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乾杯、そして

「車内の作りもなんか不思議ね。日本の電車に比べてこじんまりしてるし窓が大きくて開放感があるわ」

 きみはそう言いながら相変わらずキョロキョロとまわりを眺めていた。

 ふと気がついたんだけど、きみは興味深げに周りと見渡すけど写真を撮っていなかった。

「写真は撮らないの?」

「カメラを持ってないの。写真はあまり好きじゃないのよ」

 きみはそう言った。

「カメラを持ってない? ヨーロッパにまで旅行に来たのに写真を全然撮らないのかい?」

「そう。目でしっかり見ることができれば十分だわ。それに・・」

 そう言ってきみは言葉を切った。

「ううん。なんでもない。あなたはいいカメラを持っているのね」

 そういってぼくのカメラを手に取った。カメラはぼくがハンガリーへの赴任が決まり新しく購入した一眼レフだ。キャノン製のEOSというモデルでオートフォーカスを備えカメラ初心者のぼくにも簡単に扱えた。当時はまだデジタルカメラではなく、記録媒体にネガフィルムを使っていて、赴任してから写真を撮りまくったので、ぼくの部屋には大量のフィルムや写真が溢れている。

 カメラを持つ君の指は細長く美しかった。爪も綺麗に手入れされていて、その指がカメラに触れる度、ぼくの心臓が高鳴った。あの指に触れたい、いや触れられたい。そういう衝動がこみあげてくる。

「大丈夫よ。落っことさないから」

 きみの指を見つめるぼくの目があまりに不安そうに見えたのだろう、きみはそう言ってカメラをぼくに返してきた。

「わたしのかわりに今回の旅行の写真を撮ってくれる?」

「そ、それは構わないさ。でもフィルムがあまりない。途中で買おう」

 ぼくは動揺が悟られぬように言ったつもりだったけど、なんかバレてたみたいだね。だってきみはまた小悪魔のように笑っていたから。

路面電車に乗ってしばらくすると、マルギッド島の駅に着いた。正面にドナウ川、右に王宮、そして左には国会議事堂が見える。朝見た風景とは違って日が高く青い空が広がっていた。実はぼくたちはここに今夜もくることになる。それはどうしてもきみに夜のここからの景色を見て欲しかったからだ。昼も抜群に美しいが夜は夜でまた格別な雰囲気になる。

「わあ。きれいな所ね」

「でしょ。ほら、右手に見えるのがさっきまでぼく達がいたマーチャーシュ教会に王宮だよ。そして左手に国会議事堂がみえるでしょ。1時の見学会に参加する建物だよ」

「天気もいいし最高ね。ねえ写真撮ってくれる。あとで日本に送って」

ぼくは「もちろん」と答えた。でもその機会は訪れなかった。結局きみは本当の住所を教えてくれなかったからだ。

ぼくたちの乗る路面電車はペスト側の川岸の駅に着いた。ここからペティカーべーは歩いてすぐだ。ぼくはきみを連れて電車を降り、手を引いてお店の方へ歩いていった。ぼくのほうから手を引くことができたのは、外国ゆえの気安さだったからか、さっきキスをしたことで特別な感情が湧いたからかよくわからなかったけど、いつもと違うぼくだったことは確かだ。きみに触れたいと思ったし、離しちゃだめだとも思った。

ペティカーべーに入ると、もう何人かのお客さんが来ていた。中にはぼくが知っている客もいた。ペティさんもにっこりと微笑みかけてくる。もちろんぼくではなくきみに対してだった。

「ペティさん、ヨーナポット(こんにちは)」

「やあ、シンゴ。今日は二度目だね。こちらさんは友達かい」

「そうだよ。大岡知世さん。日本から遊びに来たんだ」

「ようこそ。トモヨさん。ブダペストは素敵なところでしょう?」

ペティはきみに気を遣って英語で会話してきた。

「こんにちは。えーと、ペティさんでしたっけ」

「はい。こちらのカフェでマスターをしています。シンゴはよく来るお客さんです。それにわたしは彼のハンガリー語の先生でもあるんですよ。彼のハンガリー語はほとんど私が教えましたからね。ではごゆっくり」

