ふーん。こんなだったんだ」


(こんなだったんだ)ってどういうこと? ぼくはきみの言葉がよくわからなかった。

 少し困惑したぼくをきみはただじっと見ていた。

 ぼくは(こんなだったんだ)という言葉が頭の中でぐるぐると繰り返されていた。一体どういう意味なのか。キスが初めてで、ただ感想を述べた? いやいやそんな感じではない。じゃあディープキスが初めてだったとか? それも違う気がした。

 意味不明なきみの言葉にぐるぐると思考が駆け巡り、ぼくの体はすっかり平常になっていた。

「こんなだったんだって・・どういう意味?」

 ぼくは思い切って聞いてみた。

「いや、出会いがね。初めてパパとの・・」

「パパ?」

「あ・・何でもないの。気にしないで」

 気にしないでと言われたらもっと気になる。人間とはそういうものだ。きみの言葉はひとつひとつがとても不思議だった。

(パパ?)彼女の父親がハンガリーに縁のある人なんだろうか。

「明かりが付いたのね。行きましょうか」

「う、うん」

 ぼくはまだ戸惑っていたけど、ベンチから立ち上がりきみの手を引いて迷路を進んでいくことにした。途中、様子のおかしかったきみが気になって何度かきみの顔を見たけど、きみは笑顔を返してくるだけだった。まぶしいぐらいの笑顔を。

 しばらく歩いていると地下迷宮はほどなく終わった。迷宮の外にでると相変わらず強い日差しが照りつけていた。遠くの空に雲が流れている。唇にはあのベンチでのキスの感覚がまだ残っていた。だけどきみはそんなことがあった事を忘れたかのようにはしゃいだ様子だった。いやあんなことがあったからこそはしゃいでいるのか。だけどぼくにはそのはしゃぎ方が、なんだかムリヤリで陰りがるように感じた。

「ねえ、次はどこに連れて行ってくれるの?」

「そうだね。ここからならドナウ川のほとりを散歩するとか、有名な観光地なら国会議事堂なんかもいいよ。ほか、ここから見えるでしょ。あの川辺に立っている美しい建物。ただ右側の建物が工事中なんだけどね。ずっと工事中でいつ終わるかわからない。左側の建物なら議会がないときは観光できるよ」

「え? あの建物、中に入れるの?」

「そう。ただ議会がない時だけね。なんなら今日の見学会の空きを聞いてみる?」

「うん。行ってみたい」

 ぼくは携帯電話で国会議事堂の観光課に電話した。前にぼくの両親が日本から遊びに来た時に登録していた番号があったので、そこに電話して今日の見学会の空きを確認してみた。

「午後1時からならまだ空きがあるって言ってるよ。予約する?」

「うん」

 予約できたことを確認して僕は電話を切った。

「1時まで時間があるね。どこかでランチでも食べようか」

「うれしい。そうしましょう。お腹ペコペコなの」

 ぼくはペティカーべーに行くことにした。あのお店はランチもあっておいしいハンガリー料理のメニューもある。何より気心がしれた場所だった。店長のペティはお喋りだけどお客さんを連れているときに邪魔はしない。特に女性客と一緒のときはなおさらだ。あとでしつこくどういう関係か聞いてくるけど。

 ぼくはきみの手を引き路面電車の駅に向かった。何かに導かれるようにして今朝乗り込んだ路線。来るときはぼく一人だった。そして今はきみを連れて逆向きのホームに立っている。少し経つと電車がやってきた。きみは路面電車が珍しいのか、まじまじと車両を眺めていた。

「かわいい電車ね。黄色のカラーリングもこの街によく合っているわ」

「ここは観光地で新しい車両が導入されているからきれいなんだ。他の場所だとボロボロの車両が沢山走っているよ。ブダペストの財政はまだ厳しいからね」

 そう。ぼくときみが出会ったのは1998年。ドイツのベルリンの壁崩壊が1989年でそれまではロシアの支配下にあった国だ。それからまだ10年も経っていない。しかし壁崩壊によりこの国の経済は劇的に変わった。ドイツやイギリスといった西側資本が流入するようになり、また西側諸国へ出稼ぎに行くことか可能になったことで若者はこぞって西側諸国に出て行った。義務教育課程で必須だったロシア語の授業はなくなり、変わって英語やドイツ語が教えられるようになった。ぼくが初めてハンガリーに来て驚いたのは、こちらの人は母語のハンガリー語以外に2つ、3つの外国語を話すことだ。日本で10年間も英語を勉強してきたにも関わらず、さっぱり話すことができなかった僕には2つ、3つの外国語を話す人を見て、なんて優秀な人達なんだろうと思ったものだ。

 もちろんハンガリー語自体、の使用者が少ない言語であるため、多くの国が陸続きヨーロッパ諸国において仕事をしてゆくために英語、ドイツ語、ロシア語などの経済的な優位性をもつ言語を修得しなければならないニーズがあるのはわかるが、それにしても外国語の教育に大きな時間と労力を割いているのは事実である。日本は今でこそ小学校からの英語教育に力を入れ始めたが、それも言語教師だったぼくに言わせればまだまな状態だと感じている。


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