恋人ごっこ
ぼくらはゆっくりと並んで歩き始めた。
「ぼくの名前はシンゴ。渡川真悟っていうんだ。渡る川と書いてトガワ、シンゴは写真のしんに悟るという字だよ」
「渡川さん・・?」
「うん」
そのときぼくはきみの顔を間近ではじめて見たわけだけど、なんというかな。とても印象的だったのは眼だった。きみの目は黒じゃない。本当に近くで見ないとわからないけれど灰色がかった茶色だ。ぼくはきみの眼の色をこのとき知ったんだ。深く澄んだ瞳にぼくは一瞬で虜になった。
「わたしは大岡知世。大岡越前のおおおか。知世は原田知世のともよ。いたって平凡な名前ですね」
その答えを聞いたときぼくは思わず吹き出してしまった。きみはいたって平凡などと天使の微笑みで言うけど大岡越前に原田知世だものね。たしかにきみの顔はどこか原田知世に似ていなくもなかった。だからぼくはすぐにきみの名前を覚えてしまったよ。
そんな話をしてしばらく歩いていると教会の近くの高台が見えてきた。
「ぼくの家はね、ちょうどほら、あそこの辺り。国会議事堂のうしろのちょっと緑のビルがあるでしょ。見えるかな?」
「うーん」
「ほら、あの教会の前」
きみは困ったような顔をしていた。それはそうだ。ここからうちのマンションまではドナウ川を挟んで相当な距離がある。緑色の特徴ある建物とはいえ、国会議事堂のうしろにはそれこそ100や200の建物が見えるんだから。
「でも、ほんとにきれいですね。ここからの景色」
きみは遠くを眺めてそう言った。ブタペストの街がほめられるとぼくは自分がほめられているようにうれしい。半年もこの街に住んでいると良い面も悪い面もわかってくるけど、ぼくはその両方をひっくるめてこの街が好きになっていた。街並みといい人の生活様式といい、古典にでてくる中世のヨーロッパがそのまま現代に蘇ったような雰囲気がブダペストにはある。イギリスやドイツなどの近代的な街とは明らかに違う。ただ古めかしいだけでなく、古いながらも適切に意図的に残された空間がそこにはひろがっていた。20年経った今でもそれは変わりない。人が強い意志で大事な場所を残しているのだ。後世に託すために。
その日の景色は素晴らしく、この高台に何度かきているぼくも見たことのないものだった。空気は澄んでいて、朝靄がかかっていたためか適度に湿気を帯びている。近くの木では小鳥がさえずり、遠くではバイオリンの音が聞こえていた。あの特徴ある音色はさっきの老人のものだろう。力強いわけではないが心に響く音色だ。ぼくらは少しの間だまって景色に浸っていた。
その時だった。一羽の小鳥がきみの肩に舞い降りた。たぶん観光客にいつもえさを貰っているんだろう。逃げる様子もない。きみは指先を小鳥のくしばしにあてて笑っていたね。東欧の曇りがちな空から覗く陽の光がきみの長い髪に注いでいた。そんなきみの姿はまるで美術館に飾られている絵画から抜け出たようだったよ。
「ねえ、ハンガリーへはひとりできたの?」
「・・・」
しまった。失礼なことを聞いてしまった。きみのバツの悪そうな様子を見てぼくはそう思った。ぼくはまさかひとりでは来ていないだろうと思っていたからそう聞いたんだど、きみの様子からひとり旅だということがわかってしまった。
「やっぱり、変ですよね。女性のひとり旅って」
「いや、そんなことないと思うけど・・・」
ぼくは焦ったよ。悪い質問だったとつくづく後悔した。ちょっと気まずかったけど、オロオロするぼくにきみから話しかけてくれたね。
「あの・・・、時間があれば今日一緒に観光してもらえませんか?」
「え?」
「その、逆ナンとかじゃなくて、渡川さんこちらに住んでいらっしゃるならこの街のことをよく知っているのかなと思って」
きみはそう言った。「逆ナン」じゃないなんてはっきり言われて微妙にショックを受けたけど、でもぼくは天にも昇る気持ちだったんだよ。
「え? 今日かい?」
ぼくは今日に限らず夏休み中暇だらけだったけど、あえてそう言った。万難を排してきみのために時間を作るという姿勢が見せたかったからね。
「いえ、時間がないならいいんです」
「や、大丈夫だよ。今日だけなら」
そうぼくが急いで返すときみは満面の笑みで「ありがとうございます」といってくれた。ぼくは今でもその時のきみの笑顔を覚えている。珠世が笑うといつもその顔が蘇るんだ。あのときのきみの笑顔が。眼下に見下ろすペストの街の景色とともに。ぼくの脳裏にはそのときのポートレートがずっと焼き付いている。永遠に色褪せることのないぼくの宝物だ。
「どこか、行きたいところはあるの?」
「いえ、それがブダペストはよくわからなくて」
きみはヨーロッパのいくつかの国を電車で巡ってきたといった。オランダから始まって、ドイツ、オーストリア、チェコ、そしてこのハンガリーが最後だと。前の日の夜、ブダペストの西駅について予約していたホテルに宿泊、今日は朝早くから王宮にきたという。ホテルでは疲れていたからすぐ寝てしまい、しっかり観光ガイドをみる時間がなかったといっていたね。
しかも自由になるのは今日1日だけで明日の夜の便で日本に発つという。
「え? 明日もう帰っちゃうの?」
「そうなんです。こんなに素敵な街ならもっと時間をとれば良かった」
その時のぼくの気持ちわかるかい? 旅行者だからそりゃすぐ帰るとわかっていたけどやっぱりすごく残念だった。そしてもう永遠に会えなくなるとは知らなかかったからね。そう知ってたらもっときみに何かをしてあげられたかもしれないのに。