ペティはそう言ってきみにウインクをした。このように気安くウインクするハンガリー人はさほど多くない。彼らはどちらかというと生真面目なタイプが多いと思う。きみはぼくの友人だし若い女性ということで、ペティさん、少し調子に乗ったかな。このコーヒーショップに若い日本人の女性が来るのは珍しいからね。

「シンゴ、ランチかい?」

「うん。知世さんにハンガリー料理を紹介したくてここに連れてきたんだ。何かある?」

「ああ。うまいグヤーシュとトルトット・カーポスタがあるよ」

「いいね。じゃあそれを一皿づつお願いしようかな」

「オーケー」

注文を取るとペティはすぐにカウンターに戻っていった。本当はもっときみと話したいのは分かっていたけど、他にお客さんもいたし、ぼくたちも余り時間がなかった。次は国会議事堂の見学が控えていたからね。

「ねえ、何を頼んだの?」

「ハンガリーのスープを二皿。両方ともぼくの好物だよ。ひとつはグヤーシュといって牛肉をパプリカの香辛料で煮込んだもの。ここのはそんなに辛くはないね。パプリカはハンガリーの特産品でグヤーシュは民族を代表するスープ料理といっていい。ロシアのボルシチみたいにね。もうひとつはロールキャベツのスープ。こちらは鶏や豚の肉を酢漬けキャベツでまいたものを煮込んだスープだ。日本のロールキャベツとはに似て非なるものだけどいけるよ」

「楽しみね。そういえば周りの人が食べているのもそれなのかしら。いい香りがするわ」

確かにお昼時とあってペティカーべーの中はコーヒーの匂いより、ランチで食べているスープの匂いが漂っていた。

「そうだね。この匂いがパプリカの匂いだよ。日本ではパプリカというと西洋ピーマンとして売っているけど、こちらは甘いモノや辛い唐辛子のようなものまで、いろいろな種類のパプリカが作られているんだ。そのままでも食べるけど、粉に精製したものを料理に使うことが多いんだよ。ビタミンが豊富に入っていて健康にいいんだ」

「へええ。よく知ってるのね」

「まあね」

 きみが感心した顔を見てぼくは少しだけ鼻が高かった。これもハンガリー観光局の受け売りだ。

「知世・・さん。ちょっとここでは『知世さん』って呼ばせてもらうね。まだ、その、呼び捨てっていうのは抵抗があるから」

 ぼくはそう言ってから話し始めた。

「きみとは今日初めて会った訳だけども、なんかそんな気がしないんだ。確認したいんだけど前に会ってないよね」

「そりゃ、そうでしょ」

 きみは間髪入れずに言った。

「でもどうかしら。実はわたしもあなたを知っている気がするのよね。ずっと前から。でもこれまでの話しでは出身も違うし学校も重なるところはない。これまで全く接点がないのよ。だから初対面だと思うけど」

「そうだよね」

「そうよ。絶対」

 ぼくはきみの顔を見ながら言った。瞳をまじまじと見ることはできなかったので鼻の少し下の辺りをジッと見ながら話した。たぶんぼくはきみのお父さんとお母さんの次にきみの鼻をまじまじと見た人間だったろう。きみの鼻はどことなく愛嬌があった。大きくはなく普通のサイズだと思うけど顔が小ぢんまりしているので、普通の鼻のサイズでも大きく見えた。鼻先がちょっと上向きだったから鼻の穴も同じように大きく見えた。だから顔全体が愛嬌があるようなバランスになっているんだと思う。目は相変わらず最高だったけど、その目を見ると緊張するので鼻を見ていてその事に気付いた。鼻は普通だ。

