第五話 無意識のドロップアウト
88式「盛り下がって参りました」
倉吉「いやそれおかしいから」
88式「落として上げると見せかけて更に落とす、これ基本です」
倉吉「そのまま沈んで戻ってこないでしょそれ」
88式「いっそ基準面を落としたところまで下げれば問題ない」
倉吉「お前は何を言っているんだ」
チュンチュン…
「…知らない天井だ」
これって初日にやるネタなんじゃないかしら…
…うん、寝惚けているね。
今日はお休みなのでのんびり寝ていられる。けれど悲しいかな。
妹弟のお弁当係は私だったおかげで五時起床が体のリズムになっていて
どんなに疲れていてもこの時間に目が覚めてしまう。
ちなみにこの部署の事務係である私と倉吉さんの月あたりの休みは
四日ほどらしい。労働基準法ってなんだろう?
ちなみに私が来る前は休み自体がなかったらしい。
どういうことなの…
未だ完全に起きていない頭を叩き起こすために私は洗面所に向かう。
着替えようとクローゼットにかけられた私服を手に取ろうとして、手が止まった。
休みの日に友達と遊ぶ際によく着ていたお気に入りの服。
ちょっとおめかしして出かけたい時用の外行きの服。
外に出ずに家でゴロゴロする日のパジャマ一歩手前の服。
見慣れたそれらが、何故か、いつもと違うように見えた。
これは、今の私が着る服なのだろうか。
そんな考えが、一瞬、頭に浮かんだ。
そのすぐ隣には、第七種冒険者の制服がかけられている。
鍵付の保管庫の中には、ホルスターと拳銃がある。
そこは、日常と非日常が、隣り合わせになっていた。
いや、誰も意識しようとしないだけで
この世界は既に日常と非日常が隣り合わせなのだ。
私は…しばしの逡巡の後、制服に着替えた。
冒険者組合 屋内射撃練習場
訓練を受けたといっても、一日やそこらで腕が上がるはずも無く、
週一回の訓練はしばらく継続的に受ける仕組みになっている。
また、月あたりの最低射撃訓練回数は内規により
冒険者類別及び主要使用火器によって定められていたりする。
第七種冒険者は割りと訓練に関しては自由裁量の面があるので
2、3ヶ月で射撃コーチによる訓練課程は修了となり、
以降も3ヶ月に一回の訓練が課されているだけなのだ。
…これで本当に大丈夫なのかな?
常に銃を携行するにも関わらず、この程度にされているのは
実際に発砲する機会はほとんどなく、武装している事そのものが
求められているだけだからなのかもしれない。
「ま、一日二日でできるようなもんじゃない。まずは安全管理が先だろうな」
「あはは…これじゃ天の川の彫刻ですね…」
訓練教官…彼も第七種冒険者。銃器の整備係も兼ねている…が
そいつはいい、と豪快に笑って、私の頭に拳骨を落として隣のブースに移動する。
初日の訓練のときもそうだったけれど、彼の鉄拳制裁には躊躇が無く
女性であろうが手加減の「て」の字もないのでかなり痛い…。
「でも教官、あれならうちの最初の頃よりましですよ~」
「あそこまで当たらないのは逆に才能だったな。今でも褒められたモンじゃないが」
なるほど確かにマンターゲットにこそ当たってはいるけれど
やたらと弾痕がばらけている。
教官の言葉を鑑みるに、狙って散らしたというわけではなさそうだ。
あの特徴的な口調からすると、仕切られた隣のブースにいるのは
真田さんが指揮官になっている新人チームの中の一人…
私を「そーこさん」と呼び始めた上田恵理さんだったはずだ。
別に、根に持っているから覚えているとか、そういうわけじゃないですよ?
ホントですってば。
「それにしても教官、実際問題としてニューナンブで怪物に対抗できるんですか~?」
「当たり所がよければな。だから訓練するんだよ」
ニューナンブといえば一昔前のお巡りさんの拳銃でお馴染みだろう。
でも、今では迷宮封鎖部隊や警邏中の警官は拳銃だけではなく
軍隊が装備しているような小銃などで武装しているのが普通だ。
治安の悪化は他国ほどではないにしろ、ここ日本でも社会問題になっているからだ。
また、冒険者組合の受け入れにあたって警察官の重武装化が
求められたのもその原因の一つなのかもしれない。
「ヤツらの中にはかなりすばしっこいのもいる。懐に入り込まれたら
咄嗟に銃を向けやすい拳銃の方が頼りになる事もある」
「でも、うっかり味方にも銃口が向きかねないって事ですよねそれ~」
「そういう事だ。だから、訓練するんだよ!いいからさっさと弾を込めろ」
「はぅっ、痛いですよ~」
「実戦なら痛いでは済まんぞ。ほら慌てず急げ!」
ニューナンブはリボルバーなのでシリンダーに残った
空薬莢を排出した上で一発ずつ弾を込めないといけない。
その点、私が携行するワルサーPPKは自動拳銃なので
予め弾を入れてある弾倉を交換するだけでいいので楽ではある。
もっとも、教官が言うにはどちらも利点と欠点があるらしい。
世の中なかなか簡単にはいかないって事なんだろうね。
「教官殿、上田はどうです?」
「ご覧の有様だよ」
「教官ひどぃ~」
「あら、隣は?」
「あぁ、只野が射撃訓練中だ。酷いもんだぞ」
どうやら真田さんが様子を見に来たらしい。
「酷いもん」なのは事実なので反論のしようが無い…。
「酷いもん、ねぇ。調子はどう?只野さん」
「ご覧の有様ですよ」
教官の口調を真似てみた。真田さんがくすくす笑いながら
聞かれたら雷落とされるわ、と言うので首を竦めたが
どうやら発砲音に被さって隣には聞こえなかったようだ。
私の脳細胞がかなりの数救われたのは間違いない。
そして、彼女は私に射撃のレクチャーをしてくれた。
鉄拳制裁こそなかったものの、ヘマをすれば怒号が飛ぶ。
倉吉さんが、ある意味教官より怖い、と表現したものを
身をもって知る事になった。
…でも、彼女は何も聞こうとはしなかった。
それが、真田さんの優しさだったのだと思う。
宿舎に戻ってすぐに私は着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。
それでも、ほんの少し前に習った通りに銃は保管庫に所定の通りに片付けていた。
残酷だ。
まだ「私」はこの非日常を受け入れていない。
にも関わらず、只野聡子という人間は、非日常に埋没しつつある。
こういう場合
日々を、なるようになる
と過ごせるのは
日々が、なるようになるべく
機械的に処理されているからだ。
それが、本人の望むと望まざるに関わらず、である。
これは何も個々人に限らず、組織や社会に照らし合わせたとしても同じ事だ。
例え、「私」がここで世界に絶望して保管庫の中の拳銃で頭を撃ち抜いたとしても
世界は変わらず、「なるように」なるだろう。
同僚の三上、相談にのると言った真田といった冒険者組合の面々、
まだ連絡をとる事ができる「日常」の側の友人、
それどころか、もっと近い彼女の家族であったとしても、「なるように」なるだろう。
人、そしてそれによって構成される世界の防衛機能には、忘却というものがある。
その効果は、非常に高い。しばしばその効能が薄れる事はあるが
人が、世界が、日常を謳歌できるのはこの機能があるからである。
だが、その機能が効果を発揮するには時間という触媒が必要とされる。
その時間を稼ぐために、なるようになるべく、人は、世界は、処理するのだ。
「なるようにならない事」を。
つまるところ、「私」はなるようにならない事を忘却して
なるようになる…いや、なるようになっていると思い込むために
なるようになるべく、処理していた。
旧友に連絡をとって、遊びに出かけるでもなく
休日に、お気に入りの服で出かけるでもなく
ラフな格好で部屋でゴロゴロと過ごすでもなく
手にしていくらも経っていない拳銃を手に
冒険者組合以外の関係者の居ない射撃訓練場で
先輩冒険者に射撃の手ほどきを受けていた。
その日、無意識に「なるようになるべく」非日常の側に
足を踏み入れていたのだと私が気付いたのはずっと後の事だった。
88式「ようこそ、クソッタレな職場へ」
倉吉「それ恵理君の元ネタ関連の台詞じゃないの。むっちゃ不吉だよ」
88式「クソッタレなヤツらをクソッタレにする仕事のフォローが
クソッタレじゃないわけないじゃない」
倉吉「クソッタレがゲシュタルト崩壊するからやめよう」
88式「本編で「なるように」がゲシュタルト崩壊しかけているけどね」
88式「冗談はともかく、これでやっと導入終わり」
倉吉「聡子君はクソッタレな職場でどう振舞うんだい?」
88式「それは今後のお楽しみという事で」
倉吉「ま、だいたい分かるけどね」
88式「まぁ、一見まともに見えても、この職場にはね…」
倉吉「僕を含めて クソッタレ しかいないからね」
88式「そういうことだ」