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あの日の朝

 20年前のあの日、ぼくは一人でブダの丘にあるマーチャーシュ教会にきていた。

 ぼくが住んでいたのはペスト側の第6区、国会議事堂にほど近い古いマンションだ。住人の多くは古くから住んでいるようで、ぼくは新参者の日本人として目立つ存在だった。当時日本からハンガリーへの直行便はなくヨーロッパのどこかの国で飛行機を乗り換えて入国しなければならなかった。僕がこの国に来た時も15,6時間かかった気がする。そのためか日本からの観光客はまだまだ少なかった。ぼくの記憶ではブタペスト在住の日本人はほんの700名程度だったし、だから日本人というだけでぼくはとても珍しがられていた。

 きみに会ったのは、ぼくがブダペストに住み始めて一年ぐらい経ったときだった。ぼくはボランティアとしてブダペストにある大学で働いていた。あのときぼくはなんか疲れていたんだろうね。ハンガリーに来て一年が経ち仕事にも慣れて言葉もなんとなく分かるようになって、本当ならそろそろ充実してくる時期なんだろうけど、異国の地でひとりでずっといたからどうも精神的に参っていたと思う。そう、言葉を探せばホームシックが一番近いのかな。今思えば鬱の症状もあったかもしれない。ぼくは孤独と闘っていたんだ。ずっと。

 あのときぼくが王宮に行ったのほんとうに偶然だった。ぼくは散歩が好きだったから休みにはよくドナウ川の岸辺を歩いていた。家からドナウ川は近かったからね。だからその日もいつものように朝早くから川辺を歩いていたんだ。まだ肌寒かったけどその日の景色は格別だった。朝靄が出ていてとても幻想的で美しかったんだ。太陽は出ていなかったけど十分明るかった。深緑の草木に露がのりぴかぴかと輝いていた。いつもは沢山人が歩いているのにその日はなぜか人影がまばらだった。ふとぼくはいつもと違う何かを朝から感じていた。そう特別な何かが起こる予感だよ。

 いつも川岸から見えるブダの丘はまだ靄に隠れて見えなかった。それほど視界が悪かったんだ。でも少し歩いていたら川下のゲレルトの丘はだんだん見えてきた。だからもう少ししたら靄が晴れることが分かっていた。

 ぼくはいつものコーヒーショップに入っていった。

「おはよう。ペティさん」

「ああ、おはようシンゴ。今日の調子はどうだい」

「とてもいいよ」

 ぼくが朝の散歩をした日には必ずここでエスプレッソのコーヒーを飲んだ。ペティカーべーというショップで、その名の通りペティさんが店長をしていた。ペティさんはとても気さくな人で、初めて会った時から明らかに外国人であるぼくに普通にハンガリー語で話しかけてきた。だからぼくも習いたてのハンガリー語で一生懸命話をした。ペティさんは英語も上手だったが、ぼくがハンガリー語を勉強していると話すと僕に対しては必ずハンガリー語を使うようになった。彼は自分の国の言葉に誇りを持っていたんだ。それはつまり自分の国を誇りに思うことだ。ぼくも日本語教師の端くれだから言葉に対する意識は高いと思っていたんだけど、ハンガリー人の多くの人のもつ誇りは自分の想像を超えるものだった。そうそれは切迫感だ。強い誇りを持たなければ自分の民族の言葉が失われてしまう、それはひいては民族自体の消滅をも招いてしまうという危機感。これが彼らのもつ強い誇りの原点だとハンガリーに住み始めて一年経ってやっとわかってきた。ぼくは外国で暮らすことで自分がいかに恵まれた環境で暮らしてきたのかということが理解できるようになった気がする。ペティさんにはぼくのハンガリーの滞在期間中、多くのことを教わった。

 ペティカーべーには客はぼくしかいなかった。いつもはなじみの客が何人かいるのだが今日はぼくひとりだ。ペティさんといつものように時事の話題について話した後、ひとりきりで話すのにもういい加減疲れを感じたぼくは、ちょっと用事があるからと店を出た。そしてそこでふとブダの丘を見上げるとそこには美しい景色が広がっていた。さっきまで視界を覆っていた靄が晴れ渡りそこには真っ青な空が広がっていたんだ。こんなにすがすがしい朝は久しぶりだった。ブダペストはずっと曇りの日が続いていた。それが今日は一転して初夏らしい心地よい日になった。ぼくは夏休みだったけどずっと天気が悪かったので昨日まで家に引きこもって暇を持て余していた。だから今日は少し遠出をしたいと思っていたんだ。

 その日のドナウ川はとても穏やかだった。ペティカーべーを出るとぼくは川岸を歩いてマルギッド島に向かった。余りに気候がいいのでぼくは最初マルギッド島にある公園で本でも読もうと思っていた。マルギッド島はドナウ川の中洲の島だ。中洲とはいっても島と名が付くだけあってとても大きい。マルギット島の中には緑豊かな公園があり市民の憩いの場になっていた。

