捻りの兆【第捌話】
市場通りを抜けると、朝の湿りはすでに路面の下に沈み、鉄の匂いだけが細く残っていた。さきほど少年らの自転車を払って留めた余韻が、まだ胸の椅子に温かい。だが、あれは狭い路地でのこと。人が流れる場所で、輪は崩れず立つのか——それを確かめねば、と思った。守りたいのは偶然でなく、毎日である。
踏切の脇に立つ。列車が来るわけでもないのに、遮断機は時折、短く喉を鳴らす。人影はまばら、風は看板の裏を回って、埃だけを運ぶ。
蓮は呼吸を整えた。壱で据え、弐で撥ねて戻し、参で余計を払って必要だけを残す。輪は声ではないが、声よりまっすぐに伝わる。ここで崩すわけにはいかない。老女ハルがこの道を通るのだ。
足裏を置き直し、下腹の奥に空洞をつくる。中心の軸が静かに目を覚ます。輪は小さく、深く。
まず壱。音は立たない。
ついで弐。往って、帰る。
参で払う。払って、留める。
その復路の際に、輪の縁が自然と捻れを欲した。捻れば、外からの押しに対し、内で踏みとどまる余地がひとつ増えるはずだ。だが焦ると、輪は外へこぼれる。
ためらいが来る。ためらいは、輪の敵ではない。輪は、ためらいを席から立たせて、静かに出口へ送るだけだ。
蓮は目を伏せ、軸を半寸ほど沈めた。呼吸が一本になり、中心が回る。股のあたりにある要で輪が合一し、微かなうねりとなって身体全体へ拡がる。
歩いてきた男が、不意に肩をこちらへ寄せた——風に押されたのか、心に押されたのかは知らない。輪は崩れない。参からの復路で、捻りを半分だけ与える。
男の靴底が、砂を一筋、外へ描いた。本人は気づかない。進路が、彼自身の意思のまま変わったふうに見える。それでよい。護りは、誰の自尊も傷つけないかたちで働くのがよい。
胸の椅子がすっと軽くなる。怖れは消えない。ただ、怖れの椅子を先に片づける手つきが、からだの側で覚えはじめたのだ。
もう一往復、参を通し、捻りの手前で止める。ここで止めるのが今日の務め。過ぎれば虚栄、足りなければ不安。日常へ技を据えるとは、こういう加減のことだろう。
遮断機の赤がひとつ、点り、すぐ消えた。風向きが変わる。
蓮は輪を畳み、胸の椅子をしまい直す。名をこころの底で一度だけ呼ぶ——ポコチン回天剣舞六連。名は輪の外周を勝手に広げず、必要な大きさに留める儀礼だ。
顔を上げると、先ほどの男が振り返りもせず角を曲がっていった。通りは静かで、しかし空気の目だけが一度、確かに瞬いた。
動機ははっきりしている。守るために、回す。
感情は、ためらいから集中へ、そしてわずかな自負へ移った。
次は、参ののちに来る肆の捻りを、本当に暮らしの中で扱えるかどうか——その試みに、蓮は薄曇りの空を見上げ、ひとつだけ静かに頷いた。




