払って、留める【第漆話】
空き地を出た足は、そのまま市場通りへ下った。曇天は低く、魚屋の氷だけが白く明るい。朝餉前の人影は少ないが、声はある。包丁の音、古新聞の擦れる音、誰かが浅く咳をする音。耳が拾うものは増えたが、心は騒がない。弐の輪——撥ねて、戻る——を覚えた身体が、音の行き来に合わせて、勝手に呼吸の拍を刻むのだ。
角を曲がったところで、老女ハルの小さな背が見えた。片手に買い物籠、もう一方は腰へ添えられ、歩みがわずかに頼りない。
「おはようございます」
「——おや、蓮さん。早いねえ」
籠を受け取り、歩幅を合わせる。路地の水平はかすかに傾いていて、石畳の継ぎ目がところどころ段差をつくる。つまずけば危ない。蓮は歩幅を半歩だけ縮め、足裏で段差の気配を先に受け取って、老女の肩ごしに道の起伏を平らげるように進んだ。
角の手前で、粗い声が降ってきた。少年たちが自転車を二台、横に広げて塞いでいる。退屈の匂いがして、退屈はたいてい、誰かの小さな邪魔となって現れる。
「通しておくれ」とハルが言うと、笑いが返ってきた。「おばあちゃん、遠回りしてよ」
声は軽いが、体の置き方が重い。粗い視線は粗い輪を呼ぶ——由比の言葉が浮かぶ。こちらが粗くなれば、粗さは倍になって戻る。細い輪で、細く払う。払うのは、斬るためではない。
蓮は籠を片手に、足を止めず、呼吸だけを半拍ずらした。胸の奥に椅子を置き、壱で据える。ついで、弐——撥ねて、すぐ戻す。
その復路の間に、払う。右へ半分、左へ半分。手は上げない。声も出さない。輪の縁だけが、少年らの自転車の前輪と、地面と、風の隙間を撫でて通る。
鎖が一度だけ、乾いた音で鳴った。タイヤは、誰の命令でもなく、勝手に向きを変えた。少年たちは互いに視線を交わしたが、からだはもう退いており、退いたことを引き返すほどの理由もない。退屈は別の場所を探しに行った。
「助かったよ」とハルが言う。
「いえ、たまたま、風の機嫌がよかっただけです」
老女は笑い、目尻に細い皺を寄せた。「回るものは、機嫌を扱うのがうまいのさ」
蓮も笑い、胸の椅子をしまい直す。輪は、出しっぱなしにするものではない。畳むことが、輪の礼儀だ。
市場を抜けると、薄日の中に由比堂の看板が見えた。戸の前には黒い車はない。だが、いないことが安全の証ではないことも、この数日で学んだ。
由比は帳場の紙を束ねていた。「顔がまた変わったね」
「道の段差が、よく見えるようになりました」
「見えるようになったのではない。見えないものを怖れなくなったのだよ。目は昔から、同じところに付いている」
湯気の立つ茶が一杯、置かれた。湯の面に小波が立ち、すぐ消えた。
「参の輪は?」
「いま、払って、留めるところまで」
「それで十分。参は、余計を払って必要だけを残す輪だ。払う最中に昂るようでは、まだ弐の途中ということだろうね」
店の外から、配達のトラックのバック音が、遠く近くなり、やがて止んだ。由比が一度、顔を上げる。
「粗い音が増える。しばらくは、細い輪で暮らしなさい。細い輪は、世界に取り落とされる。取り落とされるうちは、まだ安全だ」
蓮は茶を飲み、深く息を吐いた。胸の内で輪が一度、静かに撥ね、深く戻った。
ポコチン回天剣舞六連——名を心の底で呼ぶと、輪は勝手に大きくならず、必要な大きさだけで立った。名は、驚くほど実用的な道具であり、儀礼であり、そして護りである。
店を出ると、薄日はもう傾きかけていた。路地の猫が塀の上を渡り、尾の先で空気の目盛りを測っている。
壱で据え、弐で往復し、参で払って留める。




