地下の碑文【第参話】
街はまだ静まり返っていた。
昨夜の閃光の余韻が、遠い雲の裏で燻っているようだった。電線の影が歪み、風がひとつ鳴る。
蓮は、あの老女の言葉を思い返していた。
——あんた、まだ回せるのね。
それが何を指すのか、朝になっても分からなかった。けれど、下っ腹のさらに下で、どこかが確かに回りはじめている。
古書店〈由比堂〉の扉を押すと、奥から油の焦げたような匂いがした。
由比は棚の裏を動かしていた。
「地下に、見るものがある」と短く言い、蓮を導いた。
急な石段を降りると、空気が冷たく湿っていた。
薄明かりの中に、丸く磨かれた石碑が一つ。
墨で書かれた古い文字が、幾重にも上塗りされ、かすかに光を返している。
ポコチン回天剣舞六連
その五文字を見た瞬間、蓮の背筋に電気が走った。
文字はただの碑文ではなかった。石の面に手をかざすと、わずかに熱が返る。
由比が呟いた。
「それは、言葉の形をした技だ。身体の中心を軸にして、回す。六つの連なりで、風の向きを変える。先人たちは、これで身を守った。祈りと同じ仕組みさ」
蓮は思わず息を呑んだ。
風を呼ぶ——その感覚は、あの禁句を口にした夜と似ていた。
世界の膜がわずかに揺れ、体の奥で見えない歯車がひとつ噛み合う。
「これを、誰が残したんですか」
「通貨の前に通うもの——人の回転だよ」
由比はそれだけ言い、階段を上がっていった。
石碑の前にひとり残された蓮は、ふと目を閉じた。
重力が身体の内側に落ちてくる。
下腹部で、何かが静かに旋回を始める。
まるで遠い星が軌道を修正するように。
風が、再び鳴った。