 マルギッド橋を歩いて登って行くと島への入り口が見えてきた。ぼくはその場所がとても好きだった。ドナウ川がマルギッド島で2つに別れ、再びひとつの川に戻る場所。その橋の中央は小高くなっていて川の中央に浮いているような感覚になる。そこからは右手に王宮、左手に国会議事堂とブダペストを代表する建物が一望できる。

 そしてここからの景色は昼はもちろんのこと、何よりも美しいのが夕暮れ時から夜にかけての景色だ。薄暗くなりつつある街のところどころに灯が入り、その明かりがドナウ川に映り込む。それだけでも美しいのだが圧巻なのはライトアップされた王宮と国会議事堂だ。ぼくはそのとき20代半ばだったけどこんなに美しい景色に出会ったことはなかったしその後も無かったと思う。それほど感動する景色だった。あの日、知世と一緒にこの景色を見られたことはぼくにとってかけがえのない時間になったよ。



 お気に入りの場所であるマルギッド島の入り口でしばらくブダの王宮の方を眺めているとなぜか無性に王宮に行きたくなった。もう何度もいっている場所だけど、その日はきみに引き寄せられるように王宮へ意識が向いたんだ。どうせとくにやることもなかったからね。ぼくはやってきた路面電車に飛び乗り王宮に向かった。電車の中はエアコンがきいていた。いつも思うのだが路面電車の中のエアコンは効きすぎだ。ぼくが寒がりなだけかもしれないがその日の路面電車の中はとにかく寒かった。だけど不思議なことに一緒に乗っているハンガリー人の家族は平気な顔で椅子に座っていた。白人は日本人と体感温度が違うということを聞いたことがある。ぼくはそんなことを思いながら斜め前に座っていた家族を見ていた。


 路面電車が王宮の近くの駅につくと向かいに座っていたハンガリー人の家族が降りていった。子供は走って王宮へ向かう坂を駆けていく。親だと思われる男女は子供の名前を言いながら、たぶんそうだと思うんだけど、困った顔をして電車を降りていった。ぼくも同じ駅で降りた。ふと空を見上げると日が徐々に高くなってきている。腕時計を見ると9時近くになってぼくは驚いたよ。

 王宮の横を抜けぼくはマーチャーシュ教会に向かった。そこはブダペストの街が一望できる有名な観光スポットだ。教会に行く道のわきには画家見習いの若者やバイオリンなどの楽器を演奏する人が平日にもかかわらず何人もいた。ぼくはそこで君に出会った。バイオリンを弾く老人の前に美しく佇むきみを見つけたんだ。

 最初にきみを見つけたときはずかしいけどぼくは息を飲んだよ。こんなにも美しい人がこの世にいるのかとね。きみは永遠にあのときのままだ。ぼくの心の中であの日の美しさのまま生きている。

ぼくはさり気なく老人の演奏を聴くふりをしてきみに近づいていった。そこにはぼくときみしかいなかった。ふたりだけだ。観光客はいたけど老人の演奏に足を止める人はいなかった。きみが演奏に聴き惚れているようなのでぼくもじっと音楽を聞いているふりをした。本当は老人の演奏はあまり興味がなかったんだけどね。

 きみは目をつむっていたね。老人が演奏している間中ずっと。老人は観光客向けにハンガリーにちなんだ曲を演奏していた。フェレンツ・リストの曲とかハンガリー舞曲なんかをね。ぼくは何度もちらりちらりときみを見た。きみは目をつむっていたから気づいていないかと思ったけど後で聴いたらぼくが何度も見ていることに気付いていたと言ったね。

 老人の演奏がひと通り終わりぼくは少しばかりのお金を前に置いてあったバイオリンケースに入れた。きみもぼくの様子を見て入れようとしていたけど、ハンガリーフォリントの紙幣価値が分からずまごついていた。当時はユーロじゃなかったからね。だからぼくは思い切って話しかけたんだ。最初は英語でね。


「何か、お困りですか?」

 そしたらきみはおぼつかない英語でこう答えたね。

「いえ、その、フォリントの通貨がよくわからなくて」

 ぼくはその発音でこの娘は日本人だとわかったよ。長く外国にいると英語のなまりでだいたいどこの国の人かがわかるようになる。だから次からは日本語で言ったんだ。

「きみ、日本人?」

「あ、はい」

 きみは驚いた顔をしていたね。ぼくはさっき自分が老人に出したのと同じ額のハンガリー・フォリントをきみからもらってバイオリンケースに入れた。老人はニコリと笑った。

「あの、日本の方ですか?」

「はい、あ、うん、そうだよ」

 このときぼくは敬語の方がいいのか、フランクに受け答えした方がいいのか少しだけ悩んでフランクな話し方を選んだんだ。そのほうがもしかしたら仲良くなれるかもと少しだけよこしまな考えを持っていた。でも結果的にはそれが幸を制したかもしれない。きみは打ち解けた感じで笑顔で話し始めてくれたからね。

「きみは日本からの旅行かい?」

「はい。あなたも旅行ですか」

「いや、ぼくはここに住んでるんだ。ペスト側だけどね




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