王宮の地下迷宮
教会の中はとても静かだった。先ほどの新郎新婦の礼拝堂での式はもう終わっていたのだろう。あの人達がみんな外に出てしまったので中はガランとしていた。礼拝堂の正面には十字架に架かったキリストが見える。ドーム型の天井は驚くほど高く、天井に通じる壁面には聖母マリアや天使達の絵が美しく描かれていた。部分的にステンドグラスが入った窓からは明るい日差しが差し込んでいた。思わずため息が漏れる光景だ。
「うわー、きれい」
確かにこのマーチャーシュ教会はとてもきれいな教会だ。
ぼくが持っているこの教会の知識では、700年の歴史を持つ教会で歴代のハンガリー国王の戴冠式がこの教会で行われたという。それとオスマン帝国の支配下ではモスクとして利用されたということだった。ゴシック様式の美しい佇まいを見せるこの教会もハンガリーの国と同じく、歴史に翻弄された苦難の過去がある。
きみはくるくると表情を変えて教会の中を歩いていった。教会の中は静寂につつまれていたのでぼくたちが話すときはどうしてもひそひそ話になった。
「ねえ、きみは・・・じゃなくて、えーと、ともよ・・は大学生なんだよね」
「そうよ」
きみはそう言って東京の有名私大の名前をあげた。ひそひそ話をするときはどうしても顔が近くなる。灰色の瞳が目の前にある。ぼくは緊張した。きみの息遣いまで聞こえる。ほのかにきみの体から甘い匂いが香ってくる。きつい香水の香りではなく日本のメーカーのシャンプーの香りだ。ぼくも日本にいたときに好きで使っていたものだからよくわかった。たぶん旅行のために使い慣れた製品を持ってきたんだろう。ぼくはふいに日本にいたときの事を思い出した。なじみの製品は心を落ち着かせる。でもぼくの日本から持ってきたお気に入りのシャンプーはとっくの昔になくなっていた。
「へえ。いい学校に行ってるんだね。専門は?」
「社会人類学よ。論文のテーマがヨーロッパの文化研究で、今回の旅行もその調査のためにきたの。一応、名目はね」
「でも・・」
「でも?」
「いや、なんでもないわ」
きみは何かを言いかけた。気になったけどぼくはそれ以上は聞かないことにした。きみの顔がひどく曇っていたからだ。ぼくらはまた静かに教会をまわった。ふと壁際にあったガーゴイルの像が目に止まった。
「いやだ。気持ち悪い」
その像はとてもリアルだった。羽を持った悪魔。魔除けに使われるその像はこの聖なる教会を守護している。やせっぽっちの体に不釣合いな頭がついていて、こっちを見据えている。ぼくは何度かこの像を見たことがあったと思うが今日みたいに視線があうような配置だったか記憶に無い。もしかしたら何かの拍子に像の角度が変わったかもしれない。掃除のときに箒をひっかけたとか、電気の配線工事で動かしたとか。何にしてもこうまじまじと悪魔に見つめられるのはいい気がしなかった。
「知世は、こういうのが怖いのかい?」
「気持ちよくはないわね」
見るときみの顔は真っ青だった。ガーゴイルにに自分の残された命が取られてしまうとでも思ったのだろうか。
「ねえ、真ちゃん、そとに出ましょうか」
きみはぼくのことを今度は真ちゃんと呼んだ。その呼び方をするのは唯一母親だけだ。ぼくは甘ったるいその呼び方が嫌で仕方なかった。でも母はいつもそう呼ぶ。今でも会った時は真ちゃんと呼ぶのだ。怒っているときを除いてだけど。
「真ちゃんはやめようよ。クレヨンしんちゃんじゃないんだから」
「じゃあ、やっぱり真悟さん?」
こんなやりとりをしながらぼくたちは教会の外に出た。きみの顔色はほのかに赤みを取り戻していたのでぼくは安心した。先ほど教会の前に集まっていた結婚式の集団はいなくなっていた。次の会場に移ったようだ。太陽の光は幾分強くなっていた。さっきまで朝の空気だったがもう太陽は高く気温も上昇している。これから更に暖かくなりそうだ。
ハンガリーにおいてこのように良い気候なのは夏場のほんの1ヶ月だ。緯度はちょうど北海道と同じぐらいで年間における気温の変化はとても似ている。ただ雪はほとんど降らない。それは周囲をカルパチア山脈に囲まれた盆地だからだ。面積も現在は北海道と同じぐらいしかない。現在はといったのは理由がある。かつてハプスブルグ家全盛のオーストリア・ハンガリー帝国だったとき、今の3倍の広大な領土を持つ国家だったのだ。それが過去二回の大戦で敗戦国となった結果、3分の1になってしまった。時代に翻弄された国。それが今のハンガリーだ。
「今日はいい天気になりそうだね。こんな天気の日は最近なかったんだよ」
「ふふふ。わたし晴れ女なのよ。これまでの旅行先はだいたい晴れだったわ」
ドナウ川からはここちよい風が吹いてくる。このマーチャーシュ教会の場所はブダの丘でも高い位置にあるので風は下から吹き上げる感じで流れていた。きみは眩しそうに手を頭にかかげて強くなった日差しを遮っている。今日ぐらい日差しが強いとすぐにひどい日焼けになってしまうと思ったぼくは、きみを連れてすぐに日陰に入った。
「帽子を持ってこようか迷ったんだけど。朝は靄が出てたからやめたの。でもこんなにいい天気になるなら持ってこれば良かったわ」
「じゃあ、日焼しないちょっと面白いところへ連れて行ってあげよう」
ぼくはそういうときみの手を引いて木陰を選びながら王宮のほうへ戻っていった。王宮近くの目抜き通りには平日にも関わらず露店が出ていた。道沿いに建つおみやげ屋の軒先も観光客でいっぱいだ。夏休みの間はこの辺りは観光客でおおいに賑わっていた。ハンガリー国内はもちろん、オーストリアやドイツなどの周辺国から沢山の観光客が訪れる。きみはおみやげ屋に興味がありそうだったけど、ぼくはおみやげ屋には寄らず、面白そうな陳列物に後ろ髪を引かれるきみの手をぐいぐいと引きながら、目抜き通りを抜けまっすぐに歩いていった。目指すはとっておきの観光スポット、「王宮の地下迷路」だ。そう。王宮の地下迷路とはその名の通り王宮の地下にある入り組んだ土壁の道のことで、マイナーな観光スポットだが雨風を避けたり、今日のように強い日差しから逃れるのにもってこいだと思ったからだ。それにある種肝試し的要素のあるこの場所は、もしかしたらきみとより親密な関係になれるかもという、やっぱり邪な考えをもつぼくにもってこいの場所だった。
教会から歩いて10分ぐらいたっただろうか。ぼくたちは王宮の地下迷路に辿り着いた。
「さあ、着いたよ。ここだ」
地下迷宮の入り口をみて不安な顔をみせるきみを尻目にぼくは入り口でチケットを購入した。
「よし、いこう」