初動の回天【第四話】
石段をのぼり、路地へ出ると、空気はまだ地下の冷たさを手首に留めていた。昨夜の閃光は、今朝になっても町の耳奥でくぐもった音を鳴らし続けている。電線は風に渋く唸り、どこかの窓辺で見えない盥が微かに震えた。
由比堂の戸を閉めたあとも、碑の文字は胸裏でくっきりと灯っていた。あの石面から返ってきた熱は、手のひらにではなく、身体のもっと奥、名づけようのない中心へ沈み、そこから薄い輪を拡げている。
夕景が落ち、灯の少ない公園を選んだ。人影はなく、砂場は昼の温もりを失って、しんと冷えている。ベンチの背凭れにコートを置き、息を吐く。呼吸は白く、すぐ形を崩した。
蓮は立った。足裏の砂が指の間でかすかに鳴る。耳の遠くで、昨日の老女の声がする——あんた、まだ回せるのね。
それが何を指すのか、もう分からぬふりはできぬ気がした。地下の碑文は、言葉であり、技であると教えた。名は——ポコチン回天剣舞六連——と。
最初の輪は、小さくてよいのだと、直感が言った。肩や腕に力を持たせぬよう、呼吸だけを深く、骨盤の奥でそっと渦を作る。回すというより、世界の軸を少しだけ撓ませるつもりで。
ひゅう、と細い音がして、膝の裏に風の舌が触れた。砂が一粒、踝をかすめてはねる。恐れが来る前に、第二の輪を重ねる。最初よりも僅かに広く、けれど深く。
胸骨の下が温かい。重力が、いつの間にか別の法で働きはじめる。遠い鉄橋を渡る貨車の低い響きが、この身の中心と連れ立って、ゆっくりと行き来する。輪は三つ、四つ——否、数えることに意味はない。輪が輪を招くのだ。
近所の犬が一声、短く吠えた。闇の向こうで自転車が鎖を外す乾いた音。気取られてはならぬと足を引いた瞬間、背中のほうから小石が飛んできた。少年の悪戯か、風のいたずらか。
思案より先に、身体のほうが応えた。中心の輪がふっと沈み、別の角度で立ち上がる。石は指先の手前で重みを失い、砂を掻いただけで転がった。自分のしたことを、五感があとから理解する。護り、という言葉が、どこからか遅れて届く。
公園の外れ、鉄製の看板が風に鳴った。古い釘は音を嫌う。あの閃光の朝から、世界はわずかに傷みやすくなった——その感触が、輪の中に混じっている。
蓮は目を閉じ、輪を絞る。絞れば絞るほど、足裏の砂は静かになり、逆に耳は遠くを拾いはじめる。踏切までの距離、信号の切り換わる瞬き、誰かの部屋で茶が注がれる微かな湯の息。世界が自分のまわりでではなく、自分の中で回っている。そう錯覚したとき、怖れもまた輪の一部となって、静まった。
長い息を吐くと、白いものが目の前で壊れ、すぐ夜に吸い込まれた。
壱の型が、これでよいのかどうか、誰も教えはしない。だが碑の熱が嘘をつくとは思えなかった。輪は小さく、深く、そして重く。身を護るために、まず重力の言い分を聴く。
蓮はもう一度だけ、輪を作った。今度は最初よりも静かに、しかし確かに。公園の砂が鳴かない。足音が消える。自分の輪郭が薄くなって、代わりに芯だけが濃くなる。輪の中心は、からっぽであって、満ちてもいる。人の名の届かない部屋で灯がともるように。
どこかの窓が閉まり、遠くで新聞束の落ちる音。時間が夜更けの背骨をゆっくりと下りていく。
蓮はコートを肩に掛けた。もう一度、砂を踏んで確かめる。重さは戻ってきたが、先ほどとは別の重さだ。自分のものであって、自分だけのものではない。輪は、自分の外にも残って、町の耳奥で微かに鳴り続けている。
由比堂の戸口まで戻ると、さっきまで感じなかった匂いがわずかに漂った。油ではない、鉄でもない、燃えかすでもない。未知の記号の匂い。碑の文字が夜のどこかで読み直されているのだろう。
階段の上から、猫がひょいと顔を出した。灯りに金の針のような髭が光る。蓮は笑って、指先で空の輪を作ってみせた。猫は見物するふうでもなく、しかし逃げもせず、尾をひと振りして暗がりに消えた。
風が、背中を押した。歩みは軽い。けれど、軽さの底には、さきほど学んだ重さが横たわっている。
あの碑の前へ、また行かねばならぬ。輪の順序が六つあるというなら、次の輪に触れてみたい。壱は始まりであって、終わりではないのだ。
蓮は足を止め、夜空を仰いだ。電線が風に沿って一筋、黒い書を描いている。音もなく、しかし読み取れる書である。
輪は世界の文字であり、護りであり、祈りである。名を呼べば風が答える。名を秘しても、輪は回る。
明日もまた、静かに。誰にも見えぬところで。誰にも奪われぬところで。輪を重ねよう。そう思って歩きはじめると、靴底の下で砂が、微かに、肯いた。