「じゃ、今日はぼくのおまかせでいいのかな?」
「はい。よろしくお願いします」
さすがに半年も住んでいると市内の観光スポットはガイドできるほどに精通していた。着任当初、休みを見つけてはひとりで観光地を巡っていた。それに友人や家族が日本からきたときには何度も同じ観光地に行ったし、学校の同僚と行くときもあったからよく知っていたんだ。いいかげんあきあきしていたんだけど、その日はきみが一緒だったからいつもの観光地と違って見えたよ。
ぼくらは漁夫の砦を通りマーチャーシュ教会のほうへ歩いていった。教会の前には多くの人だかりができていた。中心には新郎新婦らしき人がいるのが見えるので多分結婚式があったんだろう。ぼくも何度かこの教会にはきているけど、結婚式をやっているのを見るのは初めてだった。本場のカソリック教会での結婚式だ。
きみは純白のウェディングドレスをまとった新婦に見とれていたね。ほくはその様子をみて、そのときはきみがただ憧れているだけかと思っていた。でもきみはわかっていたんだ。自分がもうすぐ死ぬかもしれないことを。そして結局ドレスを着る機会は訪れなかった。ぼくもタキシードを着たことがないけどね。
新郎新婦はとても幸せそうだった。
「素敵ですね」
「うん」
「渡川さんはこの教会、よく来るんですか?」
「そうだね、もう何回もきてるよ。でも結婚式が行われているのを見るのは初めてだよ」
「この教会はブダペストでも有名な教会だから多分お金持ちの人が式をあげるんだろうね」
「だってほら来ている人たちも見るからにお金持ちそうでしょ」
「そうかな?」
今考えればお金持ちがどうのこうのと実に下らない話しをしてしまったと思う。もっと気の利いた話ができなかったのかと後悔している。でもその時は何か話題をつくろうと必死だったんだ。
ぼくは教会の中に入りたかったので、つたないハンガリー語で式に参加している人に「おめでとうございます。結婚式をされているようですが教会の中を見てもよろしいでしょうか?」と話しかけた。
その人は式のグループにいた長老のような人にそれを伝えた。長老はぼくらを見てうん、うん、というような仕草をしたあと、こちらに近寄ってきた。
「あー、きみらはヤパーンか?」ヤパーンとは日本人のことだ。ブダペストには中国人、韓国人をはじめ多くのアジア人が住んでいる。一目見て日本人と言ってきたこの老人のことをぼくはすごいと思った。よほど多くの人を観察してきたのだろう。老人は長い白髪と髭を生やしていてその風貌はさながらサンタのようだった。もう80歳を超えたあたりだと思うが背筋はしっかりと伸びていてきちんとした礼服をきていた。
「はい。そうです。日本からきました。よくわかりましたね」
「ふふ。顔を見りゃわかる。日本人とハンガリー人は同じ血が流れておるでの」
老人はそういった。ぼくはその件について知識があった。だからきみには通訳がてらどうして老人がそういったのかをしたり顔で説明したんだ。
ハンガリー人のルーツは実はアジアだ。それがハンガリーがヨーロッパの中のアジアと呼ばれる所以だ。1000年もの昔、現在の中国北部の平原に住んでいた騎馬民族が一方はヨーロッパに、そしてもう一方は朝鮮半島から日本に移り住んだと言われている。だから混血がすすんだ現代でも一部のハンガリー人はアジア人の面影をのこす人がいる。そしてこれは有名な話だが蒙古斑がでるハンガリー人も多いらしい。言語的にもハンガリー語はウラルアルタイ語族に属し、ヨーロッパでは他にフィンランドが同じ語族でアジア圏ではモンゴル語、朝鮮語、日本語が共通の特徴ともっているとね。
このことはきみは初めて知ることだったようで興味深くきいてくれた。だからぼくは鼻たかだかだった。実際には観光雑誌のうけうりなんだけどね。
ぼくは老人のほうに向き直りきみに何をはなしたかを簡潔に伝えた。
「きみはハンガリー語上手に話すね。うれしいよ。外国人がハンガリー語を学んでくれるというのは」
ぼくのハンガリー語は決して上手くなかったが、初対面のハンガリー人は必ずそう言った。ぼくはポイント、ポイントをきみに通訳しながらそのおじいさんと話しを続けた。
「ハンガリー語は難しいかい?」
「それはもう。特に発音が難しいですね。日本語にはない母音の音がたくさんあります」
ぼくは語学教師だったから適度に文法用語を交えて話をした。すこし自慢げな顔をしていたかもしれない。きみには最初いやな奴にうつってただろう。
「彼女は君の恋人かい?」老人はいきなりそんな事をいった。
「え?」たしかに異国の地を男女がふたりで楽しそうに歩いていればカップルに映るだろう。もしかしたら新婚旅行に見えたかもしれない。そう聞かれて思わずとなりで立っていたきみの顔を見てしまった。
「何? おじいちゃんなんていったの?」
「いや、恋人かって?」
きみは顔を赤らめて下を向いてしまった。
そしてしばらく固まったように動かず、突然何か思いついたようにこういった。
「ねえ渡川さん、今日だけ恋人のふりをしましょうか」
すごい提案だった。昨日までのぼくの頭の中は今朝の天気のように靄がかかって鬱々としていたけど、いきなりその靄が晴れ渡った感じがした。ぼくは目をパチクリしてきょとんとしてしまった。ずいぶんな間抜け面だったと思う。