「前世に出会っているかもね。恋人とか家族だったりして」

「ふふ。そうだね」

 そう。ぼくはこの時に思ったんだ。きみとは運命的な出会いなんだってね。まさかぼくの子供を産んでくれるとは思わなかったけど。

 そんな話をしていると、ペティがパンと注文したスープを持ってきた。もう仕込んであるスープなので思ったより早い。もし別の注文をしていたら、あと30分はゆっくり話ができただろうけど、ぼく達は国会議事堂に行く予定があったので助かった。それも考えて腹に溜まるスープにしたんだけどね。まあハンガリーでの食事はしっかり余裕をみておいたほうがいい。「え?こんなの作るのにこんだけ時間が掛かるの?」と思う事がザラだからだ。友人と来ていて時間があるときは話が弾んでいいけど、一人できて急いでいるときは本当に困る。だからぼくはいつも小説を鞄に潜ませている。何度も読んだ村上春樹の本だ。だけど今日はこの本のお世話になることは無い。だってきみが隣にいるから。

 ペティは注文の品を出すと「ごゆっくり」と去っていった。やっぱりきみにウインクをして。

「彼、店長さんなんでしょ」

「そう。ここの店長のペティさん。なかなかいい男でしょ。確か30代後半だったかな」

「わたしに気があるのかな。ウインクしてるよ」

「うーん、どうかな?ぼくの方が若くて男前だと思うけど」

「そうかしら・・・? うん。そういう事にしとこう」

 またあの微笑みだ。小悪魔のいたずらっぽい眼。そしてその時ぼくは気付いた。きみの眼が青くなっている事を。たしか今までのきみの眼は灰色だったはずだ。ぼくはただの光の加減でそう見えただけかもと思い、顔を右に動かしたり左に動かしたりして、見てみた。上や下からも見た。でもやっぱり青い。灰色ではなかった。碧眼だ。今は。

「あれ?」

「どうしたの? そんなにわたしの顔を見て?」

「いや、なんでもない」

「また、キスでもしたくなっちゃった?」

「!!」

 きみは心臓に悪いことばかり言う。『眼の色が違う』と言いかけたけど止めた。ぼくの見間違いだったかもしれないからだ。でも灰色と青を見間違うか?

「ああ、したいね。キスだけでなくもっとすごいことも」

「どんな?」

「どんなって・・」

 きみに比べたらぼくの方が常識人かもしれないってこのとき気づいたよ。

「ねえ、スープ冷めちゃうよ。その話の続きは夜にしよう。こっちの牛肉がたっぷり入っているのがグヤーシュ。こっちはトルトット・カーポスタだよ。ペティの奴、おまけしてたっぷり具を入れてくれたみたいだね」

 ペティはぼくがお金持ちじゃないのを知っている。だからこの店にくるといつもサービスをしてくれた。少しだけおかずを増やしたり、パンをお代わり自由にしてくれたりした。

「ねえ、早く食べましょ」

「そうだね」

 ぼくは取り皿にスープを分けた。今日のグヤーシュは牛の脂がよく出ていてギラギラしている。大量に食べると食あたりしそうだ。それに夜になると脂が顔のあたりに浮いてきていい良く言うとツルツル、悪く言うとベトベトになる。だけど味は最高だった。

「このスープおいしいけど、胃にもたれそうね」

「まあ、パンやこっちのロールキャベツをしっかり食べれば大丈夫さ。本当はワインがほしいところだね。このスープには赤ワインがよく合うんだ」

「飲んじゃいましょうか。わたしはいいわよ」

「え? まだ昼だよ」

「いいじゃない。旅行中だし。わたしだってハンガリーワインを楽しみたいわ。別に困ることないでしょ。運転するわけじゃないし」

「まあ、そうだけど次は国会見学だよ。酒の匂いをプンプンさせて国会に入るの?国の重要事案を決議する建物だよ」

「真悟くん、固い固い。だって旅行者向けの見学コースでしょ。他の人だって飲んでる人いるって。絶対」

「そうかな・・」

 反対しつつもぼくは飲みたい気持ちになっていた。他にも飲んでる人がいるというのは多分当たりだ。一度缶ビールを飲みながら議事堂見学している観光客をぼくは見かけている。ワインは嫌いじゃない。嫌いじゃないどころか毎晩飲むほどワインが好きだ。それにぼくにはきみに勧めたいワインがいくつもあった。ハンガリーは知る人ぞ知るワインの名産地なのだ。ここペティカーベーにも店長お勧めのワインがおいてあった。それはつまりぼくのお勧めでもある。ぼくはハンガリーワインのことも店長から教わった。

「よし、わかった。飲もう。もう少し時間があるし」

「そうよ。わたし明日帰っちゃうんだから」

 この言葉はぼくを寂しくさせた。そう。きみは帰国しぼくとの再開を果たせずに死ぬ。

 そう言うきみの瞳はやっぱり青く光っていた。虹彩の色がコロコロと変わる人間なんているのかな?灰色から青色に変わった?

