杖の結び【第玖話】
その夜、風は昼の熱をすっかり捨てていた。雲は低く、街灯の明かりを鈍く撫でている。
昼間の踏切で感じた“捻れ”の余韻が、まだ骨の奥に残っていた。輪は静めても、内のどこかで小さく回り続けている。止めようとしても止まらない。封じようとするほど、身体はゆるやかに反撥して、中心へ戻ろうとする。
「もう、やめてもいいのか」——そう問いながら歩いていた。
由比の言葉が思い出される。「六連は技だ。けれど、技は呼吸と同じで、止めたければ止められるものではない」
角を曲がると、老女ハルがいた。薄い外灯に照らされ、杖をついて立っている。
「こんばんは」
「まあ、蓮さん。こんな時間に」
彼女は笑って言った。「風が変わったね」
その杖の先を見た。節の古い木に、ほつれた布が巻かれている。
「それ、だいぶ擦れてますね」
「ええ。若い頃に拾った布なのさ。歩くたびに擦れて、もう風も通らん」
蓮はふと、胸の輪がひとつ鳴った気がした。
鞄の中には、地下の碑文の前で拾った白布がある。由比が「印を持て」と渡してくれたものだ。
彼はその布を取り出し、杖の先に結んだ。指先で結び目を整える。風が通るように、少し隙を残した。
「……これで、また歩けます」
「そうかい」ハルの声が柔らかい。「結ぶことは、回すことと同じだよ。止まっているようで、風を連れている」
蓮は頷いた。布の結び目が微かに揺れた。風がそこから出入りしている。
呼吸を合わせるように、一度、深く息をした。壱の輪、弐の往復、参の払うが、胸の奥で一度に重なり、輪が閉じて、開いた。
身体の奥、ポコチンが静かに応じる。ポコチン回天剣舞六連——名を思えば、輪は自然に姿勢を整えた。
「ハルさん」
「ん?」
「この風、まだ誰にも知られていません。けれど、いつか誰かがまた回すと思います」
「そりゃそうさ。回るものは、生きる。止まるものは、風を忘れる」
杖に結んだ布が、まるで夜の灯のように揺れた。
蓮は微笑し、静かに一礼して歩き出した。風が背中を押す。
封じるか、回すか。答えはもう要らなかった。
ポコチンが描く輪が教えていた——回すことが、生きることそのものだと。




