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エアマザー

 バレンタインのチョコレートだが、父にあげるのは毎年のことで、実は母にもあげている。

うちには小さな仏壇がある。狭いマンションなので本棚の上の段に仏壇らしきものを置いていて、母の位牌と写真が飾ってあった。写真は例のブダペストで撮った5枚のうちの1枚で、比較的大きく写っているものを更に引き伸したものだ。だから写りは良くない。ひどくピンぼけな上、当時、つまり私が生まれた頃からずっと飾ってあるので、端の部分が色あせてきている。でも私はその写真を毎日見て育ってきた。その写真が母そのものなのだ。そしてバレンタインには毎年その写真の前にチョコを飾っている。

「ママ。今年は気になる人ができたから、その子にチョコレートをあげるんだ」

「だから、まずママ、味見してみて。パパには内緒だよ」

「珠美。おいしいわ。大丈夫これならいけるわよ」

 私にはそう聞こえたように思えた。母はいつもこの笑顔で私と父を見まもっている。私は父に相談できないことは、いつもこの写真に聞いていた。すると不思議と解決法なり良い対処法が思いつく。まあ私の相談事など薄々結論が決まっていることが多い。ただ都合のいい解釈をして何かしら背中を押して欲しいだけのことだ。それに母の写真を使っているにすぎない。

 でも。それでも母が見守ってくれていると思えば勇気がでた。

 今回のこともそうだ。バイト先で出会った男性にチョコをあげるかどうか迷っていた。父に相談する訳にいかず写真の前で話しかけた。声を出すと父に話の内容がバレてしまうのでいつもお参りしているようにして心の中で話しかけるのだ。

「ママ。その人ね、私のバイト先の人でね、かっこいいの」

「へー、そうなの」

「この前話したでしょ。5つ年上で大人の男性っていうか、声もぐっと低くて、なんか耳心地かいいのよね」

「一度聴きたいわね。そんなに素敵な声なら」

「でしょ、でしょ」

「パパより素敵なのかしら?」

「そんなの当たり前でしょ。パパなんてオジサンよ」

「まあ、ひどい」

 と、こんな内容を心の中で言う。母の答えは私の中にある一般的な母親像をもとに勝手に創りだしたものだと思う。こういう質問にはこう答えるだろうとか、こう答えて欲しいという私の希望を含んだ内容だと。受け答えとする母は私の妄想の中の「エアマザー」だった。いつかどこかで見たような理想的な母親。ドラマで見たのか友達の母親かわからないけど、いや多分これまで見てきたいろいろな母親というのを勝手に足して割ってこねくり回してぐちゃぐちゃにして頭の中で創り上げてしまったのだと思う。

 私には母親がいない。私を産んですぐ死んでしまった。生まれたその時から母親が存在しない、そう意識したのはいくつのときだっただろう。はっきりと理解したのは幼稚園の頃だったか?友達には素敵なママがいるのになぜ私だけいないんだろうと、ふと悲しい思いをしたのを覚えている。私は父になぜ母がいないのかを繰り返し繰り返し問いただしていた。子供の詰問はときにしつこく厳しい。

「ねえ、どうちておウチにはママがいないの? ほかのおともだちにはママがいるのに?」

「ママはね。いつも珠美とパパを見守っているんだ」

「だからいないわけじゃない。いつも側にいるんだよ」

「ほら、そこに」

 父はそう言って私の横を指さした。

「感じないかい? ママの気配を?」

「ケハイ?」

「そう。気配。そこにママがいると感じることだよ」

「ここに?」

「そうだよ」

「うーん。わかんない」

「パパには感じるよ。確かにママはそこにいる。写真と同じ笑顔でこっちを見ているよ」

「えー? どこどこ?」

「ほらそこ」

 当時、幼稚園の年中の私はきょろきょろと周りを見たけどもちろん母は見えなかった。見えなかったけど父にそう言われると本当にそこにいる気がした。それからは、いつも私の側に母がいると信じて母に語りかけるようになった。誰もいないのに何かをぶつぶつと語りかける女の子。周りからは不思議ちゃんに見えたことだろう。

 その妄想癖は成長するにつれ精神に影響を及ぼした。父の前や学校の中ではごく普通の子供を振舞っていたが、この架空の母親と常に会話するようになり、その行動が私の心の奥底に影を落としていた。

 いるはずのない母親。私は高校を卒業し大学に入学したが、そんな歳になっても母親と毎日話しをしていた。自分でもおかしいのは分かっている。親友らしい友だちがいないのは、もしかしたらこの事が原因かもしれない。恋人もいない。これまでに好きになった男の子はいたがつきあうことはなかった。

「大丈夫よ。珠美」

「あなた、ママに似てなかなかかわいいから。今度はうまくゆくわ」

「そうね。ママ」

「私、どんどん写真の中のママに似てきたわ。ママは年を取らなくていいわね」

「このままいったら、私、すぐにママより年寄りになっちゃうわ。だってあと数年でしょ。ママの歳になるの。私を産んで死んじゃった歳・・」

 私は思わず写真を前に泣きだしていた。すぐに自分の部屋に入って服の袖で涙を拭った。

「ママのバカ!なんで死んじゃったのよ」

「そう言われてもね。ママだって死にたくなかったわよ。でも仕方がないじゃない。死んじゃったんだから」

「あなたは頑張んなさいよ。結婚して子供を産んだら元気に育てる。私ができなかったんだからあなたにしてもらわなきゃ、浮かばれないわ」

「勝手な事いわないで。私まだつきあっている人もいないんだから」

「あなたきっとパパみたいな人と結婚するわよ。そして幸せになる。ママわかるのよ。こっちの世界にいるから。いろいろとね」

「また!おかしなこと言わないで」

「わかるの。あなたの事もパパの事も。だから安心して思いっきり生きなさい。後悔しないように」

「死ぬ間際に後悔しても遅いのよ」

 外は夕暮れ。部屋の窓からさす明かりが徐々に暗くなってきていた。私は部屋着に着替えて自分のベッドに座った。今日の母親はいつになく饒舌だった。

「そんなのわかってるわよ。ママに言われなくたって」

 私は思わず大きな声を出していた。

 はっと我に返り辺りを見回した。いつもの自分の部屋。もちろん母親はいない。きれいに片付けられた机の上には読みかけの小説が栞を挟んだ状態で置いてあった。

「わかってるわよ・・」

 またポツリと声を出してしまった。いないはずの母親。私が幻想の中で創りだしたはずの母親が干渉してくる。私の生活全てを見ていていちいち意見を言ってくる。

「これ本当に私が考えているのかしら? 私の頭の中で?」

「そうかしら?私ここにいるわよ。すぐとなりに。珠美」

「うるさい。お母さんは静かにしてて!」

 実はたまに本当に母親の姿が見える時がある。声がするだけではないのだ。いまもうすぼんやりと部屋の中で立っている母親が見える。本棚の仏壇にある写真と同じ服装で、顔つきもそのままだ。この人は歳を取らない。これも私の頭の中で合成した姿なのだろう。非科学的なのはわかっている。そんな事はありえないと理解している。

「もういや。お願いだから消えて!ママお願いだから!」

「はいはい」

 そう言うと母の姿はスッと消えた。部屋に静けさが戻る。

 今日はとても疲れた。長い一日だった。こういう時はいつも母が側に来る。多分体調とか気持ちが不安定なときに忍び寄ってくるのだった。


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