「ねえ、どうしたの? わたしの顔何かついてる? あ、スープがはねてるとか」

「いや」

 ぼくはとても気になったので聞いてみることにした。

「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど」

「なに。なに」

「あの、きみの瞳なんだけど、色が変わるの? 灰色から青色に」

 余りに単刀直入な聞き方だっただった。どう聞いたら失礼にならないかを考えた結果の質問方法がこれだった。さりげなく、さらりと聞く。これが最も効果的だとそのときは思った。

「色? わたしの瞳の色が変わる?」

「そう。最初に会った時は灰色だったと思うんだ。だけど今は青い瞳をしている。気付いてた?」

 そう指摘されたきみは少し動揺したように見えた。

「いいえ。そんなこと言われたのはじめて。自分ではいつも青い色だと思っていたわ。母方の先祖にロシアかどこかの白人の人がいたって聞いたことがある。それで青いんじゃないかって。灰色になっていたなんて初めて言われたわ」

「いや、確かに灰色だったよ。灰色がかった茶色。とても印象的な色だったからはっきり覚えてる」

「そうなんだ。じゃあ変わるのかな」

 きみはそう答えていたけど、この話題にはあまり触れてほしくなさそうだった。態度がよそよそしい。

「ねえ、ワイン頼まない? 真ちゃんはいつもどんなワインを飲んでいるのかな?」

「あ、ああ。そうだね」

 やっぱり嫌な質問だったんだと思った。たぶんきみは自分の瞳の色が変わるのを知っていた。だけど触れられたくない話題だったんだ。

「ハンガリーのワインはいろいろあるよ。どれもおいしい。でも一番お勧めなのはエグリ・ヴィカベールかな。エゲルという地方のワインなんだけどそのヴィカベールという名前の意味は『雄牛の血』という意味がある。その名が示すように、血のように真っ赤なワインで少し苦味があるけど癖になる味わいだよ。でも値段は庶民的。この店にもあると思うから頼んでみよう」

 ぼくはきみの瞳のことがまだ気になっていたけど、もうその話題には触れなかった。店長のペティを呼んでエグリ・ヴィカベールを追加注文した。店長はすぐにグラスを用意してワインを注いでくれた。ワインは新しいボトルだった。コルクを抜く音が店中に響き渡る。この瞬間に何組かいたお客が全員こちらを向いた。まるで「もう飲むの?」とでも言いたげに。

「気にするなシンゴ。連中だって昼から飲んでることもある。これは店からのプレゼントだ。きみにじゃないぞ。彼女にだよ」

 ペティはそうハンガリー語でぼくに言った。またきみに向かってウインクまでして。すると驚いたことに、今度はきみがペティに向かってウインクを返した。ぼくは思わず目を丸くしてしまった。

 ピカピカに磨かれたワイングラスに注がれたエグリ・ヴィカベールはとても美しく芳醇な匂いだった。エグリのワイン農家が毎日葡萄を世話して、我が子を育てるように手を掛け成熟させた誇り高い薫りだ。ぼくはきみに視線で合図を送りグラスを手に取った。

「乾杯。ぼくたちの素敵な出会いに」

「乾杯。わたしたちの運命の出会いに」

 そう。『運命の出会い』。言葉に出してみれば月並みなフレーズだけど、その後のぼくら、いや生まれてくる娘を含めたぼく達家族のことを考えれば、確かにこのフレーズしかピンと来ない。でもきみはこの時『運命の出会い』という言葉を使った。会ったばかりなのに、まるでその後のぼくらのことを知っているかのように。ぼくがきみに違和感を感じたのは何回目だったろう。だけどぼくはまだそんな事は気にならなかった。きみと一緒にいられることがただうれしかったからだ。


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