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第10話:運命

 ……頭が痛い。


 割れる、という表現が一番近かった。


「――っ……」


 呻き声と同時に、意識が浮かび上がる。

 ゆっくり目を開く。


 天井。

 照明。

 俺の部屋。


「……?」


 一瞬、理解が遅れた。


 さっきまで――ダンジョンにいたはずだ。

 アンデッドの王。

 黒い霧。

 プリシラの叫び声。


「……ログアウト、したのか?」


 呟いた直後、こめかみに鋭い痛みが走る。


「っ……く……」


 頭を押さえ、身体を起こす。

 視界が少しだけ歪む。


(……あれは、何だったんだ)


 最後に見た、黒い霧。

 俺の中に――流れ込んできた感覚。


(考えても……分かるわけないか)


 喉が渇いていた。

 水を飲もうと、ベッドから降りる。


 立ち上がった瞬間。


「……っ」


 視界が揺れた。


 一歩、踏み出す。

 世界がふらつく。


「……おかしいな」


 廊下に出たところで、胃が締めつけられた。


「……う、っ……」


 吐き気。


 耐えきれず、膝をつく。

 呼吸が乱れる。


(……何だ、これ)


 フルダイブの後遺症か?

 それとも――


 脳裏に、あの声が浮かぶ。


『汝は、選ばれた』


「……まさか……」


 次の瞬間。


「――ゲホッ!」


 激しく咳き込む。


「が……っ、は……!」


 口元に手を当てる。

 そこに付いたものを見て、血の気が引いた。


 ――黒い血。


「……っ!?」


 心臓が跳ねる。


「や……ば……」


 冗談じゃない。

 これは、現実だ。


 そのとき。


 部屋の奥から、黒い霧が立ち上った。


「……え?」


 見覚えがある。

 嫌というほど。


 霧は広がり、近づいてくる。


「……やめろ……」


 下がろうとしても、足が動かない。


「来るな……! 来るな!!」


 黒が、視界を塞ぐ。


 息ができない。

 何も見えない。


「うわああああああああ!!」


 闇の中から、声が響いた。


『――もうこの世界からは逃げられない』


 冷たく、断定する声。


「……っ!?」


 次の瞬間。


 ――ガバッ、と。


 俺は跳ね起きた。


 荒い呼吸。

 鼓動が早い。


「……は……ぁ……はぁ……」

「ヤマト君!!」


 視界が定まる。


 そこにいたのは――

 心配そうに俺を見下ろす、プリシラだった。


「……プリシラ?」


 現実世界に戻ったと思ったが、まさかさっきのは夢だったのか? 


