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輪の順序【第伍話】

夜の公園で輪をひとつ覚え、家路についたはずの足は、朝になるとまた〈由比堂〉へ向いていた。眠りは浅く、しかし悪くはなかった。身のどこかが、ゆるやかに回り続け、その回転が眠りをみださず、むしろ底を支えたからである。


 戸を押すと、由比はもう起きていて、店の奥、紙魚しみの匂いに混じって、湯気のたつ茶碗が二つ並んでいた。

「顔が変わったね」と由比は言った。

「少しだけ、輪が見えた気がします」

「見えるようになると、世界のほうが君を見つける。気をつけることだ」


 階段を降りる。地下は昨夜よりも明るく、石面の文字は、湿りを帯びながらも、どこか乾いた音で胸に触れてくる。

「輪は順序だ」と由比が言う。「はじめは小さく、次に深く、そして重く。力で押すのではない、重力の言い分を聴き、その返事に身を合わせる。そうして六つ、連ねる」

「六つ——」

「名は昔からある。ポコチン回天剣舞六連。言葉に剣が入っているが、相手を斬るための剣ではない。自分の恐れを切り離すやいばだ」


 石に掌を近づけると、ひんやりとした湿りの奥に、かすかな温度の芯がある。昨夜、公園の砂が発した微かな音と同じ調子で、芯が脈を打つ。

「壱は覚えました」と蓮は言った。「輪を小さく、深く……」

「では弐だ。ねる。だが跳ね返るのではない、撥ねて、戻る。往って、帰る。往きっぱなしの輪は、いつか自分を離れる。帰ってくる輪でないと、護りにはならん」


 言葉と呼吸だけが教えであった。由比は一度も身振りを見せない。そのくせ、身振りよりも明確に、次の輪の形が胸に入ってきた。

 蓮は目を閉じ、足裏の熱を収め、骨の奥に空洞をつくる。そこへ夜の砂の感触を少しだけ招き入れ、昨夜よりもわずかに高い位置で、輪の端を撥ねさせる。往って、帰る。往って、帰る。細いすだれを風がくぐるときのように、音は立たないが、たしかに通過が起きる。


 地下の空気が、きし、と鳴った。

 由比は眉を上げ、「それだ」と小さく言ったきり、黙った。

 輪の撥ねは、石の文字と呼応した。往路で文字は薄れ、復路で濃くなる。往復のあいだ、恐れが刈り取られてゆく——そう感じられた。恐れの茎に刃が入るのではない。刃のほうが茎に招かれて、そっと離れるのだ。奇妙な清涼が、胸の底を走った。


 階段の上で、人の気配がした。戸外の風に混じる、わずかな油の匂い——昨夜、公園の端で嗅いだものに似ている。

「見つけられる、と仰いましたね」

「見つける側にも順序がある。荒い輪から来る。粗い視線は、粗い視線を呼ぶ。細い輪を重ねなさい。細いほど、世界は君を取り落とす」


 蓮は頷いた。輪をいったん畳み、呼吸の奥へ格納する。

 石面の前に膝を置き、さらに一度だけ、往って、帰る。

 往復は、旅ではない。往復は、居ることの練習である——そう思えた。恐れが立ち上がる前に、恐れの椅子をそっと片づける、その手つきが、今はできる。


 階段を上がると、外は薄日であった。由比堂の正面に停まっていた黒い車は、ちょうど角を曲がるところで、尾を残さず消えた。

「用心を」と由比が言い、茶碗を一つ、蓮に押しやった。湯気は静かで、湯の面に小さな波紋がひとつ、すぐ消えた。

 蓮は茶を飲み干し、軽く礼をして、路地へ出た。足裏は今日も自分の重さを受け止めるが、その重さは昨日までのものではない。輪の往復が、重さの内訳を変えてしまったのだ。肩の力は抜け、しかし背の芯はいつもより高く、歩幅は狭いのに、行きたい場所へは遠回りせず届く。


 角を二つ曲がる。電線の黒は雲の白を切り、風の目はまだ完全には醒めていない。

 壱の次に、弐。弐の次に、参があるのだろう。順序はまだ遠いが、遠いものは、順序を守れば近づいてくる。

 蓮は歩きながら、背中で小さく往って、帰った。音は立たず、しかし確かに、世界のほうが一度、瞬きをした。

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