 彼女の肩が、びくりと跳ねた。

 次の瞬間、顔を伏せて――


「よかっ……よかったぁ……!」

「え……ちょ、ちょっと待て」


 慌てて上体を起こそうとするが、力が入らない。


「三日三晩……ヤマト君、全然起きなくて……」


 握られていた手に、力がこもる。


「もう……死んじゃったのかもって……」

「……三日? そんなに……寝てたのか、俺」


 プリシラは、こくりと頷いた。


「……何が、あったんだ?」


 そう聞くと、彼女は少しだけ呼吸を整え、ゆっくり話し始めた。


「……黒い霧に襲われたあと……ヤマト君、急に倒れて……」


 ――覚えている。

 闇に沈む直前の感覚。


「動かなくなって……でも、息はしてた」


 プリシラは唇を噛む。


「だからヤマト君を担いで、ダンジョンを出ようとしたの」

「……一人で?」

「うん……でも……」


 途中で、モンスターに襲われたらしい。

 逃げながら、防ぎながら、必死だったという。


「……その時」


 彼女は顔を上げる。


「同じダンジョンで狩りをしてた、別のパーティの人たちが……助けてくれたの」


 だから、なんとか生きている。


「街まで運んで……家に連れ帰って……」


 そこで、また声が震えた。


「……でも、全然起きなくて……」


 だから、医者を呼んだ。

 診てもらった。

 それでも、目は覚まさなかった。


「……そうだったのか」


 俺は、天井を見たまま呟いた。


 あの間、俺は――夢を、見ていたのか。


 そのとき。


 ――コン、コン。


 扉が、軽くノックされた。


「……失礼するぞい」


 声と同時に、扉が開く。


 白髪の老人が、杖をついて部屋に入ってきた。

 落ち着いた目で、俺を見る。


「……ほう」


 小さく、頷く。


「目を覚ましたか。よかった、よかった」


 プリシラが、立ち上がる。


「先生……!」

「うむ」


 医者らしき老人は、俺の方へ歩み寄った。


 その視線が、どこか――様子を測るようだった。


 脈を取り、瞳を覗き込み、胸元に手を当てる。

 その動きは落ち着いているが――表情だけは、わずかに硬い。


「……身体そのものに、異常はない」


 そう前置きしてから、医者は続けた。


「骨も、臓も、血の巡りも正常じゃ。衰弱もしておらん」


 プリシラが、ほっと息を吐く。


「じゃあ……」

「ただし」


 医者は、そこで言葉を切った。


「“原因”は、分からん。病でも、毒でもない。呪いとも……少し違う」


 医者は俺を見る。


「だがな、お前さんの中に確実に――魔力の痕跡が残っておる」

「……魔力?」

「しかも、普通の魔力ではない」


 そう言って、医者は俺の上着を少しだけめくった。


「失礼するぞい」


 胸元。

 心臓の少し下。


 そこに――あった。


「……これは……」


 黒く、薄く。

 まるで染みのように、皮膚に刻まれた痣。


 形は定まっていない。

 だが、じっと見ていると――わずかに、脈打っているようにも見えた。


「……これ、いつの間に……」

「最初に診た時にはなかった」


 医者は静かに言う。


「だが、翌朝には現れておった。消えもせん。薄くもならん」


 プリシラが、不安そうに声を上げる。


「それって……悪いものなんですか?」

「分からん。ただ一つ言えるのは……」


 一拍置いて。


「この痣が影響しているのか、お前さんの身体は――少し“変わっておる”」

「……変わってる?」


 医者は、杖で床を軽く叩いた。


「……この世界の“存在”として、固定され始めておる」


 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


「それってどういう……」


 医者は、はっきりと言った。


「半分――NPCじゃ」


「……は?」


 思考が、止まる。


「完全な人間でもない。完全なNPCでもない」

「俺が……NPCに」


 医者は続ける。


「この痣は“刻印”じゃ。何かが、お前さんをこの世界に縫い留めた」


 プリシラが、息を呑む。


「じゃ、じゃあ……ヤマト君は……」

「今すぐどうこうなるわけではない」


 医者は、そう言ってから俺を見る。


「だが、これ以上刻印が深まれば――“人としての仕様”は、少しずつ失われていくじゃろう」


「眠らなくなる。空腹を感じなくなる。傷の治り方が、変わる」


 一つずつ、淡々と。


「やがては……この世界から“ログアウトできない存在”になる」


 部屋が、静まり返った。


 俺は、胸元の痣を見つめる。


 あの声が、脳裏に蘇る。


『――お前は、もう逃げられない』


 俺は、意識を切り替える。

 いつも通り、頭の中で「メニュー」を呼び出した。


 ――ピッ。


 視界の端に、半透明のウィンドウが展開される。


 ステータス。

 装備。

 スキル。

 クエスト。


(……あるな)


 だが。


 視線を下へ、下へと滑らせて――俺は、気づいた。


「……?」


 いつも、そこにあったはずの項目がない。


 ログアウト。


 強制終了。

 安全切断。


 ――どこにも、ない。


 何度も確認する。

 ページを切り替える。

 設定を開く。


 それでも――


「……消えてる……?」


 胸の奥が、じわりと冷えた。


 これは、不具合じゃない。表示漏れでもない。

 最初から、存在しないUIのようだった。


 俺は、そっとメニューを閉じた。


 現実に戻れないんじゃない。


 戻る選択肢そのものが、消されたんだ。 

 否応なく。逃げ場なく。


 そういう“存在”に、なってしまった。


「知っての通りわしはNPCじゃ。この世界の医者としての役割を与えられとる存在。そして同時に……お主が“プレイヤー”であることも、把握しとる」


 胸の奥が、静かに沈む。


「元に戻してやりたい気持ちはある。だがな……これは病ではない。治療も、投薬も、手術も――意味を持たん」


 痣の方へ、視線を落とす。


「これは“状態変化”なんじゃ。世界そのものが、お主を別の存在として扱い始めておる」


 プリシラが、不安そうに口を開く。


「……じゃあ、本当に……どうにもならないんですか?」


 医者は、すぐには答えなかった。


 ――数秒。

 そして、小さく息を吐く。


「じゃが……完全に、手がないわけではない」


 その一言に、空気が動いた。


「この国の王都に、霊媒師がおる。そいつ名は――ガーレ」


 俺は、顔を上げる。


「霊媒師……?」

「うむ。呪い、超常現象、魂への干渉。この世界でも、そういう“境界の異常”を扱える数少ない存在じゃ」


 医者は、俺を真っ直ぐ見る。


「解除できるかは分からん。だが――“解除方法を知る可能性”なら、ある」


 それだけで、十分だった。


「……行けってことか」


 医者は、静かに頷く。


「わしにできるのは、ここまでじゃ。だが、何もしなければ……お主は、この世界に完全に固定される」


 プリシラが、俺の袖を掴む。


「ヤマト君……」


 俺は、一度だけ目を閉じ、そして開いた。


「……分かった」


 答えは、もう決まっている。


 ログアウトは、消えた。

 戻る道は、断たれた。


 なら――


「王都に行く。霊媒師に会う」

「それでいい。――まだ、“可能性”が残っておるうちはな」


 俺は、胸元の痣に手を当てる。


 消えない。

 だが――終わりでもない。


 この世界で生きる理由は、

 また一つ、前に進む理由へと変わった